第1話③

 娼館四階の廊下には人が集まり始めていた。従業員やこれから部屋に入る客だけでなく、部屋の中にいた客と娼婦たちまでドアから顔をのぞかせている。少女が壁を殴り壊したときの破壊音と、そのあとふたりが暴れまわっていたときの物音とで、なにかあったことに気がついたのだろう。

 アルはそんな人々の間を次々すり抜けて走った。

「くけっ、くかけけけけけけけッ! ションベン臭い小娘がオイラにつっかかるなんて、百万年早いんだっつーの! お小遣いも手に入ったし、夜の街へ繰り出すとしようかねぇ!」

 高笑いしながら、戦利品である革袋を両手で弄ぶ。少女のベルトにぶら下がっていたのを、煙にまぎれて失敬したのだ。重さからして中身はあまりなさそうだが、イラついた心を癒す治療費くらいにはなるだろう。

「逃がさないのです」

「うげぇ!」

 聞こえた声に振り返ると、少女が猛烈なスピードで追い上げてきていた。声をかけられていなかったら、油断している間に追いつかれていたかもしれない。

 それにしても―――

(おっかしいな……。眠り薬も目潰しも、まともにぶち当てたはずなんだが……)

 拡散性と引き換えに効力の弱まっていた眠り薬はともかくとして、眼と鼻をつぶすための薬球は明確に攻撃用である。低級であれば魔物にすら通用する逸品だ。人間の、それも女子供が浴びて平気でいられる代物ではない。

(まさかあのお嬢ちゃん……、相当な鈍チンか?)

 単に鈍いだけなら、重ねて薬を浴びせかければそのうち通用するかもしれない。仮に通用しなくても、薬を撒き散らせば煙幕代わりにはなる。

 アルは折よくたどり着いた階段の手すりに手をかけると、三階の踊り場めがけて飛び降りた。着地するや足元に薬玉を叩きつけて、紫色の煙を散布する。運悪く踊り場に居合わせた客と娼婦が、とろんとした顔になってその場に膝をついた。

 煙で姿が隠れている隙に、アルは三階の廊下へ向かった。追っ手が二階へ向かってくれることを祈りながら。

 が、そううまくはいかなかった。足音が後ろから追いかけてくる。

「逃がさないのです」

「うるせえ! 他に言うことねぇのか!」

「必ず殺すのです」

「勘弁してくれよ本当にッ! なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだオイラがッ!」

 金をせびったり財布を盗んだりしたことを完全に棚に上げて、アルは自分が不幸な被害者であるかのように悲痛な声を上げた。実際のところ、どうしてこうも執拗に追いかけられているのか謎だったが、探偵遊びをする暇はない。

 アルは両開きの窓めがけて飛び蹴りをして、ガラスを砕いて屋外へと脱出した。ガラス片と一緒に落下しながら、娼館の外壁めがけて薬球を投げつける。ツタに覆われた壁にぶつかった薬球が炸裂すると、辺りに緑色の煙幕が張られた。

 今度のはただの煙玉だ。真下の地面にも同じものを投げてから、通りかかった開きっぱなしの窓の枠に手をかけた。片手でぶら下がったものだから肩がひどく痛んだが、死ぬよりマシだ、と奥歯を噛み締めて堪えた。煙幕が消えてしまう前に、窓枠を越えて建物の中に入る。

 廊下に寝転がって呼吸を整えていると、外から、なにかが地面に落ちる音が聞こえてきた。少女がアルを追って飛び降りたのに違いない。そこにいない標的を探して、明後日の方向へ行ってしまうがいい。

「へへっ……、ざまぁみろ」

 汗を滴らせて清々しい表情を浮かべているが、アルのしたことといえば恐喝未遂と窃盗である。さわやかさのかけらもない。それに、とても褒められたものではない。

「とにかく……、今はどっかの部屋に隠れて休んでおいて、それから晩飯を食べに―――」

「行かせないのです」

 すぅ、と。視界に知った顔が現れた。

 寸前までの満足気な表情は何処へやら、アルの顔面は恐怖に引きつった。

「おまえ、なんでここに……」

「地上にあなたの着地した痕跡がありませんでした。だから戻って来ました」

「ここっ、二階っ……」

「この建物の外壁はツタに覆われているから手がかりは十分なのです。そもそも最初もそうしてこの建物に侵入したのです。正面から入ろうとしたら入り口で止められてしまいました」

 当たり前だ。年端もいかない少女を、雇う以外の目的で招き入れる娼館などあるものか。アルは余程ツッコミを入れてやりたかったが、驚きで舌がもつれて言葉にならなかった。

「お陰で間違って隣の部屋に入ってしまいましたが、まあいいでしょう。こうしてきちんとあなたを捕まえられたのですから」

 立ち上がろうとしたアルの右肩を、少女がブーツの踵で踏みつけた。

「ぐぁっ」

「もう逃がさないのです」

「くそっ、これでも……、ぎゃっ」

 今度は逆の足が、アルの左手首に踏み降ろされた。薬球がアルの手からこぼれて床の上を転がる。

「喰らいません。どうやら危険な薬品を多数所持しているようですね。油断も隙もない。さすが、ひとつの町を滅ぼした男はやることが違うのです。―――そういえば、あのときもあなたは毒をまき散らしていたのでした」

