第109話「出立」

 沙菜の口から穂高の過去が語られた。

 そんな話をしていてもいまだ若菜が到着しないので引き続き待っていると、『にゃ~』という鳴き声と共に一匹の猫がやってくる。

「あっ、ねこさん。お見送りにきてくれたの? ありがと~」

 穂高は、自身の飼い猫を拾い上げた。

 猫はやってきているというのに若菜はまだ来ない。

「穂高ちゃん。その猫に名前はつけてあげないの?」

 沙菜がベラベラしゃべっている間、何も口をはさむ機会がなかった龍次が穂高に尋ねる。

「ほわ? 猫だからねこさんだよ?」

 穂高は、飼い猫の頭をなでながら、分かるような分からないようなことを言い出した。

「いや、それは名前つけたっていわねーだろ」

 いつも通り涼太がつっこみ役を担う。

 その言葉を聞いて、自身の障害の話を聞いている間もニコニコしていた穂高が表情を陰らせる。

「わたし、ねこさんの本当のお名前知らないの……」

 穂高の飼い猫は、元々捨てられていたのを拾ってきたものだ。

「穂高さんは今でも自分の両親を慕っているようなんです。猫も自分と同じだと考えているのではないでしょうか」

 今度は惟月が穂高の事情について説明を加えた。

 ここにいる者の中で最も穂高と付き合いが長いのは惟月だ。彼は穂高の身の上も心もよく理解しているのだろう。

 単純そうに見える穂高も色々と複雑なものを抱えているらしい。

「わたしがいい子にしてたら、おとーさんもおかーさんも帰ってきてくれるの。ねこさんはいい子だからきっと飼い主さんも帰ってきてくれるよ」

 穂高が口にした言葉はとても切ない。

 いい子にしていれば親が帰ってきてくれると信じていることも、一度は猫を捨てた前の飼い主を本当の飼い主だと思っていることも。

 その切なさに耐えかねた優月は話題を変えようとする。

「あの、名前のことでちょっと気になったんですけど、穂高さんの苗字ってなんなんですか?」

 本人が下の名前しか言わなかったのはその性格故だと思っていたが、他の者からも苗字で呼ばれているところを見たことがない。

「うちは貧乏だから苗字ないの」

 穂高からの回答に一瞬ポカンとしてしまった。

 貧乏と苗字が関係あるのだろうか、と思っていたら、今度も惟月が説明してくれた。

「戦前の悪習として、身分の低い羅刹は苗字を名乗れないというものがあったんです。戦後の改革で真っ先に変えた部分ですが……」

 温厚な性格の惟月だが、この時の口調からはわずかに怒りのようなものが感じられた。

 惟月は大貴族の御曹司として生まれ周りから大切にされながら育った。だが、その一方で、少しでも権力を手にしようとして、こびへつらう者も少なくなかった。

 それも不愉快だったのだろうが、さらにいえば、血筋という自分の存在と関係ないことを理由に大切にされるというのは彼の誇りが許さなかったのだ。

 ちょうど、女であるという理由で守られることを良しとしない沙菜と近かったともいえる。

 悪逆非道な沙菜が、革命軍で重用されていたのも二人に通じるものがあったためかもしれない。

「雷斗様の場合は、例外的に父君の持っていた苗字がありましたが、血筋という点でいえば純血の羅刹である穂高さんより下ともいえますね」

「…………」

 余計なことを言った沙菜は、雷斗に無言で殴られ地べたに這いつくばることに。

「血筋なんかに意味はないと言いたいのですよ……」

 沙菜の言うことももっともだが、言い方が悪い。

 などとやっていると、ようやく若菜がこちらに向かって駆けてきた。

 ずいぶんな重役出勤だ。

 そもそも携帯で連絡を取れそうなものだが、誰も電話をかけなかったのだろうか。

「ごめんごめーん。ちょっと寝坊しちゃってさー」

 ちょっとというレベルではない。

「他の人はともかく僕をこれだけ待たせるとは、いい度胸をしてますね」

 昇太は指先から出現させた植物のツルを鞭のように操り、若菜の身体を打ちつけた。

「痛いっ! 痛いよ昇太君!」

 昇太からの容赦ない仕打ちに身をよじる若菜。

 昇太の方は、怒っているというより、お仕置きができることを喜んでいるように見える。

「あんだけひどい裏切り方されて、よく仲直りできたな……」

 涼太が言っているのは、人羅戦争の最中第一霊隊が雷斗によって追い詰められていた時のことだ。ただでさえ危機的状況だというのに、若菜は味方だと思っていた昇太に背後から刺された。

 涼太はあくまで伝え聞いただけだが、その時の若菜の絶望は想像に難くない。

「ちょっとちょっと、昇太君が悪いみたいな言い方やめてよね!」

「メンタル強いなお前!?」

 少し前まで精神を病んだような状態だった若菜だが、今ではすっかり元気になっている。

 昇太からの折檻せっかんを受けながらも、彼を擁護することは忘れない。

 以前沙菜が自分のことをマゾだと言っていたが、若菜の方がその傾向は強いように思える。

 というより、沙菜はむしろサディストなのではないか。沙菜に殺された人々は皆そう感じるだろう。

「ところで沙菜」

「呼び捨てですか。なんです?」

 若菜は沙菜よりかなり年上なので呼び捨ては普通のことなのだが、沙菜はあえて尊大な態度で応える。

「あんた、室長だからって昇太君に変なことしてないでしょうね!?」

「してると言ったら?」

「殺す!」

 明るい調子で物騒なことを言う。終戦直後とは比較にならない元気さだ。

 やはり若菜は、昇太さえいればそれで大丈夫なのだ。

「君たち、楽しく話しているところをすまないが、そろそろ出発してもらえないだろうか?」

 見送りにきた久遠だが、本来彼は騎士団の再建で忙しい。

「ああいうのは茶番っていうんですよ」

 久遠は、羅刹たちの中では数少ない涼太が敬語を使う相手だ。

 若菜が来たことで、人間界へ向かうメンバーの全員が揃った。

 いよいよ出発だが、一つ気がかりなことが。

「羅仙界と人間界の間の……狭界は足場がないんですよね……? 龍次さんと涼太はどうやって行けばいいんでしょうか……?」

 人間界からこちらに来る時は、流身を使えないのは涼太一人だったので優月が抱えて連れてきたのだが、さすがに龍次と涼太の二人共を抱えて移動するのは難しい。

 かといってどちらか一人を他人に任せたくもない。

「そういやそうだな。確か穂高も流身は使えないんじゃなかったか?」

 羅刹としての能力がすべて低いというだけあって、涼太の記憶通り穂高も流身は使えない。

「沙菜ちゃん、だっこして」

「抱っこはしません」

 沙菜のつれない返事にシュンとしてしまった穂高。

 具体的な移動方法については久遠から説明があった。

「今回は私の能力で界孔を開き、人間界までのを作る。実際に立つことのできる道なので、流身が使えない者たちも歩いて向かえるはずだ」

 久遠の能力は時空を司るもの。狭界の内部に安定した道を作るぐらいは造作もないことだ。

 一行を送り出すために刀を抜く。

刹那せつな二の型・穿空せんくう

 久遠が刃を向けた先に漆黒の円が出現した。

 界孔かいこう――この円こそが世界そのものに開いた穴であり、ここに飛び込めば羅仙界の外に出たことになる。

「みなさん、お気をつけて」

 惟月の言葉を背に、優月たち人間三人と、沙菜と穂高、そして昇太と若菜は、界孔に踏み込み人間界への道を歩み出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る