(2-3)
3.
あれ以来、ドアの開発は滞っていた。次なる課題は小型化と省力化になる
が、もはやそれどころではなかった。あらゆる意味で手詰まりの状況になり、
崎島は自宅でごろごろするだけの生活が続いた。
被災地に届けた一〇tの資材は、案の定まるで報じられることはなかった。
せいぜい都市伝説のレベルに留まり、本気で信じているものは少数派だ。その
様子に崎島は落胆したが、否定派の主張にはこんなものがあった。「いくら理
論の考案者が日本人だからといって、日本の一企業が国家予算まで投じている
米国に先んじるわけがない」もっともだ、と崎島は思った。なぜ日本は国家事
業としてドアの開発をしないのか。それどころか開発を妨害することにしか頭
にない。
吉田社長が野党に手を回し、法整備がまだ完全でないことを根拠に技術の取
り押さえだけは防いでくれている。だが、それも長くは続くまい。主任研究者
は自宅での謹慎処分。こうなると数年ぶりに自炊を迫られる。
腹が減った。だが、米を炊くような時間でもない。冷蔵庫を覗く。食材の備
蓄はある。しかし、手軽に空腹を満たせるようなものはない。食パンでもあれ
ばちょうどいいが、あるのはせいぜいハムやチーズ。あとはキャベツか。納豆
もあったが、これだけを食べても仕方がない。もともと自宅と研究所の往来に
のみ行動範囲は限られていた。そのうえ自宅謹慎、いい加減にストレスが溜ま
っていた。
田舎とはいえコンビニくらいはある。クリスは外出を控えろといったが、ド
アの秘密を握っているということならクリスだって同じだ。だが、彼は平気で
外出している。今までだって無事だ。もちろん論文発表者の方が優先的な標的
になるだろうが、コンビニまでは大した距離もない。人目にだってつく。崎島
は靴を履いた。
めったに外に出ないから気づかなかったが、ここは静かでいい場所だ。一面
に広がる田圃の緑が目に優しい。青空もよく映えている。夏の日差しは少しき
ついが、空気も綺麗で、ただ散歩するのが心地よい。思わず背伸びをし、深呼
吸をする。
べちょり、と頭上に不快な感触を覚える。手で拭う。雨ではない。蝉の小便
だ。あざ笑うかのように飛び去っていく。先までは心地よい背景音だった蝉の
鳴き声が不快に響く。せっかくのいい気分が台無しだ。
気を取り直して歩みを進める。快い風が頬を撫でる。多少のトラブルなど吹
いてくれる。だが、風のもたらす作用はそれだけではない。コロコロと足元で
響く音、それがなにを意味するのかがわかったのはことが起こってからだっ
た。スチール空き缶を踏みつけ、盛大に転ぶ。かろうじて受け身が間に合い、
最悪の事態は避けられた。だが、もう気分はどん底だ。
さっきの蝉といい、この空き缶といい、これもやつらの妨害か? 起き上が
り、そんなことを思う。いや、ただの不運だ。さすがに疑心暗鬼が過ぎると自
嘲する。空き缶を蹴飛ばし、わずかでも怒りを発散する。こんな田舎でもポイ
捨てがあるのか。そう思うと、再び馬鹿げた陰謀論が頭をもたげる。なんにせ
よ、気分転換で外に出たはずがひどい仕打ちだ。
膝についた泥を払っていると、スクーターに乗った男が猛スピードで側を通
過した。身体がわずかに接触。反射的に避けると、鞄は男の手の中に。尻餅を
つき、数瞬してやっと状況を理解する。
「ひったくりだ!」
叫んだときには遅い。追い駆けても間に合うはずもない。スクーターは遙か
彼方に逃走していた。
これも不運か。いや、違う。もしあれが敵の手先なら大変なことになる。あ
の鞄には、遠隔インターフェイスの携帯端末が入っているのだ。
「あの携帯が奪われただって?!」すぐにクリスに連絡したが、思った通りの反
応だった。「犯人は? まさか敵国のスパイか?」
「わからない。少なくとも実行犯は日本人だった……と思う。警察にはさっき
被害届は出してきたところだ」
「ただのひったくりだったのか。それともどこかの国に雇われていたのか。だ
からあれほど外出は控えろと……」さすがのクリスも、その声には怒気が孕ん
でいた。
「あの携帯と同等の機能を今から用意できないか?」
