32. 玉五郎、パパになる




 深夜、真弦が布団を敷いて寝ようとしている時間帯に着信が鳴った。「がってんでい!」の着ボイスは既に飽きてやめている。


「誰だよ? こんな時間に空気の読めな……うわあーっ!?」


 真弦が昨日と同じく絶叫を上げた為、隣に繋がる壁からドンッと音がした。今日も隣の壁殴り爺さんは元気だな。


「真弦、どうしたんだ?」


 既に横になっていた光矢がのっそり起きてきて、プルプル震えている真弦の携帯を覗き込む。


「ちょ、何このちっちゃい毛むくじゃら? 6匹?」


 光矢が目を細めてほっこり和んでいる。

 どうやら携帯電話のディスプレイに小さい生き物が表示されているらしい。


「喜べ玉五郎! お前に子供が生まれたぞ!!」


「……!?(ええーっ!?)」


 驚いて硬直した吾輩を真弦が抱っこして胸に押し付ける。ボリュームのある乳房が吾輩の小さな顔に食い込む。


「マチルダちゃんがお前の子供を産んだんだ」


「おめでとう玉五郎、今日からパパだぞ」


 光矢はいきなりパパになった吾輩の背中の毛皮を優しく撫でる。


「……(苦しい)」


 それよりも真弦、早くおっぱいの圧迫から解放してくれないだろうか?

 パパになった喜びよりも、吾輩は物理的な息苦しさに辛くて悶絶して混乱していた。


「まさかお前に先を越されるとはなー、2歳児だからって侮っていたぜ」


「……あれ? 玉五郎が息してないぞ?」


 それから後で吾輩が意識を取り戻した場所は動物病院の折の中だった……。






 3月になったのかよく分からない時期の雨の日の夕方に、星崎留美が段ボールの箱を抱えてこの糞ボロいアパートに来訪する。


「こんばんは、八雲プロジェクトの留美でーす♪」


 時刻はまだ早いのだが、陽は既に落ちていてそう挨拶した方が良いのだろう。

 チャラい長身のギャルはニコニコ笑いながら、出迎えた真弦に段ボールの箱をそっと気を遣いながら渡した。


「駐車場は隣で良かったのかな?」


「あ、ハイ……」


 真弦は「どうぞ」と言いながら留美を自宅に招いた。あらかじめ来訪時刻を聞いていたので、部屋の中に転がっていたゴミや洗濯物は片づけてある。


「おじゃましまーす!」


 留美は元気に挨拶すると、笑顔で部屋に上がった。


「あ、どうもー♪」


 台所に立っていた光矢が挨拶する前に留美が先手に出ていた。


「こんちゃっす……」


 面食らった様子の光矢は夕飯に使うスペアリブの肉をフライパンでじっくり焼いている途中だった。

 肉のお供はスパゲティと温野菜らしく、麺と一緒に根菜と付け合せのウィンナーを茹でている。


「いい匂いですねー?」


 食い物しか楽しみがない漫画描きの習性が染みついているのか、留美は光矢の背後で鼻をひくつかせて物欲しそうにしている。


「……良かったら晩飯もどうぞ」


「キャッホー、ありがとう!」


 留美は真弦が飯の美味い彼氏と同棲していると耳にしていたのだろう、どこからか嗅ぎ付けて(弟か八雲に聞いたと思われる)あえて夕飯時に来訪時間を指定したのである。


 もぞもぞと音がする段ボールを開け放つと、小さくて丸い毛むくじゃらが5匹ほど蠢いていた。そしてミルクの甘い匂いがする。

 もしかしてこの獣は……吾輩の子供達では!? 一匹足りないけど。


「ミィ……」


 獣の中でも一番小さい汚い毛色の猫が鳴いた。

 5匹はそれぞれ違う柄で、幼体で縞が出ている黒1匹、吾輩と同じキジトラが2匹、黒と白のぶち模様の1匹と何かが混ざって失敗したような小汚いサビが1匹うぞうぞしていた。


