第37日 終末暦6531年 4月6日(水)

第37日 終末暦6531年 4月6日(水) くもりのち雨 おかゆ


 また曇っていた。朝のうちはまだ雲が薄くて、薄く日も射していた。できればすぐにでも知恵水槽のテリトリに行きたいけれど、今のところ行く手段がない。

 だからと言って、アパートでじっとしているわけにもいかなかった。トキノを見つけて、怪盗には私から奪ったものを返してもらいたい。もどかしくて、曇り空のテリトリをまた歩いて回ってみることにしたのである。


 そういえば、ここ数日、『終わらない話』と日記を肌身離さず持っている。寝るときもでかけるときもだ。何故そうしているのか自分でもよく分からないけれど、そうしなきゃいけないという気持ちは確かにあって。

 『終わらない話』に関しては借りものだから失くしたり乱暴に扱ったりしてはいけないという理屈はもちろんある。けど、ここまでするのは過剰すぎではないかとも思わないでもなかったのである。それは今も同じで、私は手元に確かにそれを持っていて、何故ここまでして持ち歩くのかまではよく分かっていないのである。

 日記も普通はわざわざ持ち歩くものじゃないのに、持っていなきゃいけないような気がしていた。


 今朝も、いつもの大鎌と『終わらない話』や日記などが入った鞄を持って外に出た。アパートから見た時よりも雲が段々分厚くなっているようだった。空気は湿って、ぐちゃぐちゃとサイハテをかき乱しているようだった。

 アパートの裏にある芝生の公園を抜けると、大学病院のある通りに出る。ここはいつも消毒液の香りがするから、色んな人が怒っているらしい。不快な香りだ、こんなところに病院を作るなと。私もそういう香りは苦手だ。胸がきゅっと苦しくなる。だから、文句を言う人の気持ちも分からなくはないのだ。でも、そういうことを言う人って自分が病気になったときは、どうするんだろう。そういう点では、ちょっと疑問が残る。

 大学病院のある通りは、他にも歯医者さんとか脳のお医者さんとか心のお医者さんとか小さい病院がいくつも並んでいる。病院の合間には時々、赤い十字架が何本も立っている空き地がある。元々そこには病院があったはずで、なくなってしまった病院に敬意を表してこのような形になっているらしい。

 通りには人影はなくて、代わりに影が歩いていた。影は特に小さな病院を囲むようにして踊っていた。屋根の上で騒いでいるのもいた。やっぱり見過ごせなくて、私は道を蹴りだして、屋根の上に飛び乗った。影はこんな歌を歌っていた。


「月曜だろうが火曜だろうが」

「自転車操業の神様に」

「なじられた感謝をしてやろう」

「水曜だろうが木曜だろうが」

「血反吐吐いてる神様に」

「殴られた感謝をしてやろう」

「金曜だろうが土曜だろうが」

「年中無休の神様に」

「蹴られた感謝をしてやろう」

「そして日曜になったなら」

「死にたがりの神様に」

「恨みつらみを祈ってやろう」


 影は実体がなく、黒いだけ。そして私たちとは違って”受け入れることができない存在”だ。と言っても、実はこれはトキノの言葉の受け売りだから、実際の意味はよく分からない。ただ、図書館に影を記す依頼も来るし、影がいると何となく嫌な気分になる。だから、影は記さなきゃいけないと、やっぱりとっさに思うのだ。

 屋根の上の陰は5体で、飛び上がった私をゆっくりとした動作で眺めていた。正確には眺めているかどうかなんてよく分からないんだけど。でも、首っぽいところが動いていたからたぶん見ていたと思う。雨水をためる貯水タンクの上から見下ろすと、影たちがわらわらと不規則に動いた。影につられて空を見上げると、雲が一面灰色になっていた。震えているように見えた。何かに似ているなと思ったら、泣き出す寸前の人の顔だった。