「それができたら君だけが隠し場所を知ってる意味がないだろ。ただ、機能を
停止させることはできる」
「ああ。それはいわれたとおり奪われた直後にやっておいたよ」
「OK。それなら今さらあの携帯を解析しても無意味だ。だが、再設定にはド
アが必要になる」
遠隔インターフェイスの暗号化にはワンタイムパスワードを採用している。
携帯と受信機にそれぞれ精確な時刻に合わせて一六進数の数列を生成するアル
ゴリズムが組み込まれており、アクセスした時間で数列が一致するかどうかで
パスする。そして、このアルゴリズム装置は携帯と受信機にしか存在しない。
「つまり、隠し場所へ徒歩で向かうしかないってことか?」
「そうだ。ドアだからな、電力費さえ度外視すれば海外に隠すことも可能だっ
たが、隠し場所を徒歩で向かえる範囲内にするよういったのはこのための安全
措置だ」
「安全措置、か」
「むろん、この状況では危険だ。しかし早めに動く必要がある。待ってろ。俺
も一緒に行く。どのみち隠し場所は移すことになるんだ。一人では危険すぎ
る」
二人は自家用車を持っていない。崎島は通勤にドアを使うことになるので引
っ越しついでに売却。クリスはビザ滞在の身だ。よって、二人の移動手段は自
転車になる。交通量の少ない田舎では優れた移動手段だ。
クリスはすぐに崎島の自宅前に到着。洗練されたデザインのロードバイクに
跨がり、ヘルメットにサングラスの完全装備だ。口元に笑みはなく、見えない
表情からは若干の怒りを感じる。ここから先は崎島の誘導になる。互いに無言
のまま巡航速度で目的地へ向かう。ドアでは一瞬だが、足ではやはりそれなり
に距離がある。景色もなかなかなものだが、背後からのピリピリした空気に田
舎の風景を楽しむどころではなかった。
「この峠の上か。ありきたりではあるが、まず見つからないな」
「ちょっと待ってくれ。地図を確認する。なにせ、徒歩で向かうのは隠し場所
を物色していたとき以来だからな」
隠し場所は二ヶ月ごとに移しているが、今の場所を見つけたのは一年以上前
になる。記憶が定かでないのも不安材料だ。もちろん目立つような場所ではな
い。来るだけならほぼ毎日通っていることにはなるのだが。
ギアを切り替え、峠を登る。車通りはたまにあるかないか。左右は林に囲ま
れ、道路には木陰が落ちる。こんな状況でなければサイクリングにはちょうど
よさそうだ。そこまで急な坂ではなかったが、久々の運動に崎島の身体はガタ
が来ていた。しかし、そうもいってはいられない。クリスは場所を知らないの
で、崎島が先行するほかない。息を切らしながらも駈け上る。
ふいに、後続のクリスが横転。崎島も急ブレーキをかける。
「大丈夫か!」
ほぼ同時に黒のセダンが隣接して停車。数人の屈強な男が車から降りると、
よどみのない動作で崎島を取り囲み、口元をガムテープで押さえ、拘束して車
へ引きずり込んだ。実に数秒間の出来事だった。
分厚い目隠しをされ、ヘッドホンには大音量のノイズが流れる。後ろ手には
指錠をかけられた。感触からおそらく金属製。がっちり親指が固定され、食い
込むほどに締めつけられている。
捕まった。あっさりと。抵抗すらできなかった。激しく心臓が高鳴るも、ど
うすることもできないという無力感が胸を押さえつける。
見えず、聞こえず、動けず。視覚と聴覚を奪われ、自由を奪われながらも、
意識だけは奪われない。薬品や首締めなどによる昏倒は映画では常套手段だ
が、実際には命の危険を伴う場合もあり、そして気絶させる必要もない。逆
に、持続的な恐怖を与えることで心理的な効果も望める。それは今まさに実感
するところだ。
車に乗せられた。どこに向かっている? 峠を登っているのか? 車の揺れ
から蛇行しているのはわかる。不快なノイズ音に加え、周期的に鳴らされるけ
たたましいサイレン音のせいでろくに思考もまとまらない。彼らは日本人では
なかったように思う。体格がかなりよかったのは覚えている。服は黒かったよ
うな気がする。顔についてはなにも思い出せない。サングラス……していた
か?
