第252話 黒鯱
その日、五艘の海賊船が、一隻の菱垣廻船に襲いかかろうとしていた。
漁船を装い、巧みに接近する。
菱垣廻船としては、気がついたら取り囲まれている状況だった。
護衛として雇われ、菱垣廻船に乗船していた数人の浪人達が、ある者は剣を抜き、またある者は弓を引いて威嚇する。
しかし、菱垣廻船の真横に付けた小型の海賊船から、けたたましい発砲音とともに弾丸が射出され、刀を抜いた侍のすぐ脇の手すりを直撃した。
それだけで、その侍は刀を取り落とし、腰が抜けたように尻餅をついた。
弓を引いていた侍も、火縄銃が自分を狙っているかもしれないと考えて、海賊船から見えない位置まで待避する。
しかし、その行為は、弓矢によるによる海賊船への牽制を諦めた事を意味した。
「ち、ちくしょう、鉄砲を持っているなんて聞いてねえぞっ! 話が違うじゃねえかっ!」
腰を抜かした浪人が、そう喚きながら刀を拾い、這うように船側から離れる。
菱垣廻船の乗組員達は舌打ちし、積み荷のことを諦める。
『抵抗すれば皆殺しにされる』
それが海賊達のやり方であると、彼等は知っていた。
侍が乗っていると知れば、乗り込んでくることはあきらめるんじゃないかと期待していたが、まったく効果がないどころか、かえって海賊達を刺激する恐れがある。
乗組員達は、刀と弓を侍達から強引に奪い取ると、それを海に投げ捨てた。
それを見た今回の海賊団の頭(かしら)は、ニヤリとほくそ笑んだ。
「物わかりがいいじゃねえか……今回は楽ができそうだ。まあ、命だけは助けてやるとするか」
段取りとしては、無抵抗の菱垣廻船に乗り込み、まずは侍達を縛り上げる。
船員達にお宝を運ばせる。
金になりそうなものから選んで、五艘の小型船に分けて、積めるだけ積む。
最後に、今後脅しなど通用しないことを知らしめる意味で、侍達は殺しておいた方がいいか……そんな血なまぐさい事を、彼は考えていた。
その時だった。
「お頭、あれ……後ろっ!」
周囲を警戒していた若い海賊の一人が、短くそう叫んだ。
「うん? どうした?」
「あれ……あの姿……あの黒い船が、もの凄い勢いで迫っていますっ!」
「……ありゃあ……ま、まさかっ!」
頭は青ざめ、発する言葉が震えていた。
「ばかなっ! あれは
黒鯱、という単語に、若い海賊達も反応し、騒然とする。
「あれが……黒鯱……」
黒鯱……それは、この近海で海賊として生きている者達にとっては、最も忌むべき、かつ恐るべき存在としてその名が知られていた。
海賊船を襲う最強の海賊船……それが通称・黒鯱なのだ。
「やべえ……あの船足、本物だ……撤退するぞ、急いで合図しろっ!」
海賊団の頭がそう指示を出すと、若造の一人が、緊急待避を知らせる爆竹に火を付けた。
直後、鉄砲とは異なるけたたましい、連続した破裂音が響いた。
いざ、菱垣廻船に乗り込まん、と意気込んでいた周囲の海賊達は、その音に、何事かと周囲を見渡し、そして黒鯱の存在に気付き、大声で喚きながら離脱を開始する。
この時、バラバラに逃げることがあらかじめ決められていた。
幕府や藩の警備船に追われたとき、まとまって逃げたなら一網打尽にされてしまう。その事を見越しての逃亡の段取りだったが、それがたった一艘の黒鯱にも適応されてしまう。
それほど、彼等に取っては恐るべき存在だったのだ。
そして最優先されるのは、頭の乗った司令船だ。
その逃げる方向は、浅瀬に向う、つまり陸側の方向だった。
黒鯱は、菱垣廻船をも上回る大きな船だ。
小回りが利き、喫水の浅い小型船であれば逃げるのに有利、と考えたからだ。
しかし、それは読まれていた。
あらかじめその方向に舵を取り始めていた黒鯱が、さらに距離を縮めて来たのだ。
「……畜生、なんて操船だ……けど、旋回能力じゃあこっちの方が上だ!」
頭は、自分も帆の操作を手伝い、必死に操船し、ついには回り込むことに成功し、黒鯱とはほぼ逆方向に進みはじめたのだ。
悠々と、黒鯱の大きな船体とすれ違うように進行する小型船。
バカにするように黒鯱を見やる頭の表情は、次の瞬間、硬直した。
「……げぇっ! 大筒が……こっちを向いていやがるっ!」
船側に設置された大砲の砲身が、海賊船に照準を定めていた。
「と……飛び降りろっ!」
言うが早いか、海賊団の頭は、何も持たずに海に飛び込んだ。
他の船員達も必死に後に続く。
次の瞬間、鉄砲の発砲音などとは比べものにならない轟音が響き渡った。
鉄球の直撃を受けた小型船は飛び跳ねるように破裂し、そしてバラバラに砕け散った。
それを見届けたかのように、黒鯱は、さらに逃げた海賊団の別の船を追い始めた。
「畜生……イカれてやがるっ……」
頭は、周囲に浮かんでいた木片にかろうじてしがみつき、青ざめながらも、呪うような目つきで、次第に小さくなっていく黒鯱の姿を睨み続けていたのだった――。
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