第三章 喪失の精霊姫《ロスト・クイーン》

第三章 喪失の精霊姫《ロスト・クイーン》①


 あれから、クレアたちと別れたカミトは、すぐに学院長の執務室へ向かった。

 ノックしてドアを開けると――


「遅いな、この私を何秒待たせるつもりだ」


 開口一番、執務机に座ったグレイワースが冷たく告げてきた。


 黄昏の魔女ダスク・ウィッチ――グレイワース・シェルマイス。

 姿こそ妖艶な美女だが、もとは十二騎将ナンバーズの筆頭に名を連ねていた歴戦の精霊騎士だ。

 波打つアッシュブロンドの髪。小さな眼鏡の奥で灰色の眼が光っている。


「悪いな。あんたの用事と聞いて、どうにも足取りが重かったんだ」

「ふん、ずいぶん生意気な口を叩くようになったじゃないか。素直で無垢だったあの頃の坊やはどこへいってしまったんだろうな。つくづく時の流れというものは残酷だよ」

「変わらないのはあんただけだ、グレイワース。外見も、性格の陰険さもな」


 カミトは苦々しく吐き捨てた。


 グレイワースは三年前の自分を知る数少ない人物だ。

 そして、最強の剣舞姫レン・アッシュベルの名を棄てたカミトを学院に呼びよせ、二ヶ月後の精霊剣舞祭ブレイドダンスに参戦させようとしている張本人でもある。


 彼女はその理由を語らない。

 もっとも、黄昏の魔女ダスク・ウィッチが何も語らずにカミトをこき使うのは、よくあることだ。


「そうだな、たしかにおまえは変わったよ。三年前と比べて格段に弱くなった。さっきの訓練試合、あの程度の相手になんだあのざまは? 昔のおまえなら、三分もあれば一人で叩きつぶしていたはずだ」

「見てたのか……相変わらず趣味が悪いな」

「あんなざまでは精霊剣舞祭ブレイドダンスへの出場資格も危ぶまれるぞ。それとも、あの軍用精霊を倒したのはまぐれか?」

「あのときは――」


 カミトはわずかに口ごもった。

 自分の力だけで倒したわけではない。

 変貌したかつての契約精霊と邂逅し、絶望に打ちひしがれていたカミトにふたたび立ちあがる力を与えてくれたのは、あの紅い髪の火猫少女だ。


(……っ!)


 ふいに、やわらかな唇の感触が脳裏に蘇る。

 煩悩を振りはらうように、カミトはあわてて首を振った。


「自分でも情けないとは思っているさ。まだ契約精霊の力も使いこなせてない」


 カミトは、精霊刻印の刻まれた右手に目を落とした。


「まだ昔の女が忘れられないか? 未練がましいな」

「ふざけるな! レスティアは、そんなんじゃない!」

「熱くなるところがますます怪しいな。なんなら、この学院で愛人でも作ったらどうだ。少しは寂しさもまぎれるかもしれんぞ」

「愛じ――」

「それとも、学院の娘たちではお子様すぎるか? なんなら……私でもいいぞ?」


 グレイワースは妖艶に微笑むと、指先でわずかに胸もとを押し開く。

 胸の谷間の奥、大人っぽいレースのついた黒い下着がチラッと覗いた。


「ふ、ふざけるな!」

「冗談だ。ふむ、その調子ではそちらの方面はまだのようだな。噂では貧乳美少女と裸ニーソの精霊をはべらせて、淫らなハーレム同棲生活に耽っていると聞いたが」

「ぐっ……」


 反論しようとして、カミトは言葉に詰まった。

 ……客観的に見ればそれは事実なので、否定できないのが痛いところだ。


「グレイワース、俺を呼んだのはくだらない冗談を言うためか?」

「それもある――が、無論、それだけではないよ」


 グレイワースはギッと椅子を軋らせ、奥の賓客室のほうを向いた。


「おまえに紹介したい娘がいる――いいぞ、入りたまえ」

「はい」


 奥の部屋から鈴を転がすような声がした。

 ドアを開け、あらわれたのは――


 学院の制服とは違う、黒いドレスのような制服に身を包んだ少女だった。

 艶やかな長い黒髪が印象的な、ハッとするほどの美少女だ。

 涼やかな黒い瞳。清楚なたたずまいに、カミトが思わず見惚れていると。


「……え?」


 彼女と目が合った途端、なぜか怪訝そうな顔をされた。


「ええっと、あなたが……カゼハヤ・カミト君?」


 少女はパチパチとまばたきしながら訊いてきた。


「ああ、そうだけど――」

「でも、ずいぶん印象が……」


 ……なんだか知らないが、少女はショックを受けているようだ。


(な、なんなんだ?)