この先は拷問か。なにをされる? 爪でも剥がされるのか? 目玉を刳り抜
かれる? その前に洗いざらい吐いてしまえば楽になれるか? 黒く混沌とし
た思考が脳内を渦巻き、空調の効いている車内にも関わらず、粘度の高い脂汗
が額を流れる。いや、それよりクリスはどうなったのか。転倒は偶然ではない
だろう。なにが起きた? なにをされた?
またサイレン音。耳がおかしくなりそうだ。指錠が親指に食い込み痛む。両
肩に圧力を感じる。乗せられたのは後部座席。左右に一人ずつ男がいるらし
い。最低でも二人。いや、運転手を合わせれば三人。助手席にも乗っていれば
四人。逃げられない。敵うはずがない。状況すらわからない。どうすることも
できない。肩を揺することすら叶わない。
前触れなく、横に急激な加速度が襲う。急カーブ――いや、車は回転してい
る! ヘッドホンの向こうからもタイヤが地面に擦れる音が響いていた。そし
て衝突、崎島は前のめりに姿勢を崩した。
衝撃で目隠しとヘッドホンが外れ、ようやく状況がわかる。拉致犯は四人。
車はガードレールにクラッシュし、煙を吐いてもう動かない。隣に座っていた
黒人の男が崎島を外へ引きずり出す。男は崎島を庇いつつ、ホイールを盾にす
るように膝をつき、その場から動こうとしない。他の三人も同様だった。
ときおり聞こえるのは鋭い風切り音と衝突音。そして、ホッチキスのよう
な、あるいは爪切りのような音。そんな軽い音のために、前輪の方で男が一
人、糸が切れたように倒れた。拉致犯の手元にちらりと黒光りする拳銃が見え
る。崎島は銃には明るくないが、銃口に装着された部品については映画で見た
ことがあった。サプレッサーだ。男が構え、引き金をしぼる。音はほとんど響
かない。カチリ、カチリとそんな小さな音が鳴るだけだ。むしろ排莢音が大き
く響いた。
崎島を拉致したのはスーツに身を包んだビジネスマン風の男たち。おそるお
そるガラス越しに覗くと、敵対している人影は浮浪者、あるいは楽団のように
見えた。誰もがその姿に似つかわしくない動きをしていた。各々武器を保有し
ているはずなのだが、布きれやケースに隠され、それすらも確認できない。た
だ、複数の勢力が入り乱れていることだけはわかった。
これは戦闘なのか。目の前で繰り広げられる非日常、そしてこの静かさ。銃
とは無縁の日本で暮らしてきた崎島には想像の埒外の出来事だった。映画でも
こんな光景は見たことがない。こんな迫力のない画などスクリーンで映せるは
ずがない。
だが、その場に居合わせた崎島は刺さるような脅威を感じていた。あれで撃
たれても、きっと死んだこともわからないに違いない。さっき倒れた男もそう
だったのだろう。
そして気づく。クリスもこの無音の狙撃銃に撃たれたのか。しかし、今は彼
の身を案じている余裕はない。自身がこの場をいかに切り抜けるかだ。
後輪のホイール、男の影に身を潜めながら、可能なかぎり周囲を見渡す。こ
こはまだ峠の上だ。それも、さっきより高く登っている。峠を越えようとして
いたのか、それとも隠し場所を探していたのか。いずれにせよドアの隠し場所
には近づいている。
今しかない。敵対勢力同士で衝突している今しかない。指錠をされたままど
こまで走れるか。それでもやるしかない。
彼らにとって崎島は重要な護衛対象。だが、全員が臨戦態勢をとらねばなら
ぬほどの攻防。頻繁に目を配るものの注意は散漫だ。そのうえ、彼らにはずり
落ちた目隠しを直す暇すらない。いずれチャンスは来る。その準備として汗で
