58. 玉五郎と日常の風景




 吉良真弦の仕事は自宅でやってるカルチャースクールの講師だけではない。最近は漫画原稿の仕事も来ていて大忙しだ。

 月刊少女雑誌の4コマ漫画を4ページ仕上げるだけなのでアシスタントはいらない。


「どんなネタにすべきか……」


 漫画のタイトルは『リリカル甲子園』という。いわばギャグ漫画である。


「……趣味の絵とエッセイブログの漫画は進むのに、一向に仕事は進まない。これいかに?」


 真弦が描き始めたのは猫の吾輩と子供達が主役のほのぼのブログの4コマギャグ漫画だ。

 漫画の依頼が来たのはこのブログの4コマ漫画からなので、編集サイドの注文は頑なに4コマである。

 漫画家のマトリョーシカ弦としは、4コマよりもストーリー漫画が描きたいと思っている。だが、ビジネスとしてはそれを許さない。願望と現実の間で真弦は激しくもがいているみたいだった。

 夫が学生である実態も相まって、真弦は絵の仕事を選べなかった。


 吾輩が器用に前足を使ってドアを開けて仕事部屋に入ると、真弦はぎっこんぎっこんと舟を漕いで眠りかけていた。

 おーい、4コマが5コマになっているよー?

 デジタルの原稿なのでコマ数が増やせる仕様になっているみたいだ。

 ペンタブを握ったまま、1コマ目の魔法使いの渋いおじさんに蕁麻疹みたいな斑点を延々とつけている。本来はコマに無い蕁麻疹である。


「終わらない……終わらない……」


 夢と現実の境目にいる真弦は眉間に皺を寄せながら呻いている。

 何だか可哀想になって来たので吾輩が起こす事にした。


「ニャー(起きろよ)、ニャー(しっかりしろ)」


 吾輩は真弦の肩によじ登って頬を突き続けた。


「……レバニラ炒めっ!」


 吾輩の揺さぶりむなしく、真弦はついに睡魔に負け、食べ物の名前を叫んで眠りに落ちる。

 妊娠してて胎児に悪いのに毎日そんな調子だった。


 キィ……

 ドアが開いて光矢が室内を覗く。真弦が眠っているのに気が付くと、そっとブランケットを肩に掛けてやった。





 吾輩は日曜祝日だろうと、雨が降らない限りは外の散歩を欠かせない。

 今日は晴天で、世のリア充共の恰好のデート日和だ。そんでもってくそ熱い。太陽熱で熱せられたアスファルトの熱が肉球にダイレクトに伝わってくる。


「(あぢー、マジであぢーよぉ)」


 息子のトラオと一緒に町内をパトロールしていると、すぐに軟弱者のトラオはばててしまう。


「(心頭滅却すれば火もまた涼し。という人間の世界の諺を知らないのか?)」


「(そんなモン知るかよ親父。俺は早く涼む場所見つけて涼みたいんだよ)」


「……」


 我が息子ながら嘆かわしい。

 吾輩はこう見えても青葉ぎんざ街と周囲の町内を取り仕切っているボス猫だ。近い将来、息子にボスの座を譲って引退しようかと思っていたのにそうも行かないようだ。

 巡回路の途中で見慣れない野良猫を見つける。


「ニャー(オイ、そこは吾輩のシマだぞ)」


 吾輩はたまに迷い込んでくる流れ者の猫を取り締まる仕事をしているのだ。


「キシャー!(お前がこのシマのボスか。何や弱っちい外見やのう)」


 やっぱり流れ者は自分の陣地が欲しいと吾輩に牙を剥いた。


「フーッッ!(貴様がこの青葉町に相応しい猫かどうか確かめてやろう)」


 流れ者との喧嘩はトラオが先行して爪の攻撃を仕掛けた。


 流れ者は強い。攻防は熾烈を極めるが、トラオは技の未熟さで競り負けた。

 委縮したトラオが尻尾を巻いて引っ込むと、総元締めの吾輩が前に出る。さすがに気を引き締めないとやられる。


 互いにフギー、フゴーと唸り声を上げながら取っ組み合う。

 吾輩が流れ者の首根元に噛みつくと、流れ者は降参して逃げて行った。


 こうして吾輩は毎日のように野良猫と喧嘩して自分の勢力を広げながら領地を守っているのだ。


「うなーっ(父ちゃんは強いなぁ。尊敬するぜ)」


