第45話 本の奴隷【ラブコメ】

 食事を終えて、軽いジョギングをし、風呂に入って汗を流す。

 ふたたび図書館に帰ってくると、暗い執務室の中にランタンの灯りが見えた。


 調理場に立ち寄ってコーヒーを淹れる。


 コーヒーサイフォンが湧き上がるのを待ちながらふと思いつく。

 いつぞやのおかえしというのも悪くないだろう。


 食堂でもらってきたニシンの塩漬け。

 それを野詰みの野菜と共にパンに挟んで、簡単な軽食を作る。


「なにしてるのよ」


 すると、驚かそうとしていた相手がいつの間にやら調理場の入り口に立っていた。


 眼の下には濃いクマ。

 まるでペンの滲んだ手で目元を拭ったような塩梅だ。

 案の定、掌は先ほどまで握っていたペンのインクで薄汚れていた。


 持っているランタンの炎は、調理場に入り込んだ風と、彼女の体の動きにあわせて静かに左右に揺れている。


「なに、お疲れかなと思ってな。夜食でも作ってやろうかと」


「アンタにしては気が利くじゃないのよ」


「なんでそう素直じゃねえかな。ありがとうの一言も言えないのか」


「あーりーがーとー、ごーざーいーまーすー」


 だからもっと素直にって言っているじゃないか。


 ――はぁ。


 やめよう。怒ったところでしかたない。

 そして、彼女を労うために、俺はこんなことをしているのだ。

 逆に疲れさせてどうするんだって話だ。


 ここ数日というもの、睡眠時間を削って本の写本作業をしているリーリヤ。

 彼女にまともな頭の回転を期待したのがそもそも間違いだ。

 そして、そんな彼女につっかかったのも間違いだ。


 俺はいつになく優しい気持ちで彼女から視線を逸らした。


「いいから机に戻ってろ。もうちょっとしたら持ってくから」


「それじゃ足りない。私、今日、食堂にも行ってないのよ」


「ずうずうしいな。何が食べたいんだ」


「シチュー。お野菜がたっぷり入ったホワイトシチューが食べたいわ。別に貴方の愛情は要らないけれど」


「シチュー愛情抜きな。分かった、じゃぁ、作ってもってってやるから、それまで机で仮眠でもしてろ。どうせ昨日もろくに寝てないんだろ」


「よく分かったわね」


 分かるっての。

 お前、執務室と俺達の居住スペースは繋がってるんだぞ。

 作業してる気配なんて伝わって来るわ。


 リーリヤが眼の下のクマをこする。

 ただでさえ濃いクマが、インクを拾ってより濃くなる。

 しかし、それすら気が付いていない。


 顔に注意がいかないくらい、彼女は今いっぱいいっぱいなのだ。


「ほれ、危ないから、執務室へ行ってろ」


 彼女の背中を押して執務室へと押し戻す。

 それだけだとなんだか心もとないので、彼女がよく昼寝をしている、すわり心地のよい椅子に無理に座らせた。


 近くにあったブランケットをひったくると、彼女の膝の上にかぶせる。

 いつもだったらギャースカと、俺のやること成すことに文句を言うリーリヤだが、今夜は文句のひとつも言わない。そのまま、彼女は椅子に背中を預けるや、すぐに夢の世界へと旅立っていった。


「働きすぎなんだよ。いくら図書館に勤めてて写本できる人間がお前しかいないからって、そんなになるまで無理に仕事を請けなくてもいいだろう」


 王立図書館では、王国――いや、大陸中の魔導書という魔導書を集めている。

 その魔導書を求めて、王国内の大学やギルドあるいは軍の研究部隊などから、ちょくちょくと写本の依頼が来るのだ。


 そもそも写本は司書の業務ではない。


 特別に予算を取っており、相応の対価を払ってくれる軍を除いて、それにいちいち答えてやる義理はリーリヤにも俺にもないのだ。


 だが、この真面目な女エルフは、そんな依頼を片っ端から受ける。


 そして、時たまこうして写本の依頼が重なるのだ。

 さらに自動筆記の羽根ペンが足りなくなったりするとこれこの通り。

 自分で写本をする羽目になり自爆してしまう。


 今回はどうしたことか、一度に五つの依頼が重なって、こんな状況である。


 引き受ける前に俺は言ったのだ。

 せいぜい三つくらいにしておけと。

 絶対にペンが折れたりして痛い目に合うぞと。

 別に順番を前後させてもいいじゃないか。適当に理由をつけて伸ばしてもらえと。


 なのに、五つ全部きっちり受けて――。


「ほんとにお人よしめ」


 いやエルフよしか。


 結果こうして人様に迷惑かけているのだから世話がないが。

 他人様に迷惑をかけない範囲で、仕事をコントロールできないなんてバカとしか言いようがない。いったい何年司書をやっているのだ。


 ただ頑張る彼女に向かって、面と向かってそんな言葉はかけられない。


「さて、シチューか。頑張って作るかな」


 穏やかな寝息をたてて机を枕に眠るリーリヤを背に、俺は調理場へと戻った。


 こんなこともあろうかと――という訳ではないが、調理場には意外といろいろな食材が揃っている。昨日も何か自分で作って、材料があることを知っていたのだろう。リクエストされたホワイトシチューは、そこにある食材で充分作れた。