粘着力の落ちた口元のガムテープを車に擦りつけるようにして可能なかぎり剥
がす。
敵勢力が複数方向から同時に攻撃を仕掛ける。即座にビジネスマンが応戦。
崎島の目の前で窓ガラスが粉々に砕け散った。身を守ろうにも両手は縛られて
いる。反射的に身を退き、ガードレールに頭を打った。破片は細かく、それ自
体は危険がないものだったが、それに気づくには少し時間がかかった。地面に
血が流れていたからだ。黒人の巨体がごろりと倒れる。ガラスの破片による怪
我ではない。撃たれたのだ。側頭部に銃創が見える。即死だった。
息が詰まる。過呼吸、それもガムテープに阻まれる。このままでは窒息して
しまう。鼻で思い切り吸い、口で思い切り吹く。片側が剥がれ、ガムテープは
べろんと垂れ下がる。これで口呼吸ができる。
冷静に状況を分析する。襲撃者の狙いもオリジナルドアの所在か。だとする
ならば、いきなり殺されることはないはずだ。そう思い込み、なけなしの勇気
を振り絞るほかない。立ち上がり、不安定な姿勢で一気に駆け抜ける。
背に投げられた罵倒は英語か。あるいは中国語、さらにはロシア語。ここは
本当に日本なのか。ワンダーランドに迷い込んだような非現実感と危機迫る臨
場感の間で、崎島は走った。
急なダッシュは運動不足の崎島の身体にはだいぶ堪えた。捕まれば殺され
る。今度は先とは矛盾する自己暗示で身体を奮い立たせる。ドアにたどり着け
さえすれば逃げられる。そのたしかなゴール設定も崎島に力を与えた。
ドアの隠し場所は峠の頂上から少し降りた窪地、林の中にある寂れた小屋
だ。徒歩でここへ訪れたのは一度だけ。曖昧な記憶の底を掻き乱す。木にもた
れ、呼吸を整える。小枝や木の葉を踏みしめる足音が聞こえる。探し回ってい
る。逆にいえば見失っているのだ。たびたび各種言語の罵りあいが聞こえる。
彼らに協力はあり得ない。銃声こそ聞こえないが、衝突は必至だ。せいぜい足
を引っ張り合うといい。
タイミングを見計らい、再び駆け出す。間違いない、この先を一直線だ。後
ろ手に拘束されながらも、身体中に擦り傷をつくりながらも崖を滑り降りる。
小屋が見える。他には誰も見えない。ざまあみろだ。ここまで来ればこっち
のものだ。
勝利感は束の間、小屋の前に立ち尽くす。背筋が凍り、心臓が止まる。
扉が開けられない。
後ろ手に指錠をされたままでは、小屋の開き戸はどうにもできない。考えも
しなかった現実に放心する。
いや、できる。できるはずだ。やるしかない。後ろを向き、懸命にノブを回
す。こんなことなら引き戸にしておけば。そんな後悔など無為だ。ただ、運良
く鍵はかけ忘れていたようだ。こんな場所でも偶然発見してしまうものはいた
だろうに。日頃の詰めの甘さが幸いした。
だが、回らない。後ろ手ではノブを回すこともできない。その間にも彼らは
迫っていた。緊張と汗がさらに手元を狂わせる。いっそ蹴破るか。いや、この
外開きの扉でそんなことは不可能だ。回らない手首で、上半身を傾けながら強
引にノブを半回転、手応えを感じ、そのまま引く。
開いた。再び閉めてしまうへまをしでかさないよう、慎重に扉のすき間に足
を挟み込む。英語の怒声が響く。今度はかなり近い。さらに他言語の声も続
く。扉を開くと、すぐに小屋の中へ飛び込んだ。
素肌であれば、ドアを起動するのに手で触れる必要はない。崎島は顎でドア
に触れ、第一開発室へ空間を繋げた。すぐに飛び込み、彼らの顔を見送りなが
ら、開発室側で即座にドアを切断した。
そして、その場にどっと倒れ込む。
