雨音が、静かな練習室にも届く。

 私は紙袋から楽譜を取り出し、譜面台の上へと無造作に置いた。

 薄いブルーの表紙を開き、中をぱらぱらと見て驚く。16小節のテーマが延々と繰り返され、何ページにも渡って続いている。ヴァリエーションがあるわけでもなく、コピーしたようにそのままだ。見間違いかと思ったが、最後にはわざわざFineが記してある。


 何気なく入った古本屋でこの楽譜を見つけた。全く知らない作曲家のものだったが、『雨粒の憂鬱』というタイトルが今日の天気とも妙に合っていて、気がつけばレジへと向かっていた。

 とにかく何でもいいからいつもと変わったことがしたかったのだけれど、私に出来たのは、この程度のことだった。


 粗悪品をつかまされたようで余計に気が滅入る。きちんと中を確認しなかった自分が悪いのは、もちろんわかってはいるんだけど。

 このまま弾かないで帰るのも癪だった。雨足も強くなっている。ただでさえ受付で、よくこんな時に来たねって顔をされたのに。


 鍵盤に指を置く。難しい曲じゃないし初見でもいける。でも嫌な予感しかしない。

 呼吸を整え、加えた力で押し出される重たい和音。音楽を掴めそうになると転調し、テンポも微妙に変わり続けるから酔いそうだ。途中、かすかな希望を感じさせるように明るい響きを持つものの、すぐにまた下降し、最初の重たさへと還っていく。


 憂鬱ではあるけど、雨粒の要素なんて全く感じられない。滑らかというよりもねっとりと継ぎ目なくつながる音は、重たく暗い水の中をもがきながら進んでいるかのようだった。


 まるで、私の状況みたい。

 そう思うと、体がどんよりと重たくなる。じわりと目頭が熱くなって、慌てて曲へと意識をそらした。

 そうか。これが雨粒なんだ。泣きたくなるくらい、憂鬱な曲。

 繰り返される音楽は私から集中を奪い、様々なことを思い出させる。


 小さい頃から音楽が好きで、習い始めたピアノも楽しくて、すぐに上達して、周囲からも褒められて。

 ずっと音楽中心で過ごしてきたから、それなりに自分の技量とか立ち位置とかもわかっていたつもりだし、私よりも才能がある人たちなんて沢山いるというのも知っていたつもりだった。

 だけど目指した音大には、想像していた以上に、それこそ掃いて捨てるほどに、沢山沢山いた。そういう人たちは海外留学の話をしたり、音楽業界は厳しいよね、としきりに愚痴っていて、一方の私はいつも先生にダメ出しをされている。


 記憶の中へと飛んだ感覚がふと戻ってきた。垂れ流される陰鬱な響きもボリュームを上げ、鼓膜を揺るがす。

 あと何回繰り返せばいいんだろう。まだ半分も行っていない。でもここでやめてしまうのも悔しかった。

 友達も出来ず、何か少しでも気晴らしがしたいと朝早くから大雨の中うろうろして、一人練習室でこんなロクでもない曲を弾いているなんて、惨めでしかない。

 私はここで何をやってるんだろう。私はどこにいるんだろう。もう嫌だ。うんざりだ。


 叩きつけた音が跳ね返り、飛沫のように散る。そのとき私は、雨粒を見た気がした。


 そうだ。水の中にいるならば、雨粒が感じられるはずはない。

 私は荒れる海の上へと降る雨を想像した。自然と指が力強く動く。陰鬱なだけの曲へ、波のようなうねりが加わった。


 雨粒はどこから来たのだろう。

 空から。その前は、どこかの国にいただろうか。音の繰り返しの中に、私が出来る限りのアレンジを加えた。時には軽やかに、踊るように、また厳かに。


 なんだ、意外と出来るじゃないか。言うほど限界まで、やってなんかなかった。

 誰よりも先にダメだと言い聞かせていたのは、私だった。見下していたのも、心を閉ざしていたのも。


 ただ音の中へと入る。音の奔流へと身をゆだねる。私が忘れていたもの。音楽を始めて、続けてきた理由。苦行だった繰り返しは、楽しむためのリピートになる。

 見えてきたFine。重苦しいのではなく、眠るように優しく終わる。雨粒が、海へと還るように。


 息を深く吐き出すと、拍手の音が聞こえた。驚いて顔を向ければ、練習室の外に人だかり。


 私は慌てて立ち上がる。

 それから楽譜をそっと胸に抱き、ぺこりと頭を下げた。

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