第二章 移住の覚悟
第24話 喪失
旧暦の九月十七日、午後。
五人の身売りっ娘を全員買い取ってから、三日が過ぎようとしていた。
この間、それまでの期間と同等以上に忙しい日々が続いた。
十四日は『前田邸』で宴となり、源ノ助さんや、遅れてやってきた啓助さんも交えて、夜遅くまで食べ、飲み、笑い続けた。
ちなみに、清酒を飲んだのは源ノ助さんと啓助さんだけ。
女の子達と俺はもっぱら甘酒で、酔っぱらうことはなかった。
就寝時間になっても、外から強制的にかんぬき錠がかけられることはない。
俺は皆に泊まっていくように勧められたが、現代で母と妹が待っている。
二人に「友人の家に泊まる」とでも言っておいたなら何とかなったかもしれないが、この日はぎりぎりまで追い詰められており、事前にそんなことを考える精神的な余裕がなかった。
現代との往復には最低三時間かかることもあり、また、そんなに慌てなくても翌日からいくらでも会えるのだから、と、名残惜しく思いながらも実家に帰った。
翌日も、一旦城に呼び出されて出納係のお侍さんとなにやら証文を交わしたり、真珠の代金の一分を受け取ったり、阿讃屋の番頭さんに女の子達の買い取り代金を支払ったり、と、面倒な事務処理が朝から晩まで続いた。
また、凜さんと優には、一度里帰りするように勧めた。
歩いて二時間ほどの距離なのだが、なにしろ一ヶ月間帰っていない。
元気な顔を見せてやれば両親も喜ぶだろう、と考えたのだ。
そのまま彼女たちも実家で生活してもらって構わなかったのだが、
「私たちは拓也さんに買い取られたのだから、ご奉公に戻ってくる」
と言い残し、実際に二日後、つまり今日またこの『前田邸』へと帰って来た。
その『前田邸』自体にも、かなり手が入った。
戸板で塞がれた出入り口は全て解放された。
障子の窓を格子状に塞いでいた木材も撤去され、本来の明るい日差しが差し込み、それだけで室内の雰囲気が明るくなった。
また、この日の午前中に阿讃屋から受注していた全商品の納品が終わり、ようやくほっと一息、というところだ。
暇になった午後、俺は優に
「ちょっと二人で、お散歩に行きませんか」
と誘われた。
彼女たちとの共同生活が始まってから初めての、デートの誘い。
たぶん凜さんの「焚きつけ」があったのだろうが、断る理由などどこにもない。
俺は優と二人だけで、ユキやハルの冷やかしを受けながら、前田邸を後にした。
しかし、いざ歩き始めると、さてどこに行こうか、と考えてしまう。
町までは一時間以上かかるので、夕飯の支度や風呂を沸かす準備を考えるとちょっと遠い。
かといって、あたりは収穫が終わった後の田んぼが広がっているのみだ。
結局、俺と優は、あのセリが行われた河原へと歩いていた。
彼女に聞いてみると、
「私たちが出会ったのも河原だったし、正式に買い取ってもらえたのも河原。だから、私にとっては河原は思い出深い場所」
とのことだった。
たしかに、開けていて景色は良いし、数え切れないほどの渡り鳥たちがすぐ近くで優雅に羽根を休めている光景は、現代ではなかなか見ることができない。
川幅はかなり広く、手頃な石を思いっきり投げたとして、ぎりぎり向こう岸に届くかどうかぐらいはあった。
昨晩雨が降ったため、水かさはやや増しており、場所によっては急な流れとなっている。
優が作り、そっと浮かべた笹舟が、勢いよく進んでいく様子を見るのもまた楽しかった。
現代の暦で言えば十月下旬ぐらいなのだが、この日はよく晴れ、日差しが暖かく、気持ちがよかった。
すぐ隣を歩く優は、時折肩を触れさせてくる。そのたびに俺の鼓動は高まり、幸せな気分となっていた。
――不意に、川上の方で女性の悲鳴が聞こえた。
そういえば、女の子を連れて洗濯に来ていたおばさんがいた。
女の子はまだ六歳ぐらいで、元気に走り回って遊んでいたのを優と二人で微笑みながら見ていたのだが……。
「子供が、流されてますっ! 誰かっ……誰か助けてっ!」
悲痛な叫び声だった。
俺と優は驚き、そして緊迫した面持ちで川の流れを見つめる。
……いた。
必死の形相で片手を上げ、浮いたり、沈んだりしながら、その女の子は流されていた。
俺はあたりを見渡し、一抱えほどの大きさの流木を見つけ、急いで拾ってきた。