助かった。安堵と疲労が堰を切ったように雪崩れ込む。ぶらぶらと未だに頬
から垂れ下がるガムテープが張り付いてきて不快だった。
喉がカラカラだ。タオルで汗も拭きたい。シャワーを浴びて泥を落とした
い。だが、そのためにはまず指錠を外さなければならない。
呼吸を落ち着けると、あぐらをかいてドアに向き合う。出口を真後ろに接続
し、入口に自らの背面を映す。指錠は金属製で、二枚の板を重ねたような構造
になっている。そう簡単にはとれないだろう。助けを呼ぶか、しかしこの態勢
では第一開発室から出ることもできない。自宅謹慎処分中でもあるためIDも
無効になっている。声を上げても誰もここへは入れない。クリスに連絡できれ
ば話は別だが、携帯を取り出すことすらできない。
助かったにしては袋小路で思わず笑いがこみ上げたが、焦りはなかった。敵
からは逃れられた。それにドアもある。手はいくらでもあるはずだ。
腕を後ろに突き出し、ドアに通す。正面の入口の様子を見ながら、位置を微
調整する。自身の身体を通さぬよう、指錠だけを出口に通す。慎重に、腕をぷ
るぷる震わせながら、空間を切断する。コトリ、と金属片が手前に落ちる。も
う一度ドアを同じ位置に起動し、成果を確認する。指錠は親指ギリギリのとこ
ろで切断されたが、それですぐに外れるわけではない。だが、かなり薄くはな
った。適当なでっぱりに体重をかけ、無理矢理押し広げる。親指をだいぶ痛め
たが、やっとのことで両手が開放された。すぐに頬のガムテープも剥いで捨て
る。
ほっと胸をなで下ろし、腰を落ち着け、考える。
クリスはどうなったのか。あの突然の転倒は、やつらに撃たれたものとみて
間違いないだろう。では、殺されたのか。いや、それはない。クリスもまたド
アの重大な手掛かりだ。しかし、捕まっている可能性はある。
このまま連絡をしていいものか。もし捕まっているのなら罠に飛び込むよう
なものだ。度重なる苦難に崎島も疑い深くなっていた。とはいえ、連絡しない
わけにはいかない。
第一研究室ではあらゆる電磁波が遮断される。外部へ連絡するには専用回線
を使うか、ドアで外に穴を開ける必要がある。崎島は後者の方法をとった。
「クリス、無事か!」
「ああ、なんとかな。君もそのようで安心した」
「撃たれたんじゃないのか?」
「どうやらそうらしい。撃たれたのは肩だが、プラスチック弾だろうな。痣が
できただけで出血はしていない。自転車は無事だったからそのまま逃げ延びて
きた」
無事だった。安堵と同時に、疑問も生じた。なぜ無事なのか。あの連中から
逃げることは本当に可能なのか。本当に逃げ出せているのか。彼らの第一目標
は崎島だった。クリスを撃ったのは邪魔者の排除を目的としたもの――そう考
えれば、クリスの話は不自然ではない。しかし、用心に越したことはない。
「アキラ、ドアは無事か?」その質問には、心臓が飛び出す思いだった。
いや、落ち着け。素のクリスでもドアの安否は気になるはずだ。彼の声色に
不自然さはない。
「アキラ?」長い沈黙にクリスが訝しむような声を出す。
「ああ、ドアも無事だ。今はどこだ?」
「警察署だよ。突然撃たれた、と訴えてはいるんだがどうも信用されなくて
ね。君が拉致されたのも見たとも証言したが、その様子じゃますます信用され
そうにないな。そっちは?」
「吉田製作所だ。こっちへ来てくれるか?」
「OK。事情聴取が終わったらな」
電話を切る。ドアの場所は聞いてこなかったが、第一開発室であることは容
易に予想できることだろう。IDが無効になっている崎島にとって、通常の方
