―― 半年前 四月二十七日 ――

 喉の奥から酸っぱいものがこみあげる。

 目の前には白に茶色が混じる吐瀉物が海をただよっている。もう胃の中には何も残っていないが、上下左右にゆさぶられ続け、一度おぼえた酩酊はおさまってくれない。喉にひっかかるものは全て吐き出しておかないと、肺がつまって窒息死してしまう。どこが上でどこが下か。雲に隠れた太陽は北も南も示さない。

 俺は白鯨が群れをなす海にただよっている。この凍える海は小山のような群れがうごめいている。森が動けば王が滅ぶというが、小山が動けば何が滅ぶのだろう。

 海中の足首をつかまれる。人間のものではない強靭な力でひきずりこまれる。まるで伝説のシーサーペントに捕まったかのように。沈んだ一瞬で、海中で足首をつかんでいる細長いものを見る。巨大な海蛇のように深海からのびて足首にからみついているのは、複雑によりあわさったロープ。他にも、体へロープがからみついて動きを止めている真っ白な人影がすぐ下に見えたが、誰なのかはわからなかった。

 船が海中に沈む時に漁網が引きちぎられ、ロープ状に引のばされて、意図せず人間を溺死させる罠と化している。どこまでのびているのかは、船が沈んだ先の暗がりへ消えていてわからない。外していなければ、この時こそ漁網ごと外骨格を脱いで、あるいは力任せでひきちぎり、脱出することができたかもしれないが。

 空気を求めて手をのばすが、指先まで水の抵抗がある。がんがんと頭をしめつけられるような痛みがある。周囲には鯨達の吠えるような音が鳴り響いている。本当の音か幻かはわからない。港町の繁華街のように紫や緑の毒々しい光点が明滅し、渦をなすように周回している。巨大な走馬灯を内側からながめる時、きっとこれと同じ光景が見えるのだろう。

 だが、俺は死ななかった。

 背中に圧迫感をおぼえたかと思うと、そのまま体を誰かに支えてもらう。そして海面まで力強く突き上げられ、嵐のさなかへ放り上げられた。全身が宙に浮き、海の渦より速く世界が回り、しかし乱れた動きではなく心地良さを感じた。崩れた波と雨がいりまじったしぶきが頬や叩き、塩水で洗われた髪が額にはりつく。

 落下するまでの一