「なん、の、話だ……?」

「とぼけても無駄なのです」

 少女はアルの上に馬乗りになって、鼻と鼻のぶつかるほどの距離まで顔を近づけた。 

 ルビーの目が、ほぼゼロ距離でアルを見据えた。

 静かに激しく殺意を燃やす炎の瞳。そこには地獄があった。憎悪を糧に赤黒く燃え盛る灼熱地獄が。視線すら介さずそれを目の当たりにしたアルは、喉の奥から引きつるような声を洩らした。

「わたしはあなたのその臭いをよく覚えています。その臭いはあの日、わたしの町に漂っていたのと同じ。焼けただれて、溶かされて、踏み潰されて、貫かれて、干からびて、凍えて、切り刻まれて……そうして死んでいった隣人たちが遺した死と怨嗟の臭い」

 少女の瞳にアルの視線が吸い寄せられる。瞳の奥、眼球の裏側、身体の奥深くにあるアルの心が、魂が、地獄の釜へと引っ張られていく。

 目を離すことも瞬きすることもできなくなったアルに、少女の静かな声が命じた。

「さぁ、わたしの臭いを嗅ぐのです」

 燃えるように熱い吐息が、アルの鼻孔を通り抜けていった。

 そのとき初めて、アルはその臭いに気づいた。至近距離にいるエルフィータの吐息も、蒸し暑い夜の空気に火照る肌も流れる汗も、彼女のすべてが同じ臭いを発していた。焦げ付いていて、酸っぱくて、舌が痺れて、皮膚が痛んで、鼻の奥のつんとして、吐き気を催すほどの―――ひどい臭い。

 まとわりつく臭気に慄くアルを静かに見下ろしながら、少女は言った。

「これが死と怨嗟の臭い。あなたが撒き散らし、あなたがその身に浴びた、決して消えることのない魂の汚臭なのです」

「オイラ、の……?」

「あなたは臭うのです。だから間違えるはずがない。あなたが、わたしたちの仇なのです」

 少女がなにを言っているのか、アルにはさっぱりわからなかった。

 そもそも、少女がどこの誰なのかさえ、アルにはわかっていないのだ。

 ことの成行きがまるで理解できない。

 けれど、少女はアルの困惑に気付かない。

「あなたをどのようにして殺すのか、何度も何度も考えました。何度も何度も考えて、そのたびに殺し足りなくて、繰り返し繰り返し、一番いい方法はなんだろうと考えました。けれど、死んでいったすべての人達が満足する方法は思いつくことができませんでした。だからわたしは決めたのです。復讐を実行するのはわたしなのだから、その方法くらい、わたしの我儘で決めさせてもらおうと」

 少女はアルの肩を押さえるのをやめて、代わりに、アルの耳をふさごうとするように両手で頭部を挟んだ。

「あぎぃ…!」

 激痛が頭部を貫いた。少女がアルの頭蓋骨をギュッと締め付けたのだ。それも、万力のように段々とではなく、突然に強烈に力を加えた。そのままバツンと頭が割れてしまわなかったのが不思議なほどだった。

 少女が力を加えたのは三秒ほどだった。痛みから開放されたアルは、無意識に止まっていた呼吸を再開して、それからまた悲鳴を上げた。少女が再びアルの頭蓋骨を締め付けたのだ。

「わたしの大切な家族は、中身がなくなってしまいました。首から上を潰されて、身体の中身を引きずり出されてしまったのです。だから、わたしはあなたにそれをしようと思うのです」

 少女は両手に力を入れたり抜いたりを執拗に繰り返し、そのたび、アルは断末魔じみた悲鳴を上げた。

 力を入れるたびにアルの悲鳴を聞いても、少女の表情は変わらなかった。瞳の中ではあんなにもはっきりと感情がたぎっているというのに、この少女の顔は仮面のように静かで、さざ波すら立たない。

「ひゃめっ」

「やめません」

 炎を孕んだ瞳が彼女の本気を物語っている。自分はここで殺されるのだ。無力な自分は、その運命から逃れることが出来ない。

(ここが、オイラのお終いか……)

 頭の中の、肉体的な苦痛を感じているのとは別の所で、アルは冷静にその事実を思った。

 自分はここで命を落とす。いや、奪われるのだ。突如現れた謎の少女によって。

 そうしたらもう酒は飲めなくなってしまう。飯も食べられないし、女も抱けない。それらのために盗みを働くことも、嘘八百を並べ立てることも、人を裏切り傷つけることもできなくなる。

(あー…、そう、なの)

 笑ってしまいそうなくらいに笑えなかった。命を落とすその瞬間に、こんなことしか思い浮かばないなんて。話に聞く走馬灯とやらが流れてくることもないし、まったく、なんと味気ない最後であることか。

 けれど無理もないのかもしれない。ただでさえ短い人生を、こうなっても仕方のないようなやり方で生きてきたのだ。悪党として、奪うことはあってもなにかを育むことはない、そんな人生だった。

 なんと愚かしく、無益な人生であったことか。

 頭蓋に激しい痛みを感じながら、アルは自分自身の生涯を憐れんだ。

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