 ああ、きっと雨が降るんだ。急がなきゃ。

 私はそんなことを思って、貯水タンクから飛び降りて大鎌を振り下ろした。


 影は悲鳴も上げずに記されていった。一応は鎌を避けるように動くのだけど、動作がゆっくり過ぎて避けるというよりは、鎌の動きに合わせてリズムを取っているようだった。

 最後の一つを横に薙いで、やっと病院は静かになった。仕事でもらっている予備の本にはきっちり彼らが記された。今度仕事に行くときに一昨日の影も含めて提出しておかなければ。


 病院の屋根から降りて、道々の影を記して回った。人通りはなかった。病院の通りだから当然だ。道を歩き回るほど元気なら、ここには来ない。大概、そそくさと目的の病院に行き、そそくさと家へと帰っていく。まるで病気になるのが後ろめたいかのように。

 ならどうして私は今日あんなところに行ったのだろう。誰もいないなら、トキノや怪盗の手がかりは得られないはずで。強いて言うなら、病院通りは怪盗やトキノが去っていった方角ではあるけれど、彼らは病院通りなんかよりずっと先、たぶんテリトリの外まで行ってしまっているのだ。行くのなら、せめてその先の金魚草駅あたりまで行くべきだったはずなのに。


 しばらく無心になって影を倒していた。だから、雲がどんどん膨れ上がって、そのうち雨を降らし始めたことにすぐには気づけなかった。仕事用の本をしまって空から落ちてくる雨を浴びた。

 怖くなかった。まったく怖くなかった。そのことに不思議と驚きはなくて、でも、雨が怖くなくなったということが嬉しくて。空に向かって目を見開いてみせると、さらにその嬉しさが爆発的に増していった。キラキラと輝く雨粒が、新鮮なトマトのように見えて心から素敵なものに思えた。

「あ、ああ……」と声を上げて爆発で火照った体を覚まそうとする自分がいた。嬉しさの爆発に巻き込まれた自分とそれを傍らで見ている自分。二つの自分がいるようだった。

 雨が怖くなくなったということをじわじわと認識して、嬉しさがどんどん増えていって。これなら大丈夫だと思った。雨が怖くなくなった私のところになら、トキノはきっと帰ってきてくれる。いや、きっと私自身がトキノを迎えに行くことだってできるはずなんだ。雨の怖さがなくなったなら、何でもできる気がするのだ。

 何も怖くない。恐怖なんかない。私は一人でも大丈夫。

「待っていて、トキノ。今、行くから」

 ポロリとそんな言葉漏れたときだった。



「恐怖なんかないなんて、それって一番怖いことだぞ。そうじゃないか、嬢ちゃんよ?」



 急に声をかけられて流石にヒヤッとした。後ろを振り返ると、ビニール傘を持った男の人が真後ろに立っていた。その人物は私と同じようなフード付きのマントを着ていた。色は白。くしゃくしゃの黒髪に、あごには同じ色の無精ヒゲも生えている。そして、その顔には暗い瞳。けれど、暗い中に楽しそうな光もあって、その目は困ったように垂れていた。

 マントの中は、白いTシャツにダボダボのジーンズだ。

「誰ですか?」

「SSRキャラのおいちゃんだ。どうやら嬢ちゃんはガチャ運がすこぶる良いらしい。いや、今回の場合は悪いのかも分からんか。とりあえず、見てらんなくなったから出て来たってことで」

 おいちゃんと名乗ったその人は、ビニール傘をくるりと回して、私をずっと見ていた。怖くはなかったけど、見透かされているようであまり良い気分ではなかった。

「嬢ちゃんよ。おいちゃんを忘れちゃったかい?」

「すみませんが知りません」

 男は悲しそうにしていたが、こっちは本当に見覚えがないし、知らない。ただ、イライラした。気分が悪くて、この人には早く目の前からいなくなってほしいと思った。

「可愛そうにな。こんな小さな女の子が、」

「小さな女の子扱いしないでください!!」

 私は怒鳴っていた。

「可愛そうじゃありません!私は何も怖くなくなったから、トキノは帰ってくるんです!!!もう情けない私じゃないもの!!何でもできる私だもの!!一人でだって大丈夫なんだから!!」

