第3話

 コーヒーをすする。その自分がコーヒーをすする音が煩わしいほど、気分が悪い。早く寝台車に乗ってベッドの上に寝転がりたかった。そんな僕をユカリさんは覗き込む。

「朝ごはん、美味しいよ。食べないの?」

「食べないんじゃなくて、食べられないんですよ」

 僕はそう答えたあと、再びコーヒーをすすった。

「自分の飲めるお酒の量を見誤るなんて、まだまだ若いね」

「それは年齢関係ないんじゃないですか? それに、僕たちってそんなには離れていないですよね」

「何を言っているのよ、十歳は違うのよ」

「ほんとうに?」

「だって、君は大学生でしょ? 大学って、確か十八歳からいくところだよね」

 彼女はたばこを灰皿に押し付けて火を消した。灰皿にはすでに数本のタバコが薪をくべるように積み重なっていた。ヘビースモーカーの人は海外に行くたび、たばこをリュックいっぱいに詰め込んでくるのだろうか。

「大学って楽しい?」とユカリさんは質問する。

「どうでしょうね」

「ずいぶんと他人事のように言うのね」

「一般的に言ったら、楽しいところなんだと思いますよ。でもまあ、僕にとっては特に価値があるものではなかったように思いますね」

「なかったって、もう過去形を使っちゃうのね。卒業するまでに、楽しいことがあるかもよ」

「もうあと半年で卒業ですけど、期待できないですね」

 ユカリさんは笑みを浮かべたあと、「死ぬ前に私も一度大学に通ってみようかなと思っていたのに、その必要はどうやらなさそうね」と言った。

「そういえば、僕はなんて呼べばいいですか? 姉のことって、なんて呼べばいいんですかね。僕は一人っ子なので、そこらへんはよくわからないんですけど」

 ユカリさん、と呼ぶのも恥ずかしいけれどお姉ちゃんと呼ぶよりは100倍マシに思えた。心配する僕をよそに、彼女はあっけらかんと言った。

「それね、よく考えてみたんだけど、いくらなんでも無理があり過ぎるからやめようと思うの」

「やめるだって?」

「あれ、姉弟がよかった? どうしてもって言うのなら、こっそりお姉ちゃんて呼んでもいいわよ」と言う。すでに高橋婦人に姉弟と言ってしまったことと、その高橋婦人から会ったことは内緒にしてほしいと言われたことを思い出す。そういえば、何か揉め事があったのかと思ったけれど、昨夜にそのようなことがあったわけではなさそうだ。ユカリさんは昨日よりも元気があるように見えた。

「一番わかりやすく、一人旅同士で意気投合したってところでいいんじゃないかしら。旅行先での年の差カップルというのも、いささかロマンティック過ぎるような気もするけど。呼び方は、ユカリさんってところかな」

 そろそろ、チェックアウトしましょうかと言い、彼女はたばこの火を消して、席を立った。僕もそれについていく。

 ホテルをチェックアウトしてからは、シベリア鉄道出発の十五時までは自由行動だった。僕たちは天気がよかったので噴水のある公園のベンチで時間をつぶした。僕のことはほっておいて観光をしてきてくださいとユカリさんに言ったが、彼女は迷子になりそうだと僕の横に座り、ずっと雲を眺めていた。僕はミネラルウォーターを片手に、一緒に雲の流れを静かに眺めた。正午になり近くのスーパーに行き、それぞれ昼食を購入した。僕はマッシュポテト入りのピロシキとミネラルウォーターを、ユカリさんはハムの挟まったサンドウィッチを買い、再び公園のベンチへと戻った。初めて一緒に過ごす相手だと言うのに、不思議と居心地は悪くなかった。ユカリさんはときどき遠くを見つめ、ここに魂がないような、そんな表情をしていた。ユカリさんもまた、何か思うところがあって一人旅に出ているのだろう。同じ心境だから、こんなに落ち着くのかもしれない。ユカリさんのような姉ならば、いても悪くないなと思い浮かべてみると、少しだけ頬が熱くなる。

 僕たちは出発時刻が近づいてきたので、ウラジオストクの駅へと向かった。駅前に着くと、ツアーコンダクターの人から乗車券を手渡された。七日間、九二九七キロメートルの長旅がいよいよ始まる。途中イルクーツクという駅で降り一日滞在するが、それ以外はずっと車中で過ごすことになる。

 僕たちはホームに向かうと「ロシア号」はすでに到着していて、確かな存在感を放っていた。その迫力に思わず息をのんだ。ワインレッドの電気機関車はどこか社会主義のなごりを感じさせた。この機関車一両で、十数両続く客車を引っ張っていくのだからすごい馬力だ。僕たちはロシア号に沿ってプラットホームを歩いていく。二両目は郵便車のようで、三両目から等級ごとに寝台車が連なっていた。五号車までは青緑色、それ以降は赤茶色で塗装されており、錆び付いた窓の縁は、過酷な長旅を繰り返している証しとしてどこか誇らしげに見えた。僕たちの指定された八号車の先にはPECTOPAH(レストラン)と大きく書かれた食堂車が二両連結されていて、さらに先には寝台車がまだ続いており、計十六両もつながっていた。

