第34話 あふれる思い
俺は慌ててジーンズを履き、シャツとロングパーカーを着た。
優には「すぐ帰って来る」と了解を得てから、妹を追いかけるように階段を下りていく。
「アキ、誤解だ! 俺は何にもやましいことは……」
大声で叫んだその先のカウンターキッチンには、きょとんとした表情の母親が立っていた。
「なに、やましい事って。アキならそこにいるわよ」
指さされた方向を見ると、妹はリビングの隅でいじけたように小さくなって座っていた。
「ア、アキ、違うんだ……」
俺は狼狽してしまい……それがますます母親の不信感を高める。
「いったい、何があったの? アキ、お兄ちゃんに意地悪されたの?」
「ううん、そうじゃなくて……まさか、お兄ちゃんが彼女とあそこまで仲が進んでいたなんて……」
「彼女? ……えっ、ひょっとして、彼女来てるの?」
さすがに脳天気な母親も驚いた。
俺はアキの側に行き、こっそりと耳打ちした。
「だから、違うって。確かに優とは仲はいいけど……彼女は着替えていただけだよ。ほら、お前と買いに行った、あの服だよ」
「……だったら、どうしてお兄ちゃんも裸だったの?」
……痛いところを突かれた。けど、ここはもう正直に話すしかない。
「彼女、一人になるの怖がって……それで、背中合わせに着替えようっていうことになったんだ。俺も、着物だったし……」
「着物?……ああ、そういうことなんだ……」
なんかよく分からない説明になったけど、彼女もなぜかなんとなく察したようだ。
「じゃあ、お兄ちゃん……あの人と、どこまで進んでるの?」
「どこまでって……」
「もう……深い仲なの?」
「いや……少なくとも、手を出したことはない」
「じゃあ……キスは?」
「えーっと……一回か二回、した……かな?」
「……なんだ、そんなもんなんだ」
妹のアキは、どういうわけか急に笑顔になった。
娘が機嫌を直したのに安心したのか、今度は母親が質問してくる番だった。
「ねえねえ、彼女ってどんな子? やっぱり、あの花火の子?」
なぜかアキに尋ねる母。
「えっと……一瞬見ただけだから分からなかったけど、たぶんそう……よね?」
「ああ。あの子で間違いないよ」
「へえ、まだ続いていたんだ。いつの間に部屋に呼んでいたの?」
「えっと、うん、まあ……こそっと……」
「もっと堂々としなさいよ。……せっかくだから、いっしょにお茶、しない? ちょうどケーキもあるし」
「いや、彼女ケーキとか苦手なはずだから……どちらかっていうと、まんじゅうとかの方がいいかな?」
「ああ、ちょうど良かった! 阿東まんじゅう、あるのよっ!」
この家はいつも都合良く食べるものがある。単に母と妹が甘い物が好きだからだ。
今日はもともと二人に、優を紹介するつもりだった。
そもそも、優が現代に来ることを強く望んだのは、俺の家族に会いたいと願っていたためだ。
この時点では、なぜそんなに会いたがるのか分かっていなかったが……。
母と妹がお茶菓子の準備をしている間に、俺は二階へと優を迎えに上がった。
扉を開け、そこに立っていた彼女は……まさしく、アイドルそのものだった。
白いシャツの上に紺のニットを重ね着し、下は千鳥柄のペプラムキュロット、そして紺のハイソックス。
髪はカチューシャで留め、胸元には俺がこだわった真珠のネックレス。
現代風にコーディネイトされた彼女のまばゆさに、俺は数秒間見とれてしまった。
「拓也さん……これでいいんですか? なんか……太ももが見えてますけど……」
「あ、ああ。それはそれでいいんだ。さっき俺の妹も、そんな感じだっただろう?」
「いえ、一瞬しか見えなかったので……でも、これで普通なんですね?」
「ああ、それでいい。それに……すごく綺麗だ」
「……ありがとうございます」
優は全身が写る鏡で、何度も何度も自分の姿をチェックしていた。嬉しそうな表情をしていることからも、似合っていることが分かるようだ。
そして俺は、いよいよ彼女を連れて部屋から出た。
「タイムトラベル」の件と、「身売りされそうになっていた」ということだけは話さないように、と念を押し、ゆっくりと階段を下りていく。
「なんだか、緊張します……」
それはそうだろう。一応恋人である俺の、母親と妹に初めて会うのだから……。
そして、ついに母と妹、優の三人が、リビングで対面した。
はじめて優をきちんと見た親子は、まずその容姿を見て、
「うわぁ……」
とハモった。
やはり、母や妹から見ても優のかわいらしさは想像以上のようだった。
「初めまして、優と申します」
彼女は、深々とお辞儀をした。
しまった、江戸時代の農民の娘である彼女には、名字がないんだった……。
しかし、それが気にされることはなかった。
「初めまして、拓也の母です」
「はじめまして、妹のアキです」
二人ともちょっとどぎまぎしながら、それでも笑顔だ。アキは、さっきのショックから完全に立ち直っているようだった。
俺を含めた四人はテーブルに座り、そして優は用意されたまんじゅうを勧められるまま一口食べ、
「すごくおいしい……」
と素直に感想を述べた。まあ、そうだろうなあ。
「それで、えっと……優ちゃんは、拓也の彼女……でいいのかしら?」
「かのじょ……?」
母のいきなりの質問に、優はちょっと不思議そうに俺の方を見る。そうか、「彼女」が「恋人」の意味だと分からないか。
「えっと……恋人として付き合っているかっていう意味で……」
俺が説明を入れると、優は少し赤くなって、
「……はい、拓也さんとお付き合いさせていただいています」
と答え、それに母と妹は安堵したようだ。
「……でも、拓也なんかのどこがいいのかしら。まだ全然子供だし、頼りがいがないし……」