 そう言っても男の目は変わらなかった。それが悔しくて悲しくて、どうしたら良いか分からなくて、鎌を持った手に力がこもった。

「怖くて良いんだよ、嬢ちゃん。怖いままで良いんだ」

 男はどこか諭すように、言い聞かせるように言った。相変わらず傘を回していた。

「怖けりゃ怖いって、誰かに言って良いんだ。いつか自分自身の意思で怖さを克服するまでは、泣きじゃくって誰かにすがれば良い。怖いものを怖くないって嘘を吐くのだけは絶対にダメだ」

 私は嘘なんか吐いていない。怒りで視界が霞んでいって、男の姿もザラザラとあまりはっきりしなくなった。

「あー、やっぱ無理やりは厳しいってことか、これ」

「一体、貴方は何を言って……」

「嬢ちゃんこそ、”トキノ”っつったり、”一人で”っつったり、支離滅裂だぞ。……まあ、何だ、おいちゃんにもできないこととできることがあってだな。今は”できない”を無理して”できる”にしてんだ。まあ、それも限界だし、帰るとするか」

 キラキラ輝く雨の中、その男は笑っていた。いきなり出てきてごちゃごちゃ言ってどこかへ帰っていくなんて勝手すぎる。でも、目の霞みは増えるばかりだった。

 辛うじて、男が手を振ったのは見えていた。

「自分勝手じゃないやつなんていないんだ。だから、世界はぐるぐる回ってる。誰かの”勝手”でイカレちまった分を混ぜこんで、どうにかこうにかするんだよ。だから、嬢ちゃん、」

 男は何か言った。聞こえなかった。霞も濃くなって、男はあっという間に見えなくなった。


「お嬢ちゃん、お嬢ちゃんってば!!」

 視界が揺れて、体が揺れた。今度は知っている声だった。

「ミナミさん……」

 声が掠れた。何だか力が抜けていて、ダメだった。さっきまでの嬉しさの爆発が嘘のようだった。

 ミナミさんはしゃがみこんで、私に視線を合わせていた。すごい量のつけまつげが、瞬きするたびにバサバサと揺れていた。青いスパンコールのパンツスーツを着たミナミさんは脇に紫色のキャリーケースを置いていた。どこかへ行っていたのだろうか。

 病院通りはまだ雨が降っていて、私もミナミさんも頭からつま先まで濡れていた。

「アナタ、酷い顔よ。こんなずぶ濡れで。トキノはどこなの?」

「トキノは行っちゃった……怪盗が来て」

「あぁん、もう。オトコって役立たずね。とにかくアタシにつかまってちょーだい。行くわよ」

 つかまって、と言いながら、ミナミさんは鎌を自分のキャリーケースに括り付け、片手で私を抱え上げ、立ち上がった。そして、足早に駆け出した。

「どこに行くんですか?」

「バカね!病院に決まっているでしょ!!!小児科病院!アタシの知り合いの!!」

 叱り飛ばされながら、ヒールの靴で雨の中を走るミナミさんはとっても器用だなと思った。


 マツウラ小児科。

 病院通りの外れにあるその小児科病院に私は連れてこられた。定休日だったようだけど、ミナミさんが何事か言うと、病院長のマツウラさんが私に病室のベッドと温かいおかゆを提供してくれたのだった。桜の形に切ったニンジンが乗っていた。

 ミナミさんとマツウラさんはいくつか言葉を交わして、マツウラさんは病室からいなくなってしまった。ミナミさんも今日はもう帰ると言い、

「それ食べて早く寝ちゃいなさい。何してんだか知らないけど、トキノがいないのに無理しちゃダメよ。明日また来るから、それまで安静にしてなさいね」

 と言って投げキスをしてくれた。


 おかゆは色んな具が柔らかく煮てあって美味しかった。自分でも真似できるだろうか。トキノに作ってあげたい。

 今はベッドで日記を書いている。こうしてベッドに入ってしまうと、体がぐっと重くなってひたすらだるかった。ここまで書くのも、一苦労だ。

 あのときの何でもできるという爆発した気持ちはどこへ行ってしまったのだろう。不思議でならない。


 追記:疲れた。眠い。明日はちゃんと起きられるかな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る