四話「太陽神殿」
夢を見た。
父親の夢だ。自分でもこれが夢である事を理解していた。父親は五ヶ月前に死んでもういないのだから。
幼い頃のミコトがいる。おそらく、まだ小学校に入っていない頃だ。
父親の顔はぼやけていた。いまでも、写真を見ないとはっきりとイメージできない。
幼い頃の自分が、久しぶりに帰ってきた父親にまとわりついている。
「おとーさん! おとーさん! お土産はー?」
「おおっミコト! でっかくなったなあ! もちろんお土産買ってきたよ。はいこれ。エクアドルの少数民族マオニニ族を訪れた時に買ってきた、首狩り族の干し首だよ。父さんも危うく首を刈られるところだったよ」
「うわあああん! 怖いいぃぃ!」
父親が差し出したのは、目と口を縫われた小さな干し首だった。あまりにミコトが泣くものだから、「大丈夫、模造品だよ」と言っていたが、模造か本物かという問題ではない。六歳にもならない子どもに干し首の土産はいかがなものか……
この時の土産は軽くトラウマになった。それからしばらくは、父親が持って帰ってくる土産を警戒するようになり、品目を聞いてから実物を見るようにしていた。
ミコトはいつのまにか小学生になっていた。おそらく三、四年生くらいだ。
「おかえり。父さん」
「ただいま~! あれ、母さんはいないのか? 今日帰ってくるって言ってあったはずだが」
「母さんは今日もパートだから。家計、苦しいって言ってたよ」
「そうか……いつもすまんな。まあなんだ、とりあえずお土産」
「今度は何を持って帰ってきたの?」
「メキシコでゲットしてきたクリスタル・スカルだ! 見ろ、この輝きを……政府の秘密組織に命を狙われてな、父さん生贄の儀式に差し出されるところだったよ」
「はいはい。どうせまた嘘でしょ。それだって偽物じゃないの?」
「なぜ信じない! 父さん悲しいぞ。謎の美女や伝説の猛獣使いに命を救われてな……」
「写真とかないの?」
「写真? いや、カメラは没収されたからなあ。残念ながら。すごい写真が何枚も撮れていたんだが、惜しい事をした」
「はい、嘘。いつも写真無いじゃん」
「いや、毎回カメラが失われるんだ……ほら、危険がいっぱいあるから」
子どものような表情で楽しげに語る父親と、それを適当にあしらう小学生のミコト。
別に嫌いだったわけじゃない。むしろ、父親の事は好きだった。
でも、家をほったらかしにして楽しそうに生きている父親になんとなく反感を持ったのもこの頃だったと思う。
ミコトは中学生になっていた。
イメージが鮮明になっている。これは、一年ほど前の自分だ。
この時、父親と久しぶりに会ったのは近所の喫茶店だった。
「いや~、久しぶりだなミコト。母さん、どうしてる?」
「元、でしょ。母さんが再婚してからもう一年だよ、父さん……僕も最近はあまり会ってないけど、たぶん母さんは元気でしょ。幸せそうな家庭だったよ」
「ミコトは一人暮らしをしているんだって? 母さんと一緒に住まないのか?」
「わがまま言って一人暮らしさせてもらったんだ。なんか居づらくてさ」
「そうか……すまんな。父さんがこんなだから」
「いいよ。父さんにも父さんの人生があるんだろうし。好きにすれば」
「若いのに達観してるなあ。それより、お土産があるんだ。これこれ……アステカの神官が生贄の心臓を取り出すのに使っていたと言われる黒曜石のナイフ」
「よくそんなの国内に持ち込めたね」
「貴重な品だから大事にしてくれよ。手に入れるのに苦労したんだ。呪術師に呪いをかけられて大変な事になってな、神官の子孫という少女と出会ってかろうじて助かったが……」
「はいはい。そんな怨念のこもってそうなナイフいらないよ。持って帰って」
「そう言わずに貰っておいてよ。父さんこれからインドに飛ぶから。貴重な碑文を発見してね、この記述が本物ならものすごいお宝への足がかりになるかもしれないんだ!」
父さんは日に焼けた顔をくしゃくしゃにして笑った。
思えば、これが父さんに直接会った最後の日だった。
これから約半年後、碑文と手紙が送られて来る事になる。
そして、その一ヶ月後には父さんが交通事故で死んだという連絡が来るのだ。
一年前の自分と話している父親の姿を改めて見た。
もう会えないとわかっていれば、もっとちゃんと話を聞いてあげるんだった。
父さんが何をしたかったのか、自分にはよくわからない。
夢見がちな子どもみたいな人だと思っていた。母さんと離婚してからは、家族のために何かをしてくれる事はもう期待していなかった。おかまいなく。ご自由に。
でも、心のどこかではずっと憧れていたのかもしれない。
だから、今も衿家姓を名乗っているのだろうか。
父さん、僕、インドに来たよ……
ブバネシュワルに到着すると、一旦安ホテルで休み、バスに乗り換えて目的のコナーラクへと向かう。
およそ二時間ほどバスに揺られて、ようやくスーリヤ寺院のあるコナーラクに到着した。
「ふぅ……やっぱり暑いですね」
さすがインド。
日本の夏よりもさらに暑い。カッと照りつける太陽がジリジリと肌を焼いてくる。ミコトは日よけの帽子を脱いで汗をぬぐった。舗装された道路の横はすぐ乾燥した土がむきだしになっており、その向こう側に鮮やかな緑の植物が茂っている。
行きかう人々はさすがにほとんどがインド人のようだ。褐色の肌にサリーを巻いた女性や、黒髪を横分けにして口ひげを生やしたおじさん。その中の所々に外国人観光客が混じっている。