そしてその場で着物を脱ぎ捨て、トランクスだけになると、流木を抱えて川の流れに飛び込んだ。
想像していたより、水はずっと冷たかった。
だからといって、泳ぎをやめる訳にはいかない。
なんとか、この流木を掴ませることだけでもできれば、女の子が助かる確率はぐっと高くなる。
必死にバタ足を続け、ようやく女の子の近くにたどり着いたが、もう彼女はぐったりとして半分意識がないような状態だった。
なんとか腕を引っ張り、流木の上にのせ、横側に回り込んで自分も流木と彼女の背中を掴む。とりあえず、これだけで二人とも呼吸は確保できそうだ……と考えた瞬間、突然流れが早くなった。
岩場が多い箇所にさしかかり、急に狭くなった川幅のせいで、水の深さ、勢いが増したのだ。
上流の方で優と、少女の母親の叫び声が聞こえた。
(くそっ……どこまで流されるんだ……なんとか早いとこ引き上げないと、とんでもないことに……)
しかしその願いとは裏腹に、目の前にぞっとするような光景が飛び込んできた。
水の流れが急激に変化している荒瀬となっており、勢いよく岩肌にぶつかり、白く大きな水しぶきを上げていたのだ。
(まずい……あんなでっかい岩にまともにぶつかったら、打ち所が悪ければ……)
女の子は、もう意識がないようだった。
このままでは命に関わる……。
俺は何とか体を入れ替え、左手で流木を、そして右手で女の子を抱きかかえた。
そして流木を盾にし、岩にぶつけて自分達が流される勢いを殺そうと考えたのだが……次の瞬間、岩にぶつかったその自然木はあっけなく吹き飛び、そして俺も左腕、左肩を強打した。
なんとか少女の体は岩への直撃を回避できたのだが、その代わりに俺はその子と大岩の間に挟まれる格好となり、かなりの激痛を覚えた。
それでも、岩に当たった水の流れはそこで勢いを失い、その先は川幅が広がっていたこともあり、緩く、穏やかに、そして水深も浅くなっていた。
……数十秒後、女の子を浅瀬から河原へと、疲労困憊しながらも、なんとか引き上げることに成功した。
必死で走ってきた優、少し遅れて少女の母親も駆け寄ってきた。
女の子は、息をしていなかった。
俺は夏休み直前、高校で習った蘇生法を思い出した。
仰向けに寝かせ、鼻をつまみ、口から息を吹き込む。
まだ子供なので、あまり吹き込みすぎてはいけない。
胸が膨らむのを確認して、適量を、しかし細かく、五秒に一回ぐらいのペースで吹き込む。
優と少女の母親は、初めて見るその蘇生方法を、固唾を飲んで見守っている。
……突如、女の子がゴポッとむせた。
激しく咳き込みながら、大量の水を吐き出す。
俺は慌てて彼女の顔を横に向け、そのまま水を吐かせ続けた。
うつろながら目も開いて、そして涙も流している。
……数分後、まだむせているものの、大分症状は落ち着いてきた。
「……もう大丈夫だとは思いますが、必ずお医者さんに見せてください」
俺が微笑みながらそう告げると、彼女の母親は何度も頭を下げ、礼を言ってきた。
名前を聞かれたので、「拓也」とだけ告げると、
「あなたが……あの前田拓也様ですかっ!」
と驚きで目を見開き、さらに頭を下げてきた。
しかし、これには俺の方が驚いた。
まさか、自分の名前を、会った事もない人が知っているとは……。
そして彼女は子供を背負い、医者へと急いだ。
本来なら俺がそうしてやるべきだったのかもしれないが、俺自身も負傷し、左手が痺れて思い通りに動かない状態だった。
「拓也さん、大丈夫ですか……無茶しすぎです……」
優は涙目だった。
「まあ、あの子も助かったんだ。このぐらい、何でもないよ……」
「本当に……後先を考えず……今日は仕方ないかも知れませんけど、一月前、私たちを仮押さえしたときだって……」
優は泣き出してしまった。
「……けど、そのおかげで今、こうして仲良くなれたんだ。あのとき、ちょっと無理して良かったと思ってるよ」
「……そういうところも含めて、拓也さんなんですね。本当に、無謀というか……それが良いところなのかもしれませんけど、私、心配です。いつか、取り返しのつかないことになりそうで……」
「……ごめん、ちょっと心配かけすぎだな。これからはほどほどにしておくよ」
