第26話 一夜を共に

 この日、「物件の賃貸」については啓助さんへの回答を保留して、一度「前田邸」へと帰ることにした。


 取引する金額も大きくなりそうだし、女の子達に相談しないといけない。

 それに、昨日一睡もしていない。


「現代へ帰れなくなった」という精神的なショックもある。

 物事の正常な判断ができる自信がなかった。


 町から「前田邸」への一時間の道のりは、その時の自分にとって、相当きつかった。


 昨日の傷も癒えているわけではなく、むしろ痛みがひどくなっているような気がした。

 へろへろになりながら、ようやく到着。


 心配して出てきてくれた優に、俺は「いい話がある」と切り出した。

 そして源ノ助さんも含めた全員を囲炉裏部屋に集め、「月星楼」を借り受ける話をした。


 一番興味を持ってくれたのは、その源ノ助さんだった。

「……あの『月星楼』の話とは……もしそこを借り受け、商売……つまり拓也殿の言うところの『居酒屋』が成功したとすれば、それは阿東藩のみならず、江戸にも拓也殿の名が知られるほどの快挙となりますぞ」


 彼は早くも興奮気味だ。


「でも、月十両とは……無謀ですわ」

 これは凜さん。確かに俺もそう思った、と返した。


「だから、簡単に言えば『よっぽど儲かる』何かを献立に加えなければならない。一応、さっき話した『良平』という料理人に、鰻の新しい料理法の概要を教えて、今、研究してくれているはずだけど……」

「でも、それだけで『月星楼』にお客様を呼び込めるものでしょうか」

 凜さんはなかなか慎重だ。そういう意味では、「おかみさん」に向いている。


「……早い内に回答はしないといけないけど……正直、今日は俺、いろいろあって疲れてて、あまり良い考えが浮かばないんだ。また、明日の朝、話ししよう」


 俺の、「とりあえず保留」の意見に、みんなほっとしたような顔になり、了承してくれた。

 俺は昨日も風呂に入れなかったこともあり、この日も一番風呂を勧められた。

 もう沸かしてくれているということなので、ありがたくいただくことにした。


 昨日の話の流れで行くと、ひょっとしたら優、また一緒に入ってきてくれるかな……そんな淡い期待を抱きながら、俺はかけ湯もそこそこに、湯船に浸かった。


「……拓也さんっ、拓也さんっ……大丈夫ですかっ!」

 ……何か切羽詰まった女性の……たぶん優の声に、俺は目を覚ました。

 目の前に、心配そうに俺の顔をのぞき込む、彼女の姿があった。


「……やっぱり優だったか。どうしたんだ?」

「……よかった……ダメです、拓也さん。湯船の中で寝ちゃうなんて」

 ……そういえば、俺、風呂に入ってたんだ。あんまり疲れてたんで、寝てしまっていたか。

 あれ? と言うことは、浴室の中だけど……優は服を着ている。


「……なんで優がここに?」

「だって、拓也さん、いくら声をかけても返事がないから、慌てて駆け込んで来たんです。こんなに疲れているなんて……また寝てしまうかもしれないから、もう出た方がいいですよ」

