第230話 (番外編)大商人:前田拓也とその評価

 享保八年、春。


 前田拓也は、この時代、阿東藩において、それまでの二大勢力であった阿讃屋、黒田屋を上回る大商人へと成長していた。


 収益の柱は『養蚕業』、つまり絹糸の生産だ。

 カイコを飼育するために広域で桑畑を作り、そして農家と契約して養蚕を推奨、さらには製糸のための工場も設立し、日本で最高級の品質と生産量を誇るまでに成長した。


 その製糸に携わっているのは、多くが女性だった。

 近隣の諸藩から出稼ぎに来た者も多い。

 彼は、この時代としては画期的とも言えるほどに、女性の雇用を多く生み出していたのだ。


 そんな大商人に成り上がった彼だったが、相変わらず偉ぶることなく、従業員達と気さくに接することから、特に一般の農民や町民からは人気があり、慕われていた。


 しかし、彼自身、自分が決して褒め称えられる存在であるとは思っていなかった。

 これほどの大成功を収めたのは、単に自分が、希有なタイムトラベラーであったこと、そして複数の嫁達をはじめとする、数々の人脈や運に恵まれていただけなのだと考えていたのだ。


 事実、彼の本当の姿……つまり、三百年後の世界では、単なる一介の大学生に過ぎない。

 つまり、どこにでもいる、ただの若者なのだ。

 しかし、そのことを知っている者達も、彼の手腕は評価していた。


 確かに、数年前に商売を始めた頃……つまり駆け出しの商人だった頃は、仙界から不思議な品々を持ち込むことだけが取り得の、頼りない若者でしかなかった。


 しかし、裏表のない性格と、商売に対する貪欲な姿勢で人脈を築き上げ(その背景に、自分にとって身近な女性達の生活を向上させるため、という意図があったためだが)、江戸でも商売を成功させ、今で第八代将軍の徳川吉宗公とも、定期的に、私的に懇談する間柄だと噂されていた。


 そんな彼には、阿東藩主の郷多部元康公にも、また、盟友である阿讃屋、黒田屋にも期待されている、新規事業の計画があった。


 それは、海運業だった。


 阿東藩は、陸上の交通手段としては、東海道に出るまでに大きな山を越える必要があり、決して便利とは言えない地域だ。

 その代わり、大きな川や海に面しており、実際、絹の出荷も商業船での運搬がメインとなっていた。


 しかし、阿東藩独自での商船を持っていないため、大阪や江戸の菱垣廻船を、それなりの料金を支払って利用していたのだ。


 これを、自前の船を用いて運搬することができたならば、相当な経費削減となるはずだった。


 それでも、前田拓也がその事業に参加しない理由。

 それは、海運が「命懸け」の事業であったためだ。


 ひとたび嵐に巻き込まれたならば、船は沈み、死人が出る。

 いかに前田拓也が三百年と現代を行き来できるタイムトラベラーであったとしても、気象衛星など存在しないこの時代、正確な天候を予測をすることは不可能だった。


 また、現代の高度な造船技術を、この時代に持ち込むことも、彼の力だけでは無理だった。

 そのために、命の危険が存在する新規事業参加には二の足を踏む……そんな彼の、他の豪商から見た今のところの評価は、


『仙術を使う若き有能な商人ではあるが、やや剛胆さに欠ける』


 というものであった。

 そしてこの年、そんな彼の評価を根底から覆す大事件が、近隣海域で発生したのだった――。

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