第38日 終末暦6531年 4月7日(木)
終末暦6531年 4月7日(木) 雨 おかゆ
朝はやっぱり消毒液の香りで目が覚めた。あと、少し誰かの話し声が聞こえた。病室にはベッドが8つあって、私以外には誰もいなかった。ベッドの際には棚があって、鎌と鞄が置いてあった。借りたベッドは一番窓際で、クリーム色のカーテンを開けると昨日に引き続いて雨が降っていた。やっぱり怖くはなかった。というか、何で今まで怖かったのかもう分からなかった。
話し声は段々大きくなって、単語くらいなら聞こえるくらいになってきた。
「デパスか……で、トリプト…………まだ作用が……」
「あるいは可能性としては…………でも、子どもには、あまり……」
「……原因は分かって…………傷はないが、そのうち……かもしれ……隔離病棟へ……」
「……気ですか、先生……でも、仕方な……ませんわ」
「そこまで……アタシ…………けど、信じら……」
そこには聞き覚えのある声が混じっていた。最後のセリフは、ミナミさんのものだ。そして、病室の扉がガラリと開いた。白衣の小さな男の子(注:私より身長は高い)を先頭に、同じく看護師姿の男の人と女の人、そしてミナミさん(注:白のブラウスに水色のフレアスカートだ)がまっすぐ私のベッドまでやって来た。四人とも変なお面をつけていた。それがとても不気味に思えて、思わず自分の体を抱き締めた。
男の子はベッドの脇で丸椅子に座って、私の顔を覗き込んだ。男の子は白いキツネのお面をしていた。他はそばに立っていた。
「こんなにうるさいところにごめん。けど、ここしか今はベッドの空きがないんだ」
「……え、ああ、はい。大丈夫です。むしろ、ベッド、ありがとうございます」
「気にしないで。あまり堅苦しいのはなしにしよう。僕の名前はマツウラ。この小児科の医者だ。こっちは僕の助手のマツエとマツノ。ミナミのことは、もう知っているよね」
「初めまして。マツエと申します」
「マツノですわ。よろしくお願いいたします」
マツエさんとマツノさんが小さく会釈をした。
「ミナミから少し事情は聞いたけど、君の方からも少し良いかな?」
マツウラくんは”答えたくなければ答えなくて良いよ”と前置きをして、質問をいくつかしてきた。”どうして病院通りにいたのか”とか”朝何を食べたか”とか”最近眠れているか”とか、簡単な質問ばかりだった。答えられないものもなかったので、次々とその質問に答えていった。たぶん、その結果をマツエさんがカルテっぽいものに書き込んでいた。
「うん、やっぱり君は病気だ」
最終的にマツウラくんはそう言った。
「随分、失礼なことを言うんで……言うんだね」
堅苦しいのはなしにしようと言われたのを思い出しながらも、私はちょっとむっとしながら言った。何の検査もしないで、ただ質問をしただけで病気だと判断するのはおかしいと思ったのだ。
「何ですって、貴女、」
「やめろ、マツノ」
マツノさんがそれに対して声を荒げて、マツエさんが彼女の肩を抑えた。
「病気を指摘するのが失礼なことだなんて、君こそ失礼な人だな」
マツウラくんはそう静かに言った。静かさの中にわずかな圧力を感じて、口をつぐんだ。良いかい、とマツウラくんは諭すようにこう続けた。
「生あるものは、みんなすべからく病気なんだ。それは自分が存在する限り持っているもので、避けようがない。僕もマツノもマツエもミナミも、例外じゃない。誰も彼も病気なんだ。しかし、僕があえて君のそれを指摘したのは、君にその自覚がなさそうだったのと、君の病気が手遅れ一歩手前まで進行しているからさ。病気であると自覚しているのと自覚していないのとじゃ雲泥の差だ。自覚していれば抑える手立てもあるけれど、自覚がなければそのままそこに、はまっていくしかなくなるからね。すっかりはまってしまったら、それこそ助けようもない。助けようとすれば、こっちも巻き込まれてしまうから」
彼の説明はある程度納得できるものだった。この理屈で行けば、きっと私は彼にむしろ感謝しなければならない立場なのだろう。
「じゃあ、私はどうしたら良いの?」
病気を治すために何をすれば良いのだろうか。マツウラくんは医者だから、方法を知っているはずだ。仮面の顔が少し動いて、マツウラくんが少し頷いたのが分かった。
「どうしたら良いかは君が選択してほしい。僕は確かに医者だから治療方法は知っているけれど、それを君に無理強いしようとは思わないんだ。まず、君は自分の病気を治したいのか否かを考えてほしい。そしたら、僕はそれに応じて君が今すべきことを提示できると思うんだ」
「そう。分かった」
ここでマツノさんが時計を見ながら”マツウラ先生、そろそろ”と促した。たぶん、このとき他の患者さんを見に行ったのかもしれない。とにかくマツウラくんたちは会釈して病室から出て行った。病室はまた静かになった。ミナミさんはそれまでマツウラくんが座っていた椅子に腰かけた。
「どうするつもりなの?」
ミナミさんに言われて、すぐに答えることができなかった。
私は病気だ。けれど、それは私だけじゃなくて、みんなそうで。
そして、自分の病気について私は選択しなきゃいけないけれど、本当のところはそんなことどうでも良いって思っている。
「知恵水槽のテリトリに行きたいんです、私。どうしても」
「それはさっきの問診でも言ってたわね。トキノと怪盗がいるから?」
「そうです。急いで行かないと」
トキノが泣いているかもしれない。私はトキノを一人にしたくない。私がトキノに一人にされたくないのと同じくらいそう思う。今の私ならトキノを救えるはずだ。
けれど、ミナミさんはそんな私に
「デッコピーーーン!!!」
デコピンを食らわせて来た。痛かった。ものすごく。後から鏡で確認したけど、ちょっと赤くなっていた!!