「でも、そうよね……男の子なんだし、もう三年も前だものね」


 少女はカミトに聞こえない声でぶつぶつ独り言をつぶやいている。

 それから、もう一度カミトの顔を見て、


「ええ、たしかに面影があるわ、うん。それに、これはこれで結構――」

「どうした、フィアナ?」


 グレイワースが怪訝そうに声をかけると、


「あ、す、すみません! その、男性の精霊使いを初めて見たものですから!」


 フィアナと呼ばれた少女はあわてて首を振った。


「えっと……このは?」


 カミトがグレイワースに向かって訊ねた。

 と、少女はなぜかむっとした表情になって唇を尖らせる。


「やっぱり、覚えてないのね……まあ、いいけど」

「彼女は、おまえとおなじレイヴン教室に入ることになった編入生だ」

「編入生?」


 ああ、とカミトはうなずいた。ちょうど、さっきカフェで話していたところだ。


(このがそうなのか……)


 キャロルは高貴な身分の御令嬢と言っていたが、なにしろこの学院には高貴な身分のお嬢様は身近にあふれているので、それほど特別な感じはしない。


(あとは胸が大きいとか……言ってたな)


 思わず、ドレスのような制服の胸もとにチラッと目をやると――


(……なるほど、たしかに)


 と、妙に納得してしまうカミトだった。


「彼女はオルデシア帝国第二王女、フィアナ・レイ・オルデシア姫殿下だ」

「……オルデシア?」


 カミトは一瞬、眉をひそめ――


「って、まさか……!」


 驚きに目を見開いた。


 精霊使い養成機関であるアレイシア精霊学院には、本物の貴族の令嬢が数多く在籍している。

 これは、帝国の王侯貴族が何世代にもわたる婚姻によって、精霊使いの血脈を継いできた結果だ。

 無論、例外もあるにはあるが、精霊使いといえば貴族の子女がなるのが普通である。


 武門の筆頭ファーレンガルト家や、歴史あるローレンフロスト家。

 いまは領地を没収されてしまったが、クレアのエルステイン家なども名門の家柄だ。


 だが、目の前にいるこの少女は――オルデシア帝国の第二王女。

 貴族の令嬢どころではない。

 本物のお姫様――だというのだ。


(帝国の王女様が、どうして学院に?)


 オルデシア王家に生まれた姫君は例外なく、精霊姫養成機関〈神儀院〉で五大精霊王に仕える精霊姫候補としての修行を積むことになっているはずだが。

 ともあれ、そんな疑問はひとまず胸にしまい、カミトは地面に片膝をついた。


「ご無礼をお許しください、姫殿下」


 べつにオルデシア帝国に忠誠を誓っているわけではないが、王族の前でとるべき作法はかつての契約精霊に散々叩き込まれていた。

 だが、フィアナは静かに首を振る。


「そういうのはいいわ、ここでは同じ学院生なんだし。それに、第二王女といっても私は喪失の精霊姫ロスト・クイーン、すでにいなかったことにされている身分だもの」

喪失の精霊姫ロスト・クイーン?」


 カミトは訊き返し――ハッと思い出した。


(そうか、帝国の第二王女!)


 噂には聞いたことがあった。


(たしか、火の精霊王に仕える精霊姫候補だった少女――)


 四年前。火の精霊姫――ルビア・エルステインが失踪した事件があった。

 彼女の裏切りを知った火の精霊王の怒りによって、帝国は一時、大混乱に陥った。

〈神儀院〉は精霊王の怒りを鎮めるために二人目の精霊姫を擁立しようとしたのだが――

 そのとき、ルビアの後任として推されたのが、帝国の第二王女だったはずだ。


 だが、彼女が精霊姫になることはなかった。

 そのとき、彼女はなぜか精霊姫候補を降りると宣言し、王室からその存在を抹消されたのだ。

 彼女が精霊姫となることを拒んだ理由は、いまも公表されていない。


 以来、第二王女は表舞台からまったく姿を消してしまったのだ。

 その喪失の精霊姫ロスト・クイーンが、目の前にいるこの少女だというのか。


「彼女の言う通りだ。この学院の門をくぐった以上、どのような身分の姫巫女であろうと特別扱いはしない。たとえ王女であろうと、男の精霊使いであろうと、災禍の精霊姫カラミティ・クイーンの妹であろうとだ」

「そんなわけで、元王女だけどよろしくね。カゼハヤ・カミト君」


 フィアナは微笑むと、指先でスカートの端をつまんで優雅に一礼した。


「あ、ああ、よろしく――」


 と、立ちあがったカミトの表情が凍りついた。


「どうしたの?」

「いや、その……」


 カミトが頬をかきながら目を逸らす。


「?」


 フィアナはきょとん、と首を傾げ――


「きゃっ!」


 つまみ上げているのが舞踏会のドレスではなく、丈の短い制服のスカートだということに気付いたらしい。

 レースの編み込まれた、大人びた黒い下着がカミトの網膜にしっかりと焼きついた。


「カ、カミト君の……えっち」


 顔をカアッと赤らめ、もじもじと恥ずかしそうにつぶやく元王女様。


「わ、悪い……」

「おまえたち、私の目の前でイチャラブするな。イライラする」


 グレイワースが殺気のこもった目でカミトを睨みつけた。


「……悪かったな。で、あんたが俺を呼んだのはどういうことだ?」


 この魔女のことだ。まさか、編入生を紹介するだけということはあるまい。


(俺に帝国の王女様を引き合わせて、なにを企んでる?)


 そんなカミトの心情を読み取ったのか、魔女は不機嫌そうに眼鏡を押し上げた。


「心外だな、わざわざおまえのために特別任務を用意してやったというのに」

「特別任務だと?」

「そうだ。ちょうど彼女に任せたい任務があってな、その護衛に、おまえたちのチームを同行させたい」

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