謙遜する母の言葉に、優は最初意外そうな顔を見せたが、数秒後にまた笑顔を取り戻し、語り始めた。
「……拓也さんは、日本で一番素敵な方です。私の姉も、友達も、その友達の妹たちも……口を揃えてそう言っています」
彼女の優しげで、それでいて確固たる意思を感じさせるその言葉に、母もアキもいろんな意味で驚いた。
「私たちは、自分達が明日どうなるか分からない状況にありました……あの日、不安を通り越し、絶望に震えていました。それを助けてくださったのが拓也さんでした。それも、『見ていられない』というそれだけの理由で……」
一呼吸置いて、彼女は話を続ける。
「それが単に裕福な方の一時の気まぐれであったなら、私たちがこれほど惹かれることはなかったでしょう。ですが、拓也さんはそうではありませんでした。決して余裕があるわけでもないのに、無理をして私たちの生活を見てくれました。一番年下の女の子二人が高熱を出したときも……必死になって氷や薬を届けてくださいました。徹夜で何度も往復して……ご自身が寝込むまで、それを続けてくださいました。もう、どれほど私たち……」
いつの間にか、優は目を赤くしていた。
母と妹は、予期せぬ話の展開と彼女のその表情に戸惑っている。
「一人が迷子になったときも、暗くなるまで懸命に探して、見つけ出してくださいました。それだけではありません。拓也さん、私たちの為に一体どれだけの人とかけあってくださったことか。汗をかき、かけずり回って……常に私たちのことを、心配し、憔悴し……それなのに、私たち、なんにもできなくて……」
もう、優は涙をあふれさせていた。
母も妹も、おそらく何のことか理解はしていないが、彼女が本気で何か重要な事を話していることは分かったようだった。
「……拓也さん、私、あの十三夜のこと、忘れません……実を言うとあの日、もう覚悟していたんです。もう二度と戻ることはないだろうって……それでも、拓也さんはあきらめなかった。そして奇跡を起こしてくださった……本当に、なんとお礼を言っていいのか……」
涙声の彼女は、ついにそれ以上、言葉を続けられなくなった。
気がつくと、俺までも、涙を流していた。
少し落ち着いた後、彼女はなおも話を続けた。
「そしてあの日、拓也さんは帰る手段を失った……そんなとんでもない状況にもかかわらず、あなたは……私たちの生活を心配し、新しい仕事まで見つけてくださいました。そしてあなたは、突然居なくなってしまった。あの三ヶ月ちょっと、私は本当に……今度こそ、もう会えないのかと何度も思ってしまいました」
そこで言葉が詰まる。俺と優は、三ヶ月以上も離ればなれになってしまったのだ。次に会えるという保証もないまま……。
「それでも、私は拓也さんの言葉を、約束を信じて、ずっと待ち続けました……そして再び目の前に現れた時、私は、もう……」
また言葉に詰まった。
俺も、涙を止める事ができなかった。
「……お兄ちゃん、優さんと何の約束したの? 教えて……」
「……優に、結婚を申し込んだ」
俺ははっきりと言葉に出した。
母と妹は、はっと顔を上げ、驚いたように俺と優を交互に見つめ……そして、二人とも頷いた。
「……何か二人とも、大変な道のりで……大恋愛みたいね。たぶん、今もその途中なんでしょうね……」
「はい……それで、今日お伺いしたのは、今のこの気持ちを……そして拓也さんが私たちを、どれだけ大変な思いをしながら助けてくださったか、それをお伝えしたくて……」
……優も、相当義理堅い。そんなこと、わざわざ俺の家族に伝えるために、恐怖心に打ち勝ってタイムトラベルしてきたのか……。
「……十分、伝わりました。優ちゃん、あなたがどれだけ拓也を大事に思ってくれているか、そして拓也、あなたがどれだけ本気なのかも。私も……あなた達を応援します」
「私も……未来のお姉さんのために出来る事、考えます!」
アキ……普段こんなこと言わない娘なのにな……。
「でも、やっぱりお兄ちゃんにこんな素敵な彼女なんて……なんかもったいないな」
ほら、ちょっと皮肉のこもったこの感じ。これがアキだ。
それでも、俺は嫌な気分には全くならなかった。
――その後、しばらくは海外にいる父親や、「変人」である叔父のことなど、談笑しているうちにかなり時間が過ぎていった。
優がトイレに行きたいと言うことで、俺が案内したのだが……彼女は、初めて見る洋式のそれにとまどった。
使い方や、最後に流すことを教え、そして彼女が用を足す間、少し離れたのだが……そこにはアキが立っていた。
「おにいちゃん、彼女、すごくいい人じゃない……最初はビックリしたけど、私、本気で応援するから」
「へえ、おまえがそんな風に言ってくれるなんて、珍しいな」
「私だって、たまには、ね。それにしても、二人とも本当に楽しそう……私も江戸時代、行ってみたいな」
「いや、結構大変なんだぜ。水洗トイレすらないし……」
そこまで話して、大きな違和感に気づいた。
「……アキ、今、江戸時代って言ったか?」
「うん。ひょっとしてお兄ちゃん、私が何にも知らないとでも思ってた?」
「……叔父さんから聞いてたのか? だけど、残念ながら『ラプター』では、俺と優しかタイムトラベルできない」
「うん、それも知ってる。でも……私と優さんだったら、二人合わせても体重八十キロないと思うの。私が荷物とみなされれば……」
……確かに、それはまだ検証したことのない事例だった。
「ねっ、なんとかなると思わない?」
妹は、何かねだるように微笑みを浮かべた。
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