第361話

 どうやら彼には少女の声が聞こえなかったらしい。

 不思議がる顔のない男に、少年は言う。

「声がした……。風が呼んでいた……」

「風?」

「そっちへ行ってはいけないと」

 そっち。

 野花が咲き、家々が並ぶ温かな地。

 優しき家族が待つ、帰るべきはずの場所。

「まったく……」

 少年の言葉に顔のない男はため息をつく。

 そして彼は言う。

「それは魔女の声だ。耳を貸しちゃいけない。悪い魔女は君を恐ろしい怪物の餌にしようとしているのさ」

 本当にそうなのだろうか。

 あの声がそんな悪意を持っているようには、少年にはどうにも思えなかった。

 しかし、彼には記憶がない。確信がない。

 知る事は目の前に、石橋が架かっているという事。

 その先に顔のない男が誘う温かな家があるという事。

「橋を超えればもう怪物は追ってこれない。魔女の声も聞こえなくなる。さぁ、だから早く行こう。こんなところでぐずぐずしていたら怪物に追いつかれてしまう」

 後ろ髪を引かれながらも、少年は男の言に従い石橋を渡ろうとする。

 けれども、踏み出そうとする足が動かせない。

 意思に反し、少年の足はまるで地面にはりついたように動かなかった。

 拒絶していたのだ。

 自分の体の内にある何かが、目の前の石橋を渡る事を。

 顔のない男の誘いに乗る事を。

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