第61話

「のう、クレアノンしゃん」

 オリンが丸い目をパチクリさせた。

「クレアノンしゃんは、ほんまに竜なんかの?」

「ええ、竜よ」

「だったらの」

 オリンはにこにこと笑った。

「竜の姿に、なってみてくれんかの? ぼくの、まだ、竜って見た事ないんや」

「あら、見たいの? そうね、ここには今、あそこの馬車の中以外には人もいないみたいだし――」

 クレアノンは小首を傾げた。

「――パーシヴァル」

「お呼びでしょうか?」

「うひゃ!?」

 スルリと虚空からすべり出て来たエリックの使い魔のパーシヴァルに、オリンがびっくりした声をあげる。

「結界をはってもらえる? オリンさんがね、私が竜になったところを見てみたいんですって」

「かしこまりました」

 もちろん、クレアノンはパーシヴァルの力を借りずとも、川原に突如出現した巨大な黒竜を見て、周りの人間が度肝を抜かれたりしないようにすることは出来る。しかしクレアノンは今、他人に――他者に任せることの出来る仕事は、出来るだけ他者に任せるということを、覚えようとしていた。

 クレアノンは、他者と生きる方法を、少しずつ学びつつあった。

「ただ、クレアノンさん」

 パーシヴァルは、オリンのほうをちらりと見やった。

「昨日オリンさんと会ってわかりました。オリンさんは、結界破りです。私の結界の魔術が、体質的に、非常にききにくいか、それどころか、無効にさえなってしまうような生まれつきの人です。私の生まれた故郷の世界にも、そういう人はまれにいましたが、どうやらこちらの世界にも、そういう人はいらっしゃるようです。ですからその、私の結界だけでは、もしかしたらあるいは――」

「あら――なるほど。わかったわ。あなたの結界の穴をふさぐようにしてあげる。エリック」

「アイアイ、なんスか?」

「あとで、三人でこの事について話しあいましょ。いつかそのことが、ちょっと問題になってくるかもしれないし」

「つってもクレアノンさん、結界破りなんて、そんなめったにいるもんじゃないッスよ。オレ、マスターの世界の結界破りっつったら、えーっと――マスターのしもべだった何十年かの間で、全員あわせてもヒトケタしかしらねーッスよ?」

「物事は、常に最悪の事態を想定して備えておくべきよ」

「まったくそのとおりです。お手数をおかけしてしまい、申しわけありません」

 パーシヴァルが、深々と頭を下げる。

「……ぼくの話をしとるんか?」

 オリンがきょとんと首を傾げた。

「ぼく、なんかしたかの?」

「ああ、ええとね、オリンさんには、ここにいるパーシヴァルが使う魔法が、生まれつき、ものすごくききにくいみたいなのよね」

 と、クレアノンがオリンに説明する。

「……ほぅん?」

 オリンが再びきょとんと、先ほどとは反対側に首を傾げた。

「それやとぼく、クレアノンしゃんが竜になるところを見られへんのかね?」

「あら、そんなことはないわ」

 クレアノンはにっこりと笑った。

「それじゃあパーシヴァル、お願いするわね」

「クレアノンさん」

 パーシヴァルはチラリと、装飾過剰な巨大な幌馬車のほうを見やった。

「あの馬車も、結界の中に入れますか?」

 それはすなわち、馬車の中にいる人々に対しても、黒竜に身を変じた――というか、もともとの姿に戻ったクレアノンのことを、見せるかどうか、ということだ。

「そうね――」

 クレアノンは少し考え、ついで、いたずらっぽくニヤリと笑った。

「そうね、見せてあげましょう。私の竜としての姿を。なかなか面白い話のきっかけになりそうだし、それに、竜になった私の姿を見た時の反応で、いろんなことがわかりそうだわ」

「なるほど」

 パーシヴァルは大きくうなずいた。

「では――」

 パーシヴァルの片手が複雑な形に空を切り、唇がかすかに動く。声には出さず、何かを唱えているらしい。

 次の瞬間。

 空気が。

 揺れ。

 張りつめ。

 渦巻き。

 そして。

 遮断、された。

「――結界完成です」

「ありがとう」

 クレアノンは、鷹揚にパーシヴァルにうなずきかけた。

「それじゃあみんな、ちょっと下がってもらえるかしら?」

「はい」

「わかりました」

 オリンをのぞく者達は、すでに、クレアノンの本当の姿――巨大な黒竜の姿を目にしている。

 だからみんな、大きく後ろに下がった。

「おりょ? そんなにさがらなあかんのか?」

 オリンがあわてたように、飛び跳ねるような独特の歩きかたでみんなの後を追う。サバクトビネズミ族の獣人オリンの歩きかたはいつも、歩くというよりはピョコピョコと飛び跳ねているといったほうがいいような、一種独特のものだ。

「そうね、そんなところで大丈夫だと思うわ」

 クレアノンは大きく笑った。

「それじゃあ、いくわよ。オリンさん、あんまりびっくりしないでね?」

「だいじょぶやあ! ぼくかての、栄光ある、オルミヤン王国のニルスシェリン大陸探検隊の一員やあ!」

 オリンが、小さな体を精一杯大きくふくらませて、堂々と胸をはる。

「だったら大丈夫ね。――いくわよ」

 クレアノンは、特に何か、特別な呪文を唱えたり、何らかの身振りをしたわけではない。強いて言うなら、大きく息を吸い込んだだけだ。

 その、吸い込んだ息を吐き出すのと同時に。

 周囲の空気が、大きく揺らいだ。いや――物理的な意味では、空気は動いてはいないのだ。だが、クレアノンのまわりにいた者達はみな、まるで暴風雨の中に裸で立っているかのような、凄まじい風圧を自分の身に感じていた。

「…………!?!?!?」

 オリンは、そのつぶらな瞳がこぼれんばかりに大きく目を見開き、のどの奥から胃袋の中身まで見えてしまうのではないかというほどに大きく口を開けた。

「おお、さすがッスね」

 エリックが、のんきにパチパチと手を叩いた。

「いつ見てもやっぱり、サイッコーに、ド迫力ッス」

「……やっぱり、びっくりしちゃった?」

 巨大な黒竜の口が大きく裂ける。どうやら、竜なりの笑顔、らしい。声だけは人間の姿だった時のクレアノンの時と全く変わらずにいるから、逆にものすごい違和感がある。黒曜石の輝きで全身を包む漆黒の鱗。純白に美しく輝く牙。銀色に輝く、人間とは異なる形の瞳孔を持つ瞳。長い尾をゆったりと体に巻きつけた、全体的にがっちりと骨太な、竜を見慣れたものから見れば(といってもまあ、そんな者などめったにいはしないのだが)その四肢の強靭さと、翼の小ささとが容易に見てとれる、長い年月を経てきた、大地に生きる悠揚たる黒竜の姿がそこにはあった。

「…………うわあ」

 オリンの口から、ほとんど厳粛といってもいいような声がもれた。

「ぼく――ぼく――こ、この探検隊の一員で、よかったよ――」

「ありがとう」

 クレアノンが再び、竜の微笑を浮かべた瞬間。

 装飾過剰な幌馬車の中から、いくつかの人影が転がり出てきた。

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