第一章 彼《ゆうしゃ》は平凡に暮らしたい

プロローグ

 さしあたって、彼が人々に要求をしたこと。


 化け物じみた身体能力、精霊をも超越せしめんとする魔法力、世界の理をいともたやすくねじ伏せる異能、行動をともにするにふさわしい仲間、有能な為政者、そして好敵手。金や女がいてもいいだろう。

 枚挙をあげれば暇なく、両手の指が何本あっても足りないほどの強烈な魅力達を前に、彼は首を横に振った。


 彼が欲しいのはそんなものではないし、そんなものはすでに両腕に抱えきれないほどに持ち合わせていた。


 彼が本当に欲しかったもの。

 強風が吹くだけで簡単に頽れ、重力の鎖に縛られたまま、軽い蹴りの一閃でぽっきりと骨が折れてしまいそうな肉体。種火を起こすのすらもってのほかで、常に遅刻を懸念し、有能な仲間はおらず、世界に秩序はなく、ただただ平凡の身の上。


 要求した『報酬』――それは、彼のことを誰も知らない世界で、誰にも気を留められることなく暮らすこと。


「これから俺は生まれ変わるんだ……!」

 眼前で大きな口を開けている銀の扉の向こうへ歩を進めながら、元の世界で『勇者』と呼ばれていた彼は、大きな期待を胸に異世界へと足を踏み出していった。

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