第98話 混沌の幕開け③
ドラゴン教団の教祖である【悪喰】ルーシャムは、ゴブリンの軍団の中央にいた。
前方には人間の軍団がいる。
「騎士団が来ると思ったのに。なんだい、あれは?」
人間たちは粗末な鎧と、思い思いの武器で武装していた。
馬に乗っている者は僅かしかいない。
「『ぎゆうへい』という軍団らしいです」
ルーシャムの問いに、ゴブリンが答えた
「それは僕が知らない言葉だよ」
「民間人の兵隊だと聞いたことがあります」
「ふぅん。ゴブリン殿はもの知りだね」
「そ、それ以上は、よく知りません」
「それで、敵の将軍は、噂に名高い太陽の姫君様かい?」
「はい。あとおそらく、朱の騎士もいます」
「なんでそう思うのだい?」
「ともに放浪の旅をしていたらしいので、たぶんいるのじゃないかと」
「なるほど。妥当な判断だよ。ゴブリン殿は頭もよろしいね」
「ど、どうも」
さしたる情報を伝えたわけでもないのに、美しい容貌のルーシャムに褒められ、ゴブリンは恐縮した。
だがその後に続いた一言で、ゴブリンは凍りつく。
「ではその賢いゴブリン殿に、この軍の指揮を任せるよ」
ルーシャムは肩をポンとたたき、全軍にその旨を伝令した。
ゴブリンは驚愕した。
彼もまた小さなゴブリンの集団の王ではあるが、これほどの軍勢を指揮したことはない。出来る自信はまったくない。
ゴブリンは震え上がった。「無理です!」と、大声で叫びたかった。
しかし断って許されるとも思えない。
【悪喰】ルーシャムの、その異名に相応しい『悪喰』ぶりは、人間の村での惨劇で身にしみている。
断れば命はないどころか、夕食にされかねない。
「か、……畏まりました」
「おまけに物分りもいいよ。ゴブリンにしておくには惜しいよ」
「どうも」
「ドラゴン教に入信して、僕たちと共にドラゴンの高嶺を目指す気はないかい?」
「いえ、あの。勿体無いお言葉ですが、勿体無さ過ぎるので、その、辞退します」
「それは残念だよ」
さして残念なそぶりも見せず、ルーシャムは宗教への勧誘を諦めた。
「指揮はわたしが取るとして、悪喰様はいかがなさるので?」
「ドラゴンにはドラゴンの仕事があるのだよ」
ルーシャムは自身の武器である鉄の爪を見せびらかして言った。
両腕の手甲から伸びた湾曲した刃は、ドラゴンの持つ鋭い爪を模している。
ドラゴン教団の信者は、例外なくこの武器を所持していた。
戦闘においても、その後に控える食事においても、この武器は『切り裂く』という行為にとても向いている。
「だからゴブリン殿には、ゴブリン殿の仕事をして欲しいよ」
「はい。全軍の、指揮ですね」
その言葉の重みに、ゴブリンは緊張して答えた。
「難しく考えなくていい。僕が逃げていいと言うまで、逃げなければ十分だよ」
事実上の撤退禁止命令である。
逆らえばどんな末路が待っているかも想像に難くはない。
ルーシャムはゴブリンを青ざめさせている一方で、その手の鉄の爪を研ぐ様にちゃりちゃりと鳴らした。
些細な音しか出ない動作であったが、その音に呼応して、ゴブリン軍の中にいるドラゴン教の信者がのそのそと前面に出てきた。
「我らが餌を育んでくださる世界に感謝して、今日の糧を頂くとするよ」
ルーシャムはそう言うと、一人でふらふらと人間の義勇兵の方へ歩いて行った。
戦術上は先陣を切っているのだが、とてもそうは見えない。
それに続いて、ドラゴン教団もゆっくりとした動作で歩いていく。
全員がのどかに平原を散歩しているようにしか見えなかったので、しばらくその後姿をゴブリンは見守っていた。
「あの、我々は?」
別のゴブリンに聞かれ、指揮を任されたゴブリンは我に返った。
司令官として、そして戦いの後に夕食にされない為に、やらねばならない仕事を思い出した。
「ぜ、全軍、悪喰様に続き、突撃せよ! 絶対に逃げるな!」
そのゴブリンの声に従い、ゴブリン軍は人間の義勇兵に突撃した。
戦いが始まった。
《逃げ道を塞げばいい。たったそれだけで、鼠は死を恐れない勇者へと早変わりする》
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