「フン(お前も喧嘩の精進に励めよ。家で待ってるインド妻とダラダラ過ごしてたら一生町のボスになれないぞ)」


「ニャー(俺は平和主義だから別にそれでいいんだよ)」


「ニャー(そ、そうか……)」


 吾輩はちょっと寂しくなった。押し寄せる年波で生涯現役のボスという快挙は成し遂げられないと不安になっていたからだ。

 金玉五郎の隆盛は今一時の事だろうと自分自身で気が付いている。


 吾輩とトラオが夕涼みに使ういつものコンビニの前に到着する。

 コンビニの裏の物品搬入スペースが一番涼しい。店内の冷房が外に漏れているのだ。この事態に店長の鈴木は気が付いているのかどうなのか……。気が付かないで欲しい。


 コンビニ裏で涼んでいると、


「女連れでいちゃいちゃしやがって、目障りなんだよぉ!」


 どうやら非リア充だろう不良の一団がカップルを狩ろうと裏道で男女を襲っているようだ。


「ニャー(人間も喧嘩か。穏やかじゃないぜ)」


 トラオがコンクリ塀をよじ登って喧嘩を観戦する。

 さて、吾輩も観戦しよう。


 よじ登って不良グループに襲われたカップルを確認すると、礼二が美羽を連れていた。全然カップルじゃないのに、何も知らない不良にはそう見えたようだ。礼二と美羽は町内でも有名な仲良し兄妹だから仕方ないのかな。


「っざけんな! 美羽に触れようとする不届きな輩は全員ぶっ殺してやる!」


 痩躯の礼二は見よう見まねのプロレスの構えのポーズを取って果敢に不良に挑んで行った。

 不良は3人。


「ぎゃーっ!」


 格闘が不得手な礼二は瞬時に殴り倒されてしまう。

 あーあ、牛山兄妹も不運だな……。

 美羽は兄が殴られて呆然としたまま叫びもせずに突っ立っていた。真弦の強烈な仕打ちに慣れてしまっていたのだろう、礼二が哀れだ。


「さ、お嬢さん、こんな奴は放っておいて俺達とお茶……」


 不良のリーダーが美羽を誘う手前で別の男の拳が飛んでくる。リーダーが呆気なく宙に放たれる。

 どさっ。不良のリーダーはアスファルトの地面に伏せてそのまま動かなくなった。


「虎次郎さん!?」


 美羽の前に助けに現れたのは、偶然にも彼氏の虎次郎だった。


「相手になりますけど、どうします?」


 虎次郎は残った不良との間合いを詰めて行く。

 武道の構えと気迫を見た残りの不良はじりじりと後ずさる。


「ご、ごめんなさい!」


「人違いでした!」


 意味不明な捨て台詞を残し、不良は気絶したリーダーを抱えて虎次郎から逃げて行った。対する虎次郎に武道の心得があると一瞬で判断したようだ。


「大丈夫? 怪我はないか?」


 構えを解いた虎次郎は美羽に優しい表情を見せる。


「ええ、大丈夫よ。それよりもお兄ちゃんが……」


 美羽が指差す向こうで兄の礼二がボコボコにされてゴミのように倒れていた。


「あの人がお兄さん? 車がそこにあるから病院まで送ろう」


「いえ、いいの。それはやめて」


「どうして? あの人は君のお兄さんだろう?」


 虎次郎は未だに美羽の兄に関係を秘密にしている事を疑問に持っている。それに、当たり前に出た申し出を断られて眉根を寄せた。


「わたしがタクシーを呼んで病院に連れて行きます」


「え?」


「今の状態の兄にわたし達の関係を知られては困るの。精神を病んでるから、今日の怪我を含めてこれ以上ダメージを与えたら大変な事になるわ」


 美羽は悲しそうな瞳で傷ついて倒れている兄を慈しんでいた。虎次郎は未だ二の次であるようだ。


「そんな……。いや、わかった」


 虎次郎は美羽の表情を見て納得して寂しそうに車に戻って行った。

 あーあ、礼二なんて見捨てても良かったのに。と思うのは吾輩が真弦寄りの思考を持った猫であるからなのだろう。


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