その中でリンカはかなり目立っていた。日の光を眩く反射する金髪を後頭部で束ね、体に密着した丈の短いTシャツと穿き古したジーンズ。ウェイファーラーのサングラスをかけて颯爽と歩く様は人目を引く。
「ほらっ、ちゃんとついてきなさいよ。ま、置き去りにされて半泣きになるミコトきゅんの顔も見てみたい気がするけど」
「半泣きになんてなりませんよ」
「そう言われると試してみたくなるね」
「言っておきますけど、リンカさんの荷物は僕が持っている事をお忘れなく」
正確に言えば、持っているというより持たされているのだが。
身軽にさっさと歩いていくリンカの後を、自分の荷物とリンカの荷物を抱えたミコトが追いすがる。道端にはみやげ物屋が立ち並び、積み上げられたココナツの実が喉の渇きを思い出させる。
そのうち、おそらく目的の太陽神殿らしき遺跡が見えてきた。
かなり広い。整備された庭には緑の植物が生えている。中央辺りに、茶色の大きい建造物があった。
入り口で入場料を払い、遺跡に足を踏み入れる。
遠目に眺めるだけでも、何かスピリチュアルなものを感じさせるようだった。
「よし、いよいよ着いたわね。ここなら信仰の力が集まっているから、神話世界への長時間のアクセスが可能だと思う。でもその前に、軽く観光していきましょうか。せっかくここまで来た事だしね」
「そうですね。できれば僕もゆっくり見てまわりたいです」
遺跡に対し特に興味の無かったミコトでも、目を惹きつけられる魅力がこの場所にはあった。
観光客の流れに混じって歩きながら、リンカが遺跡について話してくれた。
「太陽神殿はスーリヤの馬車をイメージして作られていて、基壇にある十二対の車輪はそれぞれが一年の月を表し、馬車を引く七頭の馬は一週間を表しているのね」
リンカの説明を聞きながら寺院に散りばめられた彫刻を眺める。遺跡の基壇には大人の身長より大きな車輪の彫刻が刻まれていた。確かに、全体を引いて見れば馬車に見えなくもない。
「
最も目を引く大きな建物を眺める。屋根はピラミッドを層状に切り取って、間に二層の壁をサンドイッチしたような形になっている。その上には
遺跡にはガイドと思われる人や、ポストカード売りや写真屋が客引きをしていた。ミコトにも勧めてくるので、リンカの様子を窺い、追い払ってくれそうにないとわかると、おそるおそる習ったばかりの言葉を口にしてみた。
「ナ、
どうやら通じたらしく、客引きは頷いて去っていった。ミコトはほっと胸をなでおろす。通じるとわかると、異国の言葉は面白いものだ。日本にいるときは当たり前のように言葉を話しているが、コミュニケーションのありがたみが実感できる。意思の疎通ができる言葉というものは人間にとって最高の発明かもしれない。
綺麗に整備された庭を横切って遺跡の彫刻がよく見える位置に出る。
「あれが有名な
「いえ、その……別に」
まさしく、まぐわいの真っ最中の姿が像に彫られている。性に対する価値観が日本とは違うのかもしれないとミコトは思った。おそらく性を神聖視していたのだろうけれど、あまりにおおっぴらに彫られているので、直視しづらかった。
「ちゃんと見て勉強しておきなよ」
「余計なお世話です」
拝殿の前方には、天井の崩れた
歌舞殿の日陰で観光客が休んでいる姿が見えた。強い日差しを遮ってくれる日陰はミコトにとってもありがたかった。
「例の……アカシャの眼はここにありそうですか?」
「うーん、よくわかんないや。でも、あんたのお父さんから預かったこの石版がスーリヤ神に係わるものだったなら、必ず神話世界でなんらかのヒントが得られると思う。よし、ここら辺でいいかな」
リンカは柱の影になって人目につかない場所で足を止めると、ミコトが抱えた荷物から布で厳重にくるまれた石版を取り出した。
「よっしゃ、じゃあここに座って」
柱にもたれるような形でリンカは座り、隣の位置を叩く。
「あのー、神話世界にアクセスするのはいいとして……前回みたいな事はするんですか?」
警戒しながら、ミコトは恐る恐るリンカの隣に腰をかける。
「大丈夫だって。何も心配せずにあたしに任せておけばいいから」
ミコトの肩に腕がまわされ、ぐっと引き寄せられた。豊かな胸が腕に当たり、ミコトは緊張して体を強張らせる。
「で、でもですね……他にも方法があるならそっちの方が……」
「ミコト君は、あたしとキスするのはイヤかな?」
「イヤとかそういうのではなくてですね……」
「好きな子に申し訳ないとか?」
「別に好きな子なんて――んむ!」
最後まで言い切らないうちに唇が柔らかい感触で塞がれた。ふいをつかれて動揺する。と、思うやいなや、前回と同じように意識が遠ざかり、視界が光に包まれ、五感から解放されていく。軽い浮遊感。立っているのか座っているのかもわからない。自分の肉体の存在が感じられない。ぬるま湯にたゆたうような感覚も束の間、どこかへと急速に引っ張られた。光の中から濃厚な色彩が溢れ、幾万、幾億の映像が瞬時に現れては後方へ過ぎ去っていく。映像は個人の視点から見たものや、上空から俯瞰して早送りしたようなものまで様々で、それらは融け、混ざり合って複雑な色のタペストリーを織り上げていく。
数え切れない情報の奔流が光に滲んだかと思うと、前方にぽっかりと瞳型の闇が広がった。
上昇するような落下するような感覚の中、不思議と恐怖はなかった。
ミコトの意識は急速に広がる闇に飲みこまれ――全ての感覚が無に包まれた。
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