「……(パ、パパですよー?)」


 吾輩が子猫の入った段ボール箱を覗き込むと、警戒しながら身を寄せ合い始めた。赤さん猫でも危機管理能力はしっかりしている。拒絶されても、か、悲しくなんて無いぞ。


「ごめんねー、急に子猫押し付けてさー」


 留美はヘラヘラ笑いながら段ボールの子猫達を交互に撫でている。インクの染みついた指に黒猫が吸い付くように舐めている。


「良いんですよ、新しい連載が始まったってお聞きしましたから。元はと言えば私のペットがいけなかったんですからそれ位は責任取ります」


「いやあ、まる子は若いのにしっかりしてるねぇー」


 留美は笑いながら真弦の太腿をバシバシと叩いた。


 ピンポーン


 突如インターホンが鳴り、真弦が応対しに玄関まで出る。

 松葉杖をついた制服の高校生がペットショップのビニール袋を提げていた。足に怪我をしていなければすぐにモデルにでもなれそうな整った容姿をしている。そしてBLにありがちな受け顔である。


「天上院さんですよね?」


「はい……」


 真弦は異常なほど可憐な雰囲気を放つイケメンの色気にやられていた。真弦は受けっぽい雰囲気の3次元イケメンに弱いからな。明らかにBLのストライクゾーンみたいだ。


「おーおー、よく頑張って来たな弟2号よ」


 留美は玄関に立っている弟を見つけると勝手に部屋に招いたのだった。弟と一緒に車で来なかった様子だ。


「いつも姉と兄がお世話になっています」


 留美の弟は潤平じゅんぺいと星崎姓を名乗った。相変わらず複雑な家庭が垣間見える三兄弟の末っ子である。

 潤平は礼儀正しく挨拶すると、真弦にペットショップのビニール袋を渡した。

 姉弟で別行動していたのは子猫のミルクと離乳食を購入した為らしい。子猫達を連れまわして買い物は出来ないからな、解るわ。


「いいえ、こちらこそ……」


 雨粒で濡れたビニール袋から水が滴り落ちている。真弦のGパンを濡らした。


「あ、ごめんなさい、歩くのがやっとで袋濡れるの気が付かなくて……!」


 潤平は慌てた様子でリュックから花柄のタオルを引き抜いて真弦に渡して拭くように差し出した。微かに花の柔軟剤の香りがする。タオルは未使用だったみたいだ。

 ……星崎潤平、男子高生にして女子力が異常に高い存在である。


 真弦があの芸能人(羽瀬和成)を見るようなキラキラした目つきでGパンの水分をしつこく拭っていると、料理の皿を持った光矢が物凄い形相で潤平を威圧していた。


「良かったら弟さんの分もどうぞ」


 光矢の声は氷点下に達していた。特に来訪してくる人数までは聞いていなかったので、料理は3人分しか用意していなかった筈だ。明らかに素人のイケメンにイラついているのがわかる。


「アハハ、どうもすみません」


 弟の所為で空気が悪くなったと知った留美が情けない表情で笑う。


「3人分しか用意してねえから、真弦は食うなよ」


 嫉妬の冷たい炎を燃やす光矢はしつこくタオルで水滴を拭う真弦を睨む。


「わあーごめんなさい! 俺が来るって知らせてなくて……いたたっ」


 慌てた潤平が立ち上がるが、足を怪我しているので上手く立てないでいる。たたらを踏んで躓くが、その姿も何だか変な色気がある。


 しばらくして、光矢の隣に潤平が立ち、台所で一緒に追加の料理を作り始めた。


「うふーっ。料理ができる男子って良いですなぁ」


 調理の様子を腐った思考のある女子二人がニヨニヨと気持ちの悪い笑みを浮かべながらそれぞれ変な妄想を浮かべて観察しているのだった。特に留美、実の弟でBL妄想が出来るなんてそうそういないハイレベルな腐女子なのは間違いない。





