第15話 かっこ悪いことはしたくない

 あっちでもこっちでも火がくすぶっていて落ち着ける場所を探すのに苦労した。


 屋根を失い廃墟と化した寺院の中、壁に背を預けようやく息を吐く。


 そうこうしている間にも人馬の声は絶えず響いている。むしろ音は次第に近づいてきている。きっと押されている。


 しかしエルナーズにはその様子を具体的に想像することができなかった。三年前荒れ果てた野で死体を片づける兵士たちを遠くから眺めたことはあったが、今まさに目の前でぶつかろうとしている様に直面したことはなかった。


 今頃死体が増えているのだろうか。どうやってだろう。


 それが、近づいてきている。


 エルナーズは自分にとって怖いものがまだこの世に存在しているということを知った。


「ごめんね」


 隣で、エルナーズ同様に壁へもたれかかっているユングヴィが言う。


「こんなことならエルは城に置いてきてあげればよかったね」


 エルナーズは首を横に振った。


「まさかこんなことになるなんて誰も思ってなかったじゃない」

「うん。大きな声じゃあ言えないけど――みんなを不安にさせたくないからね、でも――私も今、すごいびっくりしてる。帝国軍はまだ遠くにいるもんだと思い込んでたよ。迂闊だった」


 ユングヴィは「ごめんね」と繰り返した。


「実はここのところエルをわざと連れ回してた。バハルにはさ、エルをひとりにしたくないから、って言ったけど、ほんとは私がひとりになりたくなかった」


 エルナーズは「いいのよ」と苦笑した。何となく分かっていたからだ。それでも強固に抵抗しなかった自分がいる。


「あんたがこっちに来てから俺もいろんなことを考えたわ。今までの人生じゃ思いつくことすらなかっただろうなっていうこと、たくさん」


 そしてそれでもなお自分の考えは大して変わらない、ということも次第に分かってきた。どれだけ新しいことを知ろうとも、自分がユングヴィになることはできないし、太陽を信仰することはできない。戦うことは肯定しない。


 何があっても自分は自分であり続ける。


 ひとはエルナーズを成長しないと言うかもしれない。将軍に対して面と向かって言う人間はいないだろうが、誰かはどこかで陰口を叩いているかもしれない。


 やはり、かっこ悪いことはしたくない。


 けれど――


 突然、ユングヴィが膝を折った。その場でしゃがみ込んだ。頭を抱えて「うう」と呻く。


「調子悪い?」

「ちょっとね。なんだか貧血っぽい、目眩が――」


 それでも、真っ青な顔で「大したことないよ」と言う。


 背負っていた神剣を下ろして壁に立てかけたあと、上着を脱いだ。

 そして、ユングヴィの肩にかけた。

 何がかっこよくて何がかっこ悪いかの基準は、少しだけ、変わったかもしれない。


「……ありがとう」


 エルナーズの上着を引き寄せ、ユングヴィが呟くように言った。


 夜は手がかじかむほど冷え込む。食事どころか水分補給すらままならない。ここまでついてきた健康な一般兵士たちも体調を崩しかねない状況だ。ただでさえ調子の悪かったユングヴィにはこたえているだろう。


