3-3 同期入社
里佳が上機嫌で山川の店の戸を開けると、そこには先客がいた。
「あ、すみません」
里佳の声が小さくなった。
「いやいや。なに、常連さん?」
ポロシャツ姿の先客はもう赤い顔をしている。前の置かれた酎ハイのグラスはほとんど空いていた。
「いえ」
里佳はますます小さくなる。滅多に外の客がいない山川の店に元気よく入ってきたのが恥ずかしくなっていた。
「あー、田村さん、こいつはいいから」
山川はいつもより他人行儀だ。
「おいおい、昔の上司にこいつ呼ばわりはないだろ」
赤ら顔の先客は上機嫌だった。
山川は面倒くさそうに頭を振った。
「ここ、どうぞ」
先客が里佳を隣の席に手招きする。
「あ、えと、ああ、はい」
「あー、いいよいいよ、そっちのテーブル開いてるから。あのな、待ち合わせんだよ、そうだよな、田村さん」
山川にそう言われて里佳はこっくりとうなずいた。
「なんだよ、こんな店にそんなに客が来んのかよ」
先客は山川に絡んでいる、わけでもなさそうだ。グラスを空けてもう一杯頼む。
「おい、飲み過ぎんなよ」
言いながら山川がグラスを満タンのと取り替える。
「おいおい、世界に冠たる電機メーカーで同期の出世頭だった俺様がこれしきの酒で酔っ払うわけないだろうが。おまえと違って俺は飲むのも仕事だってよくわかってたんだよ」
なぜかそれほど嫌味に感じない口調だった。
「あーはいはい」
それでも山川はうんざりしているようだ。
「あ、じゃあ、ワタシ、生、ジョッキでいいですか」
里佳が遠慮がちに注文する。
「あいよ」
若干不機嫌そうに山川が注文を受けた。
「お、いけるクチ?」
先客。
「だから絡むなって」
山川。
「いえ、そんな」
小さく手を振る里佳。
「いいねえ。女房はさ、全然飲まなかったんだ。付き合ってる頃は飲みに行ってもニコニコしてた。結婚してからはさ、俺が酔っ払って遅く帰っても、一滴も飲まないで待ってた。最初の頃は出来た女房だと思ってたよ。いや、本当にそう思ってた」
「やめろって」
山川が止めた。
「ん、あ、そうだな。ごめんねえ、なんか、おじさん、勝手に話しちゃって」
「いえいえ」
里佳から見てもおじさんと言うほどの歳には見えなかった。山川や浩人よりも若く見えるかも知れない。肩のあたりががっちりして見えるのは鍛えているからだろうか。全体的に筋肉質だ。
「ジョッキ、持ってって」
「あ、ありがとうございます」
いつもと勝手が違う。里佳だけでなく山川もそんな感じだ。浩人が来るまで山川とダラダラ話していようかと思っていたのに、すっかりあてが外れてしまっていた。
「ん、そうか、俺がおじゃま虫か」
先客が急に大きくうなずき始めた。
「はあ? なに言っちゃってんの、おまえ?」
山川は困惑していた。
「いいよいいよ。あれだろ、そうだよな、俺とは違ってカタブツの山川だって、そりゃ色々あるよな。悪い、俺としたことが、まったく気づかなかった。こりゃそろそろ失敬させていただかないとな」
「だから、なんなんだよ、おまえ」
「わかった。悪かった。帰るよ。帰るっていうか、あれだ、まあ、あれだな、ホント。うん、悪かった。山川、おまえはずるいよ。ずるい。ボンボンだったとか知らなかったぞ、俺は。この店も道楽みたいなもんだろ。やっぱり俺とは違う。俺は必死だよ。のほほんとやってるお前らと差がついたのはしょうがない。覚悟が違うもん。ま、今さら言ってもしょうがないけど。あ、すみませんね、帰ります。山川とゆっくり、ね。こいつ、欲ないから、ダメだよね、そんなんじゃ。もっとこう、ギラギラしてる男のほうが魅力あるでしょ、そう思わない?」
「おまえ、帰るならとっとと帰れよ」
「冷たいなあ、山川。おまえ、昔っからそうだ」
「そんなに付き合い長くないだろ」
「なに言ってんだよ。500人しかいない同期で、しかも同じ部署だったじゃない。人生のいちばん大事な時期にさ、同じ時間を共有したんだよ、俺たちは」
「おまえ、そんなこと思ってなかっただろうが」
「へ?」
「おまえはさ、同期がどうとか、そんなこと考えてなかっただろって言ってんだよ」
「どういうことだよ」
「どうもこうもそれ以上でもそれ以下でもないよ。いいから帰れ」
「わけわかんないなあ。昔っからそうだった。謎だ。謎。山川は謎」
「おまえも謎だよ。いいから帰れ。会計はいいよ。俺のおごり、餞別だ。忘れ物すんなよ」
「おごりっすか。悪いっすね。ありがとうございます。ありがたくご馳走になります。てか、忘れ物って、あっ」
先客はカウンターに置いてあった財布をつかみ、慌ててズボンのポケットにねじ込んだ。
「昔の上司だよ」
里佳が聞くより先に山川が言った。
「え、でも、同期って」
「同期で入社してあいつだけ先に昇進した。あっという間に」
「ふーん」
なんだかそれ以上聞くのは悪い気がした。
「でさ、辞めるんだって言って急に来たんだ」
「出世頭って言ってたのに」
「急に来て散々絡んでさ、酎ハイ十杯ぐらい飲んで」
「ええ、そんなに?」
「いや、途中から薄くしといた」
「なにそれ」
「奥さんとも別れるって言ってた」
「ええー」
「田舎に帰って親の介護だって」
山川は興味も無さそうだった。
「ふーん」
祖父母も両親も亡くなった里佳には、親の介護はなんだか別の世界の話にしか思えない。
「ねえ、ところで、山ちゃんって、その電機メーカーに何年いたの?」
「5年」
「じゃ、ヒークンが言ってたITベンチャーっていうのは?」
「一週間」
「へ?」
「一週間」
山川にも色々あるのだと知って里佳は少しだけおとなしくなった。
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