法ではこの部屋から出るすべはない。崎島は連絡用に外に繋いだドアを切り、
今度は第一開発室内に出口を設定する。そして、そのまま入口を自らの専用ロ
ッカーに隠して鍵を閉める。ロッカーは大人が一人入れるだけの大きなもの
だ。出口からロッカーの中へ入ると、次は開発室の外に出口を設定した。
吉田製作所も久しぶりだ。せいぜい一週間ぶりといったところだが、ずいぶ
ん懐かしく感じられる。適当に歩き回り、クリスが来るまで時間を潰す。「松
山、どうしたんだろうな」そんな会話が耳に入る。休憩室で煙草を吸っていた
二人は、元・ドア開発室のメンバーだった。
「え、主任!? 自宅謹慎中ではなかったんですか?」
「ちょっと私物を取りに来ただけだよ。すぐ帰る」
「それに服がボロボロじゃないですか。いったいどうしたんです?」
「そんなことより松山がどうしたって?」
嘘をでっち上げるのも面倒なので話題を変える。怪訝そうな顔をしながら
も、彼は元上司の質問に答えた。
「松山のやつがもう五日も無断欠勤してましてね。ドア開発室が解散になった
のがショックってのはわかりますが、あいつが無断で、ってのはどうも珍しく
て。それだけじゃなく携帯にも出ないし、スカイプにも顔を出さないんです
よ」
「五日も……」
松山の勤務態度を知るかぎり、今までそれほどの長期欠勤も、それどころか
病欠の記録もない。インフルエンザを押して出勤してきたときには、さすがに
迷惑だからと無理矢理病室に放り込んだ。その松山が五日も無断欠勤をすると
いうのは異常だ。しかし、ドア開発室に解散命令が下されるというのもまた異
常。あの松山も心因性のショックには耐性がなかったか。
崎島の頭は、すでにそんな楽観的な推測など受け入れられるものではなくな
っていた。松山もまた、連中に襲われたのだ。彼を含めたドア開発室のメンバ
ーは、オリジナルドアについてなにも知らない。だが、そんなことなど連中に
知る由はない。あるいは、これは脅迫なのかもしれない。
松山は殺されたのか。そこまで思考が辿り着くと、またしても鼓動が早くな
った。なにも知らないことがわかれば、証拠隠滅のために殺害もありうる。そ
れくらいのことはやりかねないだろうということはよくわかった。
「主任?」
「いや、すまない。クリスを待っているので、失礼させてもらうよ」
「なるほど。他の勢力もアキラを狙っていて、それで脱出できたのか」
崎島はクリスに一部始終を話しながら、その一挙一動を追っていた。見た目
は普段どおりだ。怪しいところが見つからないので、崎島もついに痺れを切ら
した。もういい、ややこしい駆け引きなどごめんだ。直接聞いた方が早い。
「なあ、クリス」注意が向いたのを確認し、続ける。「やつらに捕まってない
だろうな?」
クリスは質問の意味を理解できずに目を丸くしていた。しばらく間が空き、
きょとんとした表情のまま考え、そして膝を打つ。
「ぷぷっ、ははは! なるほど、さっきから妙にそわそわしていると思った
が、そのことを危惧していたのか。ずいぶん成長したな。いい用心深さだ」
「盗聴器か?」冗談交じりの明るい返事の前にも、崎島の表情は真剣なままだ
った。それを受け、クリスの表情もシリアスになる。
「いずれにせよ、ドアの場所は気になるだろう。ついてきてくれ。というか、
今は君のIDでしか開かない」
崎島は黙って第一開発室の前まで案内した。クリスのIDと指紋認証で第一
開発室の扉を開く。二人で中に入り、扉が閉まると崎島は口を開いた。