訳が分からなくておでこを抑えていると、ミナミさんが大きくため息を吐いた。
「本当におバカさんよね~。どうしてそう急ぐのかしら?」
「だって、トキノが心配だから」
「お・バ・カ・さ・ん」
今度は区切って言われた。そこまで言われると流石にへこむ。
「そんな捨て身で来られたってね、重いだけなのよ。重すぎる思いは、受け取る方も持ちきれなくて落っことしちゃうんだから。だから、普通は半分こするのよ」
「半分こ?」
ミナミさんの表情は仮面で見えなかったけど、ふっと息を吐いて笑っているようだった。
「そう。半分こ。相手へ届けたい気持ちの半分は、ぐっとこらえて自分に向けて、もう半分だけ相手に渡す。そうすれば自分も相手も重くないの。だから、トキノへの思いの半分は、アナタのその選択に使いなさいな。もう半分を渡しに行くのはそれからでも遅くないでしょ?」
それにね、とミナミさんはびしっと人差し指を立てた。つけ爪がキラキラと目に刺さるくらい輝いていた。
「せっかくアタシが帰ってきたのよ~?御伽草子のテリトリのランキング結果の話とか、聞きたいだろうなって思ったんだけど?」
「え?」
御伽草子のテリトリのランキングの話?
御伽草子のテリトリと聞いて思い出すのは、先日館長に借りて今も持っている『終わらない話』だ。ランキングというのはついぞ聞いたことがない。初耳だ。
「何のことですか?」
「え?」
ミナミさんも私と同じように困惑したような声を発した。
「でも、だってアナタ、先月……サカマキアルマジロクラブにも来てたし。アレ?」
ミナミさんはしばらくごにょごにょと言いながら首を傾げたり、うーんと唸ったりしていたけれど、最終的に
「アナタ、覚えていないの?」
と尋ねた。何のことだか分からなかった。
「何がですか?」
「だから~ホラ、先月の話よ。本当に覚えていないの?」
覚えていないも何も、知らないというか何というか。何も言いようがなかったので言葉に詰まった。
「あ~そうね。何と言うか、今日はまだ混乱しているのかもね。今日はひとまず帰るわ。こんだけうるさい病室に一人は心細いだろうけど、またお見舞いに来るから。そのとき、色々詳しく話してあげるわね」
最終的にそう納得するように言われた。ミナミさんはハイヒールの足音をカツカツと鳴らしながら、病室を出て行った。私は一人で、その姿を見送った。たぶん、ポカンとした顔をしていたと思う。
病気。手遅れ。重い思い。御伽草子のテリトリ。サカマキアルマジロクラブ。ランキング。
分からない単語ばかりが頭の中を駆け巡った。
何故か、数日前に風見堂で嗅いだ甘い香りを鮮明に思い出した。余計に頭が重くなったけれど、その香りを思い出したのは本当に一瞬で、次の瞬間にはどんな香りだったかすら思い出せなくなっていた。
頭を抱えて、窓の外を見ればまだ雨が降っていて、やっぱりそれを怖いとは思わなくて。でも、不思議と怖くないという事実が、少しだけ怖いと思った。
マツエさんが夕飯にまたおかゆを作ってくれた。今度はデザートにウサギ型のリンゴが付いていた。
追記1:明日までに『終わらない話』を返さなきゃいけないけど、無理そうだ。図書館に出勤も難しそうだし、どうしよう。
追記2:4月8日(金)…マツエさんが図書館に連絡を入れてくれていたらしい。とりあえず、来週末までは出勤も本の返却も待ってくれるそうだ。
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