 高橋夫妻の姿はホームで見かけなかった。ツアーコンダクターは僕たちで最後だと言っていたから、もう寝台車の中にいるのだろう。

「どうして高橋夫妻は二人部屋を選ばなかったんですかね。というか、新婚旅行がシベリア鉄道完走って、僕だったら絶対にそんな選択はしないですよ」

「まあ、変わっている人だからね」と、ユカリさんは小さくつぶやいた。

 僕たちは八号車にいる女車掌に乗車券を見せて、高い三段式ステップに足をかけ、よいしょと荷物を持ち直してから寝台車に乗り込んだ。部屋の扉を開くと、高橋さんは待ってましたと言わんばかりの表情を作った。

「もう来ないのかと思ったよ。感動の再会に浸り過ぎて、シベリア鉄道の旅をすることを忘れちゃったのかと」

 そして高橋さんは婦人に向かって、

「なあ、生き別れた家族と出会えるなんて、こんなロマンティックなことはない。いったい、どれくらいの確率なんだろうね。おそらく、古本屋へ泣く泣く手放したお気に入りの本が、また自分の手元に戻ってくるくらいの確率かな」と言った。

 ユカリさんは僕の顔をちらりと見たあと、無言で扉を閉めた。僕はいつもの苦笑いで、高橋夫妻に小さく頭を下げた。高橋婦人は僕の方に視線を送らなかった。

 人には会ったことは言うなと言っておいて、旦那さんには言うのか。ユカリさんの言葉も、高橋婦人の言葉も律儀に守っている自分の方が、なんだか子どもじみているように思えてくる。

 寝台車の通路はすれ違うのが難しいくらい狭い分、部屋の中は思っていたよりも広かった。部屋の中心も通路になっていて、その窓側には丸テーブルが一つある。大きな窓は緑色のカーテンで完全に覆い隠すことができるようになっていた。両側には二段ベッドがあり、僕たちは空いている左側のベッドを使うことになった。その二段べッドには手すりがついておらず、寝相が悪いと上で寝る人はそのまま転げ落ちてしまいそうだった。ユカリさんは「私が上でいいよ」と言い、荷物を上に置いた。その声には、いくぶんかの緊張感が認められた。

 僕も荷物をベッドにのせて、そして高橋さんの会話に応じた。姉弟であることには、それ以上はつっこんでこなかった。今日は何をして過ごしたのか、そんな話をした。彼は中央広場の革命戦士の像の前にいた鳩の話――どことなく日本の鳩と顔が違っていたという、ほんとうにどうでもいい話をし始めた。僕が愛想笑いをしていると、遠くでかすかに「ブウァン」と警笛が鳴り、ロシア号は静かに動き始めた。十六両という長い長い編成であることを感じさせない、静かでゆったりとした発車だった。しばらくして、ユカリさんがベッドから降りてきた。

「お手洗いどこかな」とユカリさんは言った。

「扉を出て右側の奥にありますよ。水洗ではないと話には聞いていたけど、そのまま線路に垂れ流しってのもなんだか妙な解放感だ」という高橋さんの言葉を聞いたのか聞いていないのか、ユカリさんは僕の顔を見つめ「迷うと嫌だからついてきて」と言った。実際のところ、迷いようがないのだけれど。

 扉を出るとすぐにユカリさんは「いつ言ったの?」と聞いてきた。姉弟のことだろう。僕は「朝、ユカリさんがレストランに来る前に」とだけ答えておいた。ユカリさんは本当にトイレに行きたかったらしく、僕は狭い通路で彼女が用を足すのを待った。彼女は出てきてすぐに、

「ほんとうに妙な解放感ね」とどこか嬉しそうだった。

 部屋に戻るまえに、僕たちは寝台車と寝台車の連結部分に向かった。シベリア鉄道は全車両禁煙らしいが、車両の間で車掌や乗客たちがたばこを吸っていると、ツアーコンダクターから情報を入手していたためだ。ユカリさんはどこか神妙な表情でたばこをふかしていた。僕は寒さに耐え切れず、通路に戻り窓から見える景色を眺めた。

 僕たちはそのあと部屋に戻り、下のベッドに座った。ユカリさんは僕の左側に座り、そして僕の左手に手を重ねた。あまりにも自然に。そして目をつぶり、僕の肩に頭を乗せた。

 高橋さんは目を丸くして小さく笑ったあと、奥さんに「ほら、俺の思った通りだろ」とつぶやき、結婚式で久し振りに会ったらしい従姉弟の話を小さな声でし始めた。

 それ以降、ユカリさんの狙い通りと言っていいのかわからないが、彼らが僕たちに突っかかってくることはなかった。僕は高鳴る鼓動を抑えながら、その気持ちを紛らわせるように窓から景色を眺めた。都市はすぐに姿を消して、湿地帯と白樺の木々が広がっていた。人の気配はなかった。時間が経過しているのを忘れるほど代わり映えしない景色が続いたけれど、少しも飽きはこなかった。ユカリさんも僕の肩で、静かに呼吸を重ねながら、その景色を眺めていた。

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