 星崎姉弟は夕飯を食べ終えた後もずっと居座っていた。

 姉は光矢と一緒に酒を飲み、弟は吾輩を膝に乗せて子猫に付き添っている。


 この部屋の世帯主は酒を飲んでいる成人に交じってウーロン茶で会話に加わって楽しそうにしている。

 話題は子供の頃にはまっていたアニメについて。

 3人とも年齢差があるのでそれぞれギャップがあって面白いのか盛り上がっている。


 蚊帳の外の潤平は吾輩の腹を撫でつつ、子猫達にミルクと離乳食を与えている。


「大きくなれよー」


 潤平は正当な暗いオタクの遺伝子を持つ人間なだけあって、対人スキルはあまり持ち合わせていないようだった。部屋の中でぼっちにされても慣れていて平気な様子だ。オタクでギャルの姉が異常なほど社交的なだけで、むしろ彼は普通の草食系なのだろう。


 吾輩は潤平のお蔭で我が子をじっくりと見る事が出来る。

 潤平がスマホの画面からもう一匹の我が子を見せてくれた。真っ白い毛皮だ。カトレアという名前の娘らしい。そうか、カトレアは八雲の家で飼われているのか……。

 子猫の入った段ボールの中に吾輩が入ってみると、子猫達が寄ってきて乳首を探し始める。


「みゅーみゅー」

「ミー」


「……!(パパはおっぱい出ないでちゅよ!)」


 ついつい我が子の前で赤ちゃん言葉になってしまうが、人間は全く吾輩の異変に気が付かないわけで……。


「アハハ、玉五郎はミルク出ないよ」


 猫に向かって可憐に微笑む潤平は確かにBLの受け臭がする男である。実の姉が言うから間違いないのかも知れない。

 時折真弦がチラッチラ潤平の動作を見つめており、ノートを取りたい衝動をウーロン茶とあたりめで誤魔化していた。


 堪え切れなくなった真弦は、


「あ、あのう……」


 ノートを持ち出して潤平に絵のモデルになるよう申し出た。






 深夜、すっかり酔っぱらった留美と素面の潤平が帰って行った。

 なんと潤平は泥酔した留美を車の後部座席に乗せ、制服の上着を脱いで怪我した足で無理やり車を運転して帰ったのである……。


「ウソだろ……」


 見送った光矢は潤平の運転テクニックに驚いていた。


「潤平君って高3でダブってるらしいよ」


 星崎潤平は可憐な容姿に反し、学業はあまり出来る方では無かったのか、はたまた漫画家のアシスタントが忙しすぎてうっかりやってしまったのかは定かではない。


 真弦は家の中で戦利品を漁り始めた。

 ノートには星崎潤平をスケッチしたイラストがバッチリ描かれている。イラストの仕草にやっぱり色気がある。可憐な雰囲気や表情を上手く掴んでいる。絵の中の彼はBLが何たるかを姉に仕込まれている為に、適切にBL臭い一人ポーズを取ってくれていたのだ。


「んほおおおおお、今までにないお色気だよーっ! 光矢さん、カメラはどうなんだねっ!?」


 真弦はみさくら語で口癖になっていた「んほおお」を連発しながら超ハイテンションでカメラを確認する光矢ににじり寄った。


「バッチリだぜ真弦さん!」


 光矢はウィンクをしながらカメラのデータをパソコンに移動させてブラウザに表示させた。


「んほおおおおおおお!?」


 主に潤平に抱かれた吾輩と子猫達がパソコンの画面に収まっている。

 真弦が何枚か写真を全部見終わった後に落胆する。


「猫しかいねええええええーっ!!!」


 懲りずに真弦がまた夜中に絶叫し、隣の爺さんが耐え切れなくなってインターホンを押してきた。


「毎晩うるせーっ!」


 ドアを開けると爺さんの入れ歯が飛び兼ねない勢いで怒鳴られた。

 そして思いをぶちまけた爺さんは「うるさいのはセックスだけにしてろ」と吐き捨てるとよぼよぼと帰っていく。


 結局、光矢は自慢のカメラで子猫の里親募集の写真を撮影したのみだった。




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