第63話 天麩羅
全てが飲食店という訳では無く、食材の小売店、つまり八百屋や魚屋、乾物屋も存在している。
『前田屋』はその通りの南端から三件目で、比較的新しい建物を買い取り、さらに改装も行っている。
俺が江戸時代に来られなくなった三ヶ月の間に、主に凜さんが段取りし、啓助さんや良平の意見を参考にして開店させてくれた、大事な大事な店舗だ。
春先に鰻があまり捕れなくなり、売り上げが落ち込んでいたが、最近、毎日俺が現代から鰻を運び込んでいることもあって、また前のように賑わうようになってきた。
『前田屋』の鰻丼の価格は開店特別価格の四十文を維持しているが、それでもかけそば一杯が十六文であることを考えると、高い。
また、毎日鰻ばっかりを食べる人は少ないので、他の飲食店の客層と直接かぶることはなく、むしろ遠方から客を呼び込む存在として歓迎されている。
『食い物通り』には、きちんとした客席のある店舗の他に、いわゆる『屋台』と呼ばれる立ち食い、あるいはテイクアウト専門の店も存在する。
天ぷら料理店『いもや』もその一つだ。
場所は『食い物通り』の南端、事情により他の店より三十メートルほど離れた場所でぽつんと営業している。
この店、屋台といってもなかなか馬鹿にできない。安い上に固定ファンがいるため、行列ができるほどの人気店なのだ。
材料は白身魚や芝海老、貝、イカなどの魚介類。
比較的川も海も近いので、新鮮な材料が手に入り、それに衣を付けて串に刺し、さっと揚げて提供。一串四文、現代の価格にして百円ぐらいと、かなり安い。
味の方はというと、現代と比べるとあんまりいい油を使っていないようで、俺としては一串食べればもう十分なのだが、この時代としてはかなりうまいと感じられているようだ。
そしてこの店を切り盛りしているのは、三十歳過ぎぐらいの元気なおばちゃんと、数え年で十四歳、満年齢なら十二歳ぐらいの女の子だ。
おばちゃんの名前は『鈴』さん、女の子は『ヤエ』だ。
ヤエはユキやハルよりさらに一つ下で、それなりに子供っぽいのだが、母親と同様とっても元気だ。
実はこの親子、前年の春に父親を病で亡くしたのだが、彼が残してくれたこの屋台を二人で頑張って、ずっと守っている。
ヤエは丸顔の可愛らしい女の子で、その愛想の良さもあり、ユキ、ハルと共に『食い物通り』のマスコットキャラクター的な存在だ。
実際、三人とも仲が良く、店が終わった後などはよく遊んでいる光景を見かけていた。
高校が土曜日で休みのこの日、朝から少し多めに鰻を運び込み、一仕事終えたところでぶらぶらと通りを歩いていると、
「あら拓也さん、今日は朝からお散歩ですか? もうすぐ開店なので、たまには買っていってくださいな」
と、お鈴さんから声を掛けられた。
「拓也さんなら、四本買ってくれたら、特別にもう一本おまけしますよーっ!」
これはヤエの声。なかなか商売上手だ。
「うーん、そうしたいのはやまやまだけど、今日は『前田屋』で新しい調理法の試食しなきゃならないんだ」
「あら、まあ、それは残念。じゃあ、お店の女の子たちによろしくね」
「よろしくー!」
お鈴さんは愛想笑いを、そしてヤエは手を振りながら、自分達の屋台へ歩いて行く。
ヤエは現代なら小学校六年生か、中学校一年生ぐらいだが、この江戸時代においては既に大人と変わらぬ貴重な働き手だ。
父親を亡くしたにもかかわらず、たくましく生きている母子だと感心していた。
その日の昼前、自分の店で良平が作った新しい鰻料理を試食していると、女性の悲痛な叫び声が聞こえた。
何だろう、と良平と顔を見合わせていると、
「かっ……火事だっ、大変だあっ!」
と、男性の大声が聞こえるではないかっ!
俺と良平は慌てて店を飛び出す。源ノ助さんや女の子達も後に続いた。
立ちこめる黒い煙、その発生元は……天ぷら料理『いもや』の屋台だった!