「……そうかな……ついさっき入ったばかりだし、お湯もぬるめだし、もうちょっと居たいけど」

「……分かりました。じゃあ、どうしてもっていうならば、心配だから……私も入ります」

 俺は一瞬きょとんとしたが、恥ずかしそうな、それでいてすねた様な表情の優が、たまらなくかわいく思えた。


「じゃあ……お願いします……」

 なぜか俺は敬語で答えてしまった。


 ……数十秒後、優は裸になって入ってきた。


 もう混浴も三回目だし、お互い好きだって告白しあった仲だ。べつにそれほど緊張する必要はない。

 それでも、やっぱり自分の鼓動がものすごく速くなっているのを感じていた。


 後で知ったことだが、この時代、男女の混浴はごく普通で、恋人どころか見ず知らずの人とでも一緒に入ることがあったという。

 けれど、それは大きな銭湯での話で……二人きり、というのは特別だと思うのだが、そこは凜さんが「当たり前のこと」だと常々優を煽っていたらしい。


 肩をくっつけるようにして、湯船に浸かっている。

 そして優は、俺の左腕から肩、脇腹に続く傷を見て、悲しそうな顔をした。


「こんなにすりむいて、怪我してるのに、昨日の今日で町まで出かけていくなんて……ゆっくり治してからにすればよかったのに……」

「啓助さんが話しを持ってきたということは、大抵の場合、その時が絶好の機会なんだ。今までのように稼げなくなったっていうのもあって……ちょっと焦りすぎたかな」


「……私は、商売のことはよく分かりませんけど……急ぎすぎなような気がします」

「うーん、やっぱりそうかな……けど、あれだけの大きな店、やっぱり憧れるっていう部分はあるなあ」

 少し頑張れば借り受けられると思うと、思わずニヤけてしまった。


「それにしても、月十両なんて……私たち娘五人、一両あれば一月食べて行けるんですよ。もちろん、贅沢をしなければですが」

 ……俺はその言葉を聞いて、はっと気づいた。


 確かに、その通り……前田邸の家賃こそ月二両、支払っているが、それを除けば、彼女たちは節約すれば、月一両で生活できるのだ。

 大根だって、皮や葉っぱまで大事に使う。

 白米も、俺が持ってきた物があるにもかかわらず、麦などを混ぜ、量を増やして食べている。

 漬け物も、自分達で作っている。

 そうやって、普段、なるべく俺に負担をかけないようにと節制しているのだ。


 それなのに、月十両も出して……俺は、何をするつもりだったのだろう。

 そもそも、俺の最終目標って、何なのだろうか……。


 そして思い出した。

 彼女たちを、「身売り」という制度から守る……それがこの時代に留まった最大の理由であり、そしてもうその目標は達成していたのだ。


「優……いきなり変なこときくけど……君の人生における目標っていうか、そういうものってある?」

「人生の目標……そんな大層なものではないですけど、憧れている生活はあります」


「憧れ……それでいい。その中身を聞きたい」

「えっと……ごく普通の夢ですよ。結婚して、子供を産んで、育てる。それで、常に笑顔の絶えない家庭であったならば、私はそれで幸せだと思っています」


 ……その答えは俺にとって、ちょっとした衝撃だった。


 こんなに当たり前の答えなのに……俺も、それでいいはずなのに……なぜ、急いで、無理をして、あんな大きな店を経営しようと考えていたのだろうか。


 今、こうやって大好きな優と混浴していること自体、これ以上ない幸せではないか。

 なぜ、あんな大それたことを夢見ていたのだろうか……。


「優……俺、ちょっと考え直した。やっぱり、いきなり『月星楼』は時期尚早だ。まず、小さな店から始める。俺と、君たち五人で十分やっていける程度の店だ。そこで商売がうまく回り出したら、次第に大きくしていけばいい。『月星楼』はラスボスだ」

「えっ……らすぼすって?」

「まあ、ようするに、最終目標っていうことだ」

「そういう意味ですか。だったら……いいんじゃないですか? それなら私も賛成です」


「よかった。だったら……その……協力して欲しい」

「協力って?」

「これから、ずっと一緒に、商売と……生活をやっていくっていう、その、協力」


「ずっと、一緒に……ですか……私は、そう思っていますよ。なにしろ、三百五十両っていうとんでもない大金で買い取っていただいた身ですから」

「あ、いや……そういう意味じゃなく……」

「……私は……ただ、拓也さんについていきます……」


 湯船の中で、裸で、肩を並べる俺と優。

 彼女の返事を聞いて、俺は残りの人生をずっと優と共に過ごそうと、心に決めた。


 そしてその夜、俺と優は、同じ床で一夜を共にした。


 といっても、手を出したわけではなく……疲れ切っていた俺は、彼女がすぐ隣で添い寝してくれているというそれだけで満たされ、幸せな気分で、昨日のことが嘘のように、よく眠れたのだ。

 添い寝は「凜さんの指示」だったのだが……それは建前、と優本人が打ち明けてくれたのが嬉しかった。


 ……こんな幸福が、一生続くものだと信じていた。


 しかし……俺は本来ここでの時空の中には「いるべきではない」存在だった。


 そしてその事実を認識させられる時が、着実に迫っていた。

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