また春が来た話

36. 去勢手術成功、そして




 真弦と光矢、そして美羽の仲が不明瞭なまま、吾輩の去勢手術当日を迎えてしまったのだった。土曜の午前は異様に晴れていた。


 光矢はあの3Pの情事以来、家を出て行ってしまった。

 昨日、真弦が登校して家を空けている時間帯に帰って来たのだが、無言で荷物を段ボールに纏めているようだったのが印象的だ。


 そして吾輩の手術日、真弦は光矢から貰った趣味の悪いキャリーに吾輩を入れて動物病院に向かう。無論、一人でだ。


 いつも真弦やペットの吾輩親子を気にかけていた美羽も傍にいない。


「予約していた天上院です」


 いつもの動物病院の受付で吾輩の診察券を提示する。

 受付のお姉さんがにこやかにほほ笑み、吾輩を抱える真弦が診察室兼手術室に入った。

「こんにちはー」


 そこにいたのはいつもの院長ではなく、いつぞやの子供店ちょ……杉野森だった。

 相変わらず子供っぽい容姿で青い手術着を着ている。

 マジックで書かれた研修医の名札ではなく、ちゃんと顔写真入りの名札を胸に着けていた。彼は杉野森良太すぎのもりりょうたという正真正銘の獣医だった。


「あ、あなたは……」


「やあ、久しぶり。わくわく動物病院から矢部動物病院に転属になったんだ。……って、どうしたお嬢さん?」


 なぜか、真弦は杉野森の子供みたいな顔を見るなりボロボロと泣き始めたのだ。


「え? 玉五郎ちゃんの去勢手術が怖いのか?」


 事情が分からない子供店ちょ……杉野森はオロオロし始めた。


「違うんです……。あなたを見たら急に光矢と出会った頃の事思い出して……」


 真弦は彼女らしくなく泣き始めた。どうやら真弦は光矢の方に本当に恋愛をしていたらしいのだ。今まで自分に嘘をついていた事実に気が付いていたようだった。

(賢い読者は光矢との出会いの時点で気が付いているよね? 吾輩もだけど)


「えと……、小生は人間については専門外だから……そのなんだ……」


 顔を見て泣かれた杉野森もいい迷惑だよな。


「うわぁぁぁぁぁん!」


 真弦は吾輩を抱きしめながら子供の様に泣き始めた。子供のような容姿の獣医はオロオロし、何事かと駆けつけてきた受付のお姉さんに真弦を託したのだった。

 吾輩は真弦と引き離され、手術台に載せられた。


 吾輩の去勢手術の執刀医は本当に杉野森らしい。

 だが、彼の横にいつも診てもらっている院長の矢部が立っている。


 吾輩の体に繋がれたペースメーカーからは規則的にピッピと音が鳴っている。

 手術室の向こうでは真弦が大声を上げて泣いているのが聞こえる。


「麻酔します」


 吾輩は口にマスクを当てられ、最後に杉野森の子供みたいな声を聞いて眠りに落ちた。ああ、さようなら我がオスの人生……。




 数時間後、夕刻が過ぎて暗くなった辺りで吾輩は目を覚ました。やっぱりお約束の檻の中で、血が付いたペットシートの上に転がされて尻に点滴をされている。

 下半身は麻痺していて立てない。

 そうか……吾輩は金玉を除去されたのだな……。

 金玉五郎という名前はなんだったのかわからない猫に変貌したというのか。


 吾輩が落胆していると、真弦が受付のお姉さんに伴われて陽気に入院ゲージの前にやって来た。


「万亀屋の抹茶パフェ美味しかったよねー」


「ねー」


 どうやら真弦は受付のお姉さんの赤井さんと恋バナをして甘味を食べてきたらしかった……。このやろう、心配して不安になってた吾輩の気持ちを返せ!


 真弦はすっかりけろりとした様子で吾輩の寝転んでいるゲージの中を見つめてきた。


「痛かった? 玉五郎……」


 真弦はゲージの隙間から手を伸ばして弱っている吾輩の毛皮を恐々と撫でた。

 吾輩は下半身が動けないまま、頑張って真弦にそっぽを向くように背後を向いた。


「あ、玉五郎! トレードマークの金玉があるよ!」


 真弦は吾輩の尻を見るなり喜んでいる。金玉は健在のようだ。

 後で院長から説明があって、杉野森が吾輩にパイプカット手術をしたと話してくれた。どうやらこのパイプカット手術、普通のペットにはしないらしい。いつもは躊躇なくスパッと睾丸を丸ごと切り取ってしまうらしかった。パイプカットなら繁殖が必要になったら睾丸を復活させる事が出来るとの事。

 良かった……! 吾輩はまだオスのままだ! アイデンティティを真弦の母親の出した大金で守られたようだ。







 パイプカット手術後の経過を見るために吾輩は一週間の入院させられた。

 去勢手術をしたオスはよく下半身のから炎症を起こしてあらゆる病に苛まれるそうで……。吾輩にそんな事は全く無かった。食欲もあるし健康そのものである。

 吾輩が入院中は毎日真弦が見舞いに来ていた。だが、吾輩と親交のある光矢や美羽は全く見舞いに来てくれなかった。

 彼らの様子が物凄く気になるのだが、今日は晴れて退院となって自宅に帰ってきた。


「ミャーン!(お帰り父ちゃん)」


 サビ猫の幼い愛娘が嬉しそうにすり寄ってきた。

 なにがあったのかは娘の方が詳しそうだから後で聞く事にしよう。


「なーん(寂しかっただろう、愛娘よ……)」


 吾輩は娘の毛皮をペロペロと舐めて乱れていた毛並みを整えてやった。


「お前達がいて、私は一人ぼっちにならなくて良かったよ……」


 真弦は吾輩達の入っている籠を見つめてめそめそと泣き始めた。

 そういや真弦は吾輩や光矢がアパートに転がり込んで来るまでは一人ぼっちの少女だったのだ。高校三年生になったとはいえ、まだ年端も行かぬ少女である。


 肩を寄せて座り込み、いつも偉そうに胸を張っている真弦が小さく見えた。


「彼氏も親友も失ったヒロインの気持ちってこういうものなのかな? ……事実は少女マンガより痛かったなんて」


 吾輩と愛娘は真弦が可哀そうで身を摺り寄せたが、真弦の場合は別れのいきさつが痛すぎて洒落になっていなかった。


「ねえ、玉五郎、光矢が就職決まったんだってさ。松葉コーポレーションに」


「ニャー……(それは元鞘に戻っただけだろうよ)」


 吾輩は猫だから声帯を操って人間の言葉が話せないから何も言ってあげられない。

 光矢は何を思って松葉楓の所に戻ったのだろうか……。あんなに真弦の事が「好きだ好きだ」と言って結婚までしたがっていた癖に。


「美羽がずっと口きいてくれないよ。話せる子なんて私一人だけだと思っていたのに、いつの間にか友達が出来てたよ。体育で一緒になる隣のクラスの大人しい子なんだけど」


 真弦は延々と猫の吾輩に美羽の学校での話をしてくれた。何だが未練がましい男のような感じもした。相変わらず真弦の気持ちははっきりしていなかった。

 そうか、真弦の気持ちがはっきりしなくて光矢も美羽も離れて行ったのだろう。






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