すぐ近くの小料理屋の主人が
「は、早く、水を……井戸から水を汲んで掛けるんだっ!」
と声を荒げていたが、立ちこめる異様な臭いに鳥肌か立った。
「ダメだ、油が燃えているっ! 水を掛けちゃ絶対にダメだっ!」
と、大声で制し、その上で、
「良平、源ノ助さん、例のヤツを……河原で練習したあれをっ!」
二人とも何のことかすぐに察知、俺と一緒に赤く重いその物体を一人一本、『前田屋』の奥から出してきて脇に抱え、大急ぎで『いもや』の屋台に駆け寄っていく。
黒煙がもうもうと立ちこめ、その下、油鍋からはオレンジ色の炎が大人の背丈ぐらいまで吹き上げている。
すでに、木製の屋台の骨組みにまで燃え移りかけていた。
まず俺が、赤いその物体……『消火器』の安全栓を抜き、ノズルを火元に向け、思いっきりレバーを握る。
次の瞬間、白い消化剤が勢いよく噴出され、炎がみるみる小さくなっていく。
いつのまにか集まった野次馬達は
「うおおぉ!」
と一斉に歓声を上げた。
続いて、良平と源ノ助さんも同じ動作を行う。
二人とも練習していた成果が出て、使い方は的確だ。
三本の消火器の集中放出により、なんとか鎮火に成功。野次馬から驚きと称賛の声が上がった。
「あれが、『前田屋』の前田拓也だ!」
「あの『仙人』と呼ばれる……だったら、さっきのすごい技も『仙術』なのかっ」
「初めて見た……さすがだっ!」
なんか、消火に成功したことの安堵よりもさっきの『消火器』のハデさ、威力に驚嘆しているようだが……そんなことよりも、お鈴さんとヤエの事が心配だ。
すぐ後を振り返ると……二人は座り込み、泣きながら抱き合っていた。
「……もう大丈夫、火は消えましたよ……ケガはないですか?」
俺は元気づけるため、笑顔でそう確認したのだが……。
「ヤエが……ヤエの腕が……」
お鈴さんが、震える手でそっと娘の着物の袖をまくり……その左腕を見て、ぞっとした。
真っ赤に腫れ上がり……所々、水ぶくれができかけている。
「痛い……すごく痛い……」
ヤエは顔をゆがめている。
「これは酷い……でも、どうして……」
「お母は『とにかく逃げてっ』って言ってくれてたのに……私、水をかけて……それで、ぱって飛び散って、着物にかかって……私が余計な事したから……」
「ヤエ、ごめんねっ、ごめんね……」
普段は気丈な母親の方が狼狽している。
なんか、こっちまで泣いてしまう。
油が燃えているときは、水を掛けると「水蒸気爆発」がおき、熱された水と油、時には炎までもが周囲に飛び散ってしまう。
油火災は、消火しにくい、非常にやっかいなものなのだ。それが分かっていたので、『いもや』の屋台は他の店舗から少し離れた場所でぽつんと営業していたのだ。
ヤエも、その事を知っていたはずだが……咄嗟に体が動いてしまったという。
彼女の着物は凜さんによって左腕の肩口から切り取られた。
井戸から汲んできた冷たい水を、患部に
ヤエはそのたびに顔を歪ませ、「痛いっ!」と大きな声を出している。
凜さん以外の女の子は、泣きながら「見ていられない」と、顔を背けていた。
水ぶくれの範囲は、徐々に大きくなってきている。
「拓也さん……ヤエちゃん、大丈夫なんでしょうか……」
見かねた優が、俺に小声で尋ねてきた。
「いや……かなりの重症だ。命に別状はないだろうけど、一生、跡が残るかもしれない」
「そんな……拓也さんの『仙術』でも、どうにもならないんですか?」
「俺程度の知識じゃ、無理だ……現代の病院に連れて行けば、何とかなるかもしれないけど……」
俺の言葉が何を意味するか、優はすぐに悟ったようだ。
いや、気づいていて、確認してきたのかもしれない。
「私の『らぷたー』……こういうときは、使っていいんですよね?」
彼女の目は、決意に満ちていた。
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