第1話②


 ドアの閉まる音を聞いてから、アルはベッドの上に寝転がった。

 部屋にひとりになると、左右の部屋から漏れ聞こえてくる嬌声や、天井の軋む音など、今まで気になっていなかった音が気になり始めた。ただでさえ生殺し状態だというのに、こんないかにもな音を聞かせられたのではたまらない。しかし、だからといって隣室に文句を言いにいくわけにもいかない。なにしろここは、そういう場所なのだ。

 ここ〝夏の夜〟は、砂漠の町アジュールで一番人気の娼館だ。意匠を凝らした三階建ての建物は外装も内装も見目麗しく、働く女性たちも質、量ともに申し分ない。無粋な輩が立ち入ることのないよう、警備だってしっかりしている。自警団の腕利きが常駐しているのだ。

 つまりここは、ちょっとばかり高級なお店なのである。アルのような貧乏人など、本来ならそもそも敷居も跨げないほどだ。

 そんな高級娼館の一室を、アルは寝床として利用していた。ドロシーが店長に頼んでくれてあるのだ。そうしてくれる程度の恩義を、彼女はアルに感じている。

 売ろうと思って売った恩ではない。ドロシーを襲う連中がいて、そいつがアルの悪事の被害者になったという、ただそれだけの偶然である。それでこんなにも上等な寝床をタダで手に入れられるなんて、全く自分が運がいい。

 とはいえ、据え膳に手を付けられないでいるのは結構堪える。素人女をナンパしてもここには連れて来られないし、ベッドの上以外で、というのはアルの矜持に反する。無論、金で買うのもなしだ。

 気晴らしに酒や博打をしに行こうにも、手持ちのお金は昼間のうちに使いきってしまった。盗んだ金貨ならたんまりあるが、アルのような小悪党がピカピカの金貨を使ったら、悪事をしてきましたと告白するようなものである。自警団に目をつけられてはたまらない。

「小銭に崩そうにも、そういう店はもう閉まっちまってるだろうしなあ。八方塞がりとはこのことか。あーあ、うまいこと女の子が転がってこないもんかねぇ」

 戯けたこととわかりつつ、そんな風に欲望を口に出してみた。

「――――――ッ!」

「――――――――――ッ!」

 それにしても、隣の部屋の誰かさんは少しばかり興奮しすぎではないだろうか。上質な女を相手に舞い上がってしまうのは仕方のないことだが、女の声が段々と悲鳴じみてきているのが気にかかる。単に男の技量が凄まじいだけであればいい。しかし、女を壊すような強烈なコトをしているのだとすれば、それは問題だ。まことに大問題である。

 アルはベッドを降りて壁際へ移動し、片耳を壁にあてた。あまり品の良くない行為だが、これは野次馬根性によるものではなく、隣室の女性の身を案じてのものである。なにせ彼女はドロシーの仕事仲間なのだ。心配するに決まっている。下心があっての行動では断じてない。

 誰にともなく言い訳しながら、アルはそっと息を潜めて耳を澄ませた。

「やめろ! 殺さないでくれ!」

 出し抜けに聞こえた物騒なセリフに、アルは眉根を寄せた。

 次の瞬間。ドンッ、という音が聞こえたかと思うと、アルは部屋の真ん中あたりまで吹っ飛んでいた。左肩から床に落ちてごろごろ転がり、反対側の壁にぶつかってようやく止まった。

「くそったれ。鼓膜破れてないだろうな……」

 アルは毒づきながら身を起こし、壁に背を預けた。衝撃をモロに喰らった耳と頭がひどく痛んだが、自分の声の聞こえ具合からして、イカれてはいないようである。とはいえ特大のタンコブができることは間違いない。

 ちくしょうめ、ともう一度毒づいて、アルはついさっきまで自分がいたところへ目を向けた。

 壁に、ぽっかりと穴があいていた。穴の向こう側には隣室があり、こちらの部屋と変わらない内装が広がっている。

 そこには三人の人間がいた。

 ベッドの上でがたがた震えている全裸の男。

 同じく、ベッドの上でがたがた震えている全裸の女。

 そしてもう一人。穴の前に仁王立ちして、こちらに向かって左拳を突き出している全裸ではない女。

 最初のふたりは客と娼婦に違いない。では、娼婦でないほうの女は何者なのか。現状から考えつくことといえば、おそらくは彼女が壁を殴り壊したのであろう、というたちの悪い冗談くらいのものである。

 もっとも、冗談ではなさそうだが。

 女は拳を引っ込めると、手首をぶらぶらさせながら、穴をくぐってアルの部屋へ踏み込んできた。頑丈そうな編上げブーツが床を踏みつけ、ゴッ、と硬い音を鳴らす。

 改めてまじまじと見ると、その女が少女と呼ぶべき年齢であることがわかった。背中やへそ、太ももなどを惜しげもなくむき出しにした露出の多い格好をしているが、肉体がまだまだ成長過程にあるため、健康的だという以外になにも感じられない。