 たまねぎ、にんじんなんてのはもちろん、牛乳までちゃんとある。


 たまねぎを細かく刻んで炒める。

 これまた細かく刻んだベーコンをそこへ放り込む。

 ほどよくたまねぎに火が通り飴色になってきたところで、バターと小麦粉を入れる。

 ペースト状になったそれをいったん外へと取り出して、今度は大きめに切ったたまねぎなど、野菜をフライパンでいためてやる。


 いい感じに火が通ってきたら、先ほどのペーストと入れ替え、牛乳にそれを少しずつ溶かしていく。

 とろみのついたそこに、先ほどの野菜を加えてさらにひと煮立ち。


 クリームシチューの出来上がりである。


 まぁ、家庭料理の中では比較的簡単な料理だ。

 旅先でも、ありふれた材料かつ、保存の効く食材でできるので重宝する。


 さっそくそれを皿に取り分けると、俺は調理場を出てリーリヤの元へと向かう。


 調理時間は半刻くらいか。

 ジョギングから帰って来たころより少し高度を増した月。

 青白い光を浴びて、長い耳先を揺らしているリーリヤ。

 その肩を俺は優しくゆすった。


「おい、リーリヤ、ごはんできたぞ、おきなはれ」


「んが、んぐぐ。んんっ、なに、お母さん、もう朝なのぉ?」


「誰がお前のお母さんだばかたれ」


「あら、マクシム。あぁ、そうだ、ごはん。ありがとぉ」


 ふらりふらりと頭を振って体を起こすリーリヤ。

 その前に、シチューとニシンの塩漬けのサンドウィッチを置いてやる。


 迷わずスプーンを手に取ったリーリヤ。

 リクエストのシチューから、まずはひとすくい。

 たまねぎとにんじんを載せて、クリームシチューをそこに満たすと、そのまま口へと運んだ。はふはふと美味しい吐息が漏れる。


「生き返る。今日は寒かったから、温かい食べ物が滲みるわぁ」


「そらまたなんともご苦労さん。眠気覚ましに、風呂でも入ってきたらどうだ。体も温まるし」


「いいわよ。そんなのしたらもう、今日は仕事する気になれないじゃない」


「ならなくっていいだろ。軍の仕事は優先して終わらせているんだろう。だったら、後は話をつけてさ、遅らせて貰えよ。無理したって誰も喜ばないんだから」


「私が悲しくなるのよ。いいからほっといてちょうだいな」


 なんだそれ。

 飯を作ってやったというのにてんで人の忠告を聞かないでやんの。

 まるでハエかなにかみたいに、手を振って俺を追い返そうとするリーリヤ。


 あぁそう、そんな態度を取るのね。

 だったらもう、ご自由に。


 溜息を残してそこを去ろうとしたとき――。


 ぎゅっと、俺のズボンのベルトを、リーリヤが握り返してきた。


 待って、とも、なんとも、言わない。

 彼女はただそうしている。


「……どうした」


 なんとなく嫌な予感はするが放ってはおけない。

 振り返ると、彼女は無言のままいきなり俺の腹に自分の顔をうずめてきた。


「もうやだ、しんどい、部屋に戻ってベッドで寝たい。お風呂入って、香炉を焚いて、小説とか読みながらごろごろしたい」


「すりゃいいじゃねえかよ。いい歳して、なに甘えてんだよ」


 そっとその頭を撫でる。

 リーリヤは途端に足をばたつかせた。


「やーめーろー、あーたーまーをーなーでーるーなー」


 そんな台詞を言いながらも、リーリヤは俺の腹から顔を離そうとはしない。


 やれやれ。

 ほんと、いい歳して何をしているんだか。

 甘え方の下手糞なエルフなんだから。どうして下手糞なりに、もうちょっと周りを頼らないかね。誰もお前に完全無欠の美人エルフなんて望んじゃいないってのに。


 けどまぁ。

 そんな中で頼られるのだ。


 応えてやらないとな。


「だーかーらー!! なーでーるーなー!!」


「へいへい、分かった、分かった。ほら、暴れるな。せっかく作ってやったシチューが零れてもいいのか」


「……うぅっ」


 やれやれ。

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