「第一開発室では電波は遮断される。ここならいいだろう」
クリスもほっと息をつき、口を開く。
「OK。見える位置にドアはないようだな。ドアの場所は聞かないよ。遠隔イ
ンターフェイスの再設定方法を教えよう」
ここでも彼の態度は変わらなかった。
「……本当にクリスなのか?」
「ん? どうだい、実に見事な変装技術だろう?」
「そういう意味じゃない。さすがにそんなことまで疑ってないよ」
「ま、たしかに俺が捕まってないというのはおかしな話だ。実をいうと俺も不
審に思っていた。君より優先順位は低いとはいえ連中が俺を見逃すはずはない
と。しかし、他の勢力との争いがあったと聞いて納得したよ」
「つまりそういうことなのか?」
「つまりそういうことなんだろう」
互いに沈黙したまま、見つめ合う。目を見て、嘘がないことを確認する。崎
島が先に視線を降ろし、沈黙を破った。
「疑って悪かった。だが、君の忠告は守ろう。ドアの場所は教えない」
「よろしい。テストは合格だ、とかいったらどうする?」
「はあ?」
思いも寄らぬ発言に、今度は崎島が目を丸くした。
「あれ、わからなかったか。いや、今までの一連の騒動はアキラに十分な注意
深さを養わせるためのテストで~、みたいな」
「笑えない冗談だ」
「アキラがジョークを解説させるからだ」
「よくこんなときにジョークが言えるな」
「思いついたんだから仕方ないだろ。しかし、たしかに笑える状況ではない
な」
一転、クリスの顔も険しくなる。
「アキラ、これからどうする。日本政府の妨害に各国のスパイ。どこも敵だら
けだ。吉田社長もよくやってくれているが、時間と共に状況は悪化するばかり
でしかない」
「……僕はもう、オリジナルドアの存在を公表するしかないと思っている。そ
うすれば、ドア技術は現実のものとして受け入れられ、世論が味方につくはず
だ」
「いや、公表は危険だ。最悪その場で殺されかねない。連中はドアの確保もそ
うだが、ドアの公表もおそれている。第一優先はドアの確保。それも極秘のう
ちに。研究者の確保も望ましいが、第一目標が達成され、かつ彼がその邪魔を
するというのなら彼を始末することだって厭わないだろう」
「じゃあどうすればいい。このままみすみす……」
「もう他に手段はない。亡命するんだ」
「亡命だって?」
「日本でドアの開発を続けるのはもう不可能だ。その上各国のスパイが君を狙
ってる。日本は君を守ってはくれないだろう。ならば、亡命するしかない」
「しかし……」
「軍事利用はそんなに嫌か?」
「な、クリス! なにをいってるんだ!」
「状況が状況だ。どのみち軍事利用は避けられないんだ。むしろ二年間粘った
だけでも大健闘というべきだろう。各国がそれぞれ独自にドアを開発し、互い
に牽制し合っている。この状況なら――」
「亡命か」
松山はおそらく殺された。下手をすれば国際問題になりかねないというの
に、彼らは日本国内での暗殺すら躊躇わない。そしてそんな状況から、日本は
決して守ってはくれない。少なくともドア技術の譲渡ないし放棄が条件にな
る。それだけは認められない。
亡命。今まで考えもしなかったことだ。しかし、いざ本気になって考えてみ
ると日本への思い入れなど大してないことに気づく。すでに脳内では身辺整理
の構想を思い描いていた。
三日後、崎島はこれまでのすべての研究データを携え、ドアによる米国への
亡命を決意する。
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