 それにエルナーズにはちょっとした予感があった。


 エルナーズは今のユングヴィのような症状を訴える女を見たことがあった。まだ娼館にいた頃仕事に失敗した女たちが似たような状態に陥って苦しんでいたのだ。


 ユングヴィ自身は自覚していないようだ。分かっていて気づいていないふりをしている可能性もあったが、いずれにせよ認めてはいない。


 エルナーズもあまり考えたくはなかった。あのユングヴィが、と思うと否定する材料を探してしまう。だがどんなことでも用心するに越したことはない。


「冷やさないようにしなさいよ」


 ユングヴィの隣にしゃがみ込み、空の神剣を支えにして体を丸めた。


 窓から朝日が差し入る。警戒して外を睨むチュルカ娘の頬をまばゆい日の光が照らしている。


「――買い物行きたい」


 ユングヴィが呟く。


「エスファーナの中央市場に行きたい」

「酸っぱいものが欲しいんだっけ?」

「いや、それもあるけど、なんか、ソウェイル連れて木綿市場うろうろしたいなーと思って」


 その目は遠くを見ている。


「ソウェイルと一緒に暮らしてた時さあ。私、仕事でばたばたしていて、ソウェイルにあんまり服作ってあげられなくて。仕立て屋に連れていくわけにもいかないから、出来合いの服ばっかり買ってた。それも、体の大きさを測らなくてもいいよう、女の子向けの服ばっかり」


 うつろな目で、「私が悪かったのかなあ」とぼやく。


「ソウェイル、あんまり男の子らしくないかな、って思うんだ。フェイフュー殿下を見てると、たくましくて、剣術もよくおできになって、食事もたくさん召し上がられて、なんか、男の子はああであってほしいなー、って。私がソウェイルをもっとちゃんと男の子として扱ってあげれてたらあんなふうになったかな、って思っちゃう」


 急に語り出したので少し戸惑ったが、エルナーズはそこは指摘しないことにした。むしろどんな話題でもいいから喋り続けていた方がいい。何も喋らなくなったらその時はきっと立ち上がれなくなっている。


 立ち上がらなくてもいいかもしれない。彼女はここまでよくやった。


 神剣を、抱き締めた。


「関係ないわよ」


 エルナーズははっきりと否定した。


「男の子の恰好してようが、女の子の恰好してようが、一緒。たくましい子はたくましいし、だめな子はだめ。それに性別はあんまり関係ないわ。まして服装がどうかなんて些細な問題」


 ユングヴィは力なく笑った。


「エルが言うと説得力あるなあ」

「でしょう?」

「エルはかっこよくなったよ。でも、それって確かに、エルが男らしくなるのとはあまり関係ない気がするね。いつの間にか背が伸びて、目線が私と同じくらいになったのは、びっくりしたけど。そんなのは、普段から意識してるわけじゃないや」


 腕をまわしてユングヴィの肩を抱いた。ユングヴィの髪に傷のない右頬を寄せ、腕を撫でるように叩いた。


「泣きたかったら泣きなさい。受け止めてあげる」

「やだ、かっこよすぎでしょ……」


 不意に目の前に膝をついた者があった。チュルカ娘だ。


「わたし、タウリスに行こうと思います」


 声が泣きそうに震えている。


「ユングヴィ将軍をこれ以上ここに置いておきたないです。ウルミーヤに、やなくて、ほんま、ここ、言うて、誰かに来ていただきたいんです。せやからひとを呼びに行きます」


 また、銃声が響いた。いよいよすぐそこまで迫ってきているようだった。


「何言ってるの、危ないよ」


 チュルカ娘が首を横に振る。


「やけどここにはエルナーズ将軍も赤軍兵士のみんなもいてはります、ここに人を割いてもらわへんと」


 エルナーズとユングヴィの目が合った。


「そう、だね。エルをこれ以上戦場に置いておきたくないし、私の首がとられたら終わりなんだった」


 人の声が近づいてきている。


「すごく危ないと思うよ。できる?」


 彼女は大きく頷いた。


 ユングヴィは「よし」と言って立ち上がった。


「みんな、一発やるよ」


 そうして、副長がお守りにと渡した銃を手に取った。


「この子を裏から出す。私たちは表でサータム兵を引きつけよう」


 それまで黙って座り込んでいた赤軍兵士たち数名も、続々と立ち上がった。


「お前、その体でできんのかよ」

「やる。あんたらは黙って指示に従うんだよ」


 腰に下げていた小袋から、鉛色に輝く弾と白い包み紙の何かを取り出す。包み紙の中の黒い粉を注ぐ――火薬だ。





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