そう言って彼女をなだめた。
「はい……」
優は、少しだけ笑顔になった。
彼女は、俺が脱いだ着物を持ってきてくれていた。
秋にしては暖かい日差し、とはいえ、やはり寒い。
俺は少しだけ彼女に後を向いていてもらい、濡れて冷たいトランクスを脱いで、そして着物だけを羽織った。
怪我の方は、だいぶ痛みもひいてきて、元通り動かせる様になってきたので、骨折や脱臼の心配はなさそうだが、やはり現代に帰ってから病院で見てもらった方が安心だ、と考えた。
とりあえず、その場で現代へ戻るのではなく、一旦『前田邸』へと帰ることにする。
彼女を送っていく目的もあったが、スマホを置いてきた、というのも理由の一つだった。
二十分もかからない道のりなのだが、優は
「大丈夫ですか……本当に大丈夫ですか……」
と何度も聞いてきて、そのたびに痛みを堪えて笑顔を見せた。
ようやく門をくぐり、『前田邸』の庭へと入ると、源ノ助さんが俺のただごとではない様子に驚いて、やや大げさに
「拓也様、一体、何があり申したかっ!」
と叫んだものだから、母屋から女の子達が一斉に出てきて、本気で心配してくれた。
優が、俺の「武勇伝」をみんなに話してくれたのだが、あまりカッコ良く伝わらなかったのか、
「なんだ、それで一緒に溺れそうになったのか」
とか、
「その女の子、よっぽどかわいかったのではありませんか?」
とか、さんざんだ。
まあ、彼女たちが本気でそう思っていたわけではないようで、実際に、
「貴様らしいな……」
とか、
「もっとご自分を大事にしてくださいね」
とか、小声でだが言ってもらえたのだから。
「……拓也さん、冷たい川につかって、寒いでしょう。私、すぐお風呂わかしますから……」
そう言い残して優が風呂場に行こうとするのを、ナツが制した。
「もう、ユキとハルが沸かしにかかってるよ」
と、煙突から出る煙を指さした。
「じゃあ、お風呂沸いたら、早速入ってくださいな。優、一緒に入って、怪我の具合、見てあげなさい」
凜さんが優しく微笑む。
「え、あ……えーと、はい、分かりました……」
赤くなって下を向く優。
凜さんの気遣いで……また優との混浴の約束になってしまった。
俺も顔が赤くなるのを感じたが……もちろん、嬉しかった。
とはいえ、薪で沸かす風呂は、入れるようになるまで時間がかかる。
俺も替えのトランクスや、Tシャツなんかも手に入れたかったので、一旦現代に戻ることを彼女たちに告げた。
そして「ぱっと移動するところ、あまり見られたくないから」との理由で、納屋の裏へと向かった。
……左腕に付けたデジタル腕時計型タイムトラベル発生装置、通称『ラプター』を操作しようとして、異変に気づいた。
現在の時刻を示すデジタル数字が表示されているのだが……河原で見たときと、全く変化していない。
あれ、と思いつつ、メニューを呼び出そうとしてボタンを押すが、反応がない。
もう一度、ボタンを強く押し込むが、結果は同じだ。
ぞくり、と嫌な予感がよぎった。
ラプターは完全防水型の腕時計をベースとしており、つけたまま風呂に入ったり、水泳したりしても全く問題はない。
衝撃にもそこそこ強い設計になっていたはずだが……。
俺は思い出した。川に流されたとき、相当な勢いで岩に体をぶつけてしまったことを。
「……あのとき、左腕も思いっきり岩に当たったが……まさか、その時に……」
嫌な予感は、やがて不安へと変化し……そして恐怖へと増幅していく。
俺は「落ち着け」と自分に言い聞かせ、とりあえず状況を整理してみた。
ラプターは、身につけているときにしか動作させることはできない。
そして「三百年前」の江戸時代に移動できるのは、「俺」だけだ。
また、この時代に俺はこの「ラプター」しか持ってきておらず、予備など存在しない。
つまり、この時代、たった一台しか存在しないラプターが壊れてしまったのであれば……。
先程の優の、「私、心配です。いつか、取り返しのつかないことになりそうで……」という言葉を思い出し、血の気が引くのを感じた。
――その日、俺は現代に帰る術を失った。
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