 ゴッ、ゴッ、と足音を立てて、少女は部屋の真ん中まで歩いてきた。

 それから目を閉じて鼻をすんすんとひくつかせて、

「臭うのです」

 と、誰にともなく言った。

 言われてみれば、なんだか鼻につく臭いがする。これは―――アレの臭いだ。アルはすぐに合点がいった。

「おまえさんが壁に穴なんてこさえるから、そこのオッサンがお漏らししちゃったんだろ」

 アルが言うと、隣室の客の肩がびくっと跳ねた。どうやら正解だったらしい。

「ところでおまえさん、なんでまた壁に穴なんてぶち空けた?」

 アルが尋ねると、どこか眠たげなルビーの瞳が床に座り込むアルを見返した。

 けれど返事はなかった。

「答えてくれねえか。ま、いいさ。それよりオイラ、おまえさんのお陰で頭がひどく痛むんだ。あと肩と腰もな。べつに謝れとは言わねえし事情の説明も要らんから、治療費だけいくらか包んでくれないかねぇ」

 野次馬根性で壁にくっついていたアルの自業自得なのだが、そんな事情はささいなことだ。少女から貨幣を巻き上げることができれば、金貨を崩さずともすぐに町へ繰り出せる。この機会を逃す手はない。

 少女はなかなか返事をしなかった。そもそも喋ろうとしない。臭うのです、と口にしたきりである。突然ガラの悪いお兄さんに絡まれてびっくりしている、というわけではなさそうだ。いたって落ち着いた面持ちでアルのことを見つめている。

 アルが少女の正気を疑い始めた頃、彼女はようやく返事をよこした。

「そうですか」

「お、いいねえ。物分かりがいい子は好きだぞオイラ。そんじゃとりあえず、有り金みんな差し出してもらおうか。ひどい怪我だし、それでも足りるかわかんねえけど、オイラは優しいからな。誠意を持って財布ごとよこせばチャラにしてやるよ」

 ほら、とアルは右手を差し出した。手のひらを上にむけて、出すものを出せと促す。

 少女は今度もすぐには返事をしなかった。アルの手を一瞥したが、ジェスチャーの意味がわからないのか、すぐにアルの顔に目を戻す。ルビーの瞳がアルの顔を穴が空くほど見つめる。アルは寝ぼけた人間を相手にするときのような苛立ちを感じた。

「この臭い」

 と少女が言った。

「臭い? そりゃあだから、そこのオッサンのお漏らしだろ。おまえさん、まさか本当にこっちの声が聞こえてないのか? それとも単なるマイペースか?」

「どうやら間違いなさそうなのです」

 ビキ、とアルの額に青筋が浮かんだ。

「そろそろ真面目にお話ししねえと痛い目みせンぞ、お嬢ちゃん」

 アルは声にドス利かせて少女を睨み上げた。

 すると、少女はようやく反応らしい反応をみせた。姿勢は動かさず、目付きも変えないまま―――アルを見つめる瞳に、明らかな敵意を宿らせる。

 いや、敵意などという言葉では生ぬるい。これは殺意だ。彼女はアルを殺すつもりでいる。

 アルは少女の殺意に心当たりがなかったが、だからといってこの状況で呆けていられるほど、のんびり屋でもなかった。

 ばしゅう、と。

 小さな爆発が起こったかのように、紫色の粉塵がアルを中心に四方八方に広がった。突然の出来事に目を見張る少女の姿が、紫の煙幕の向こうに隠れる。

 アルは素早く立ち上がり、部屋の出入口に向かって走った。

 背後では、けほけほと咳き込む声。どうやら彼女はまともに煙を吸ったようだ。アルは口元を意地悪く歪めた。

 紫色の粉の正体は眠り薬だ。煙幕としても機能させるために拡散性を重視しているから、効果はさほど強力ではないが、まともに吸い込んだのであれば動きは鈍るはずだ。

 三度床を蹴ると、アルは紫の煙を抜けた。

 ドアまであと二歩。

 一歩。

「逃がさないのです」

 背筋の凍るようなプレッシャーがかかった。思わず、足が止まりそうになる。

 アルは両足を叱咤して前へと跳んだ。頭を低く、飛び込み前転の要領でドアへ突っ込む。

 文字通り部屋から転がりでてきたアルを見て、廊下を歩いていた従業員が目を丸くした。

「お、お客さん?」

 アルは従業員に返事をする暇も起き上がる暇も惜しんで、部屋の中に球体を投げ込んだ。球体はちょうど外へ出てくるところだった少女の顔面にぶつかると、ボフッと破裂して、先ほどとは違う色の粉を撒き散らした。

「きゃっ」

 外見相応の悲鳴を上げて、少女がたたらを踏んだ。今度のは眼と鼻を直接痛めつける攻撃用の粉末だ。激痛と激臭でしばらく眼と鼻が使い物にならなくなる。

 アルは素早く立ち上がると、階段目指して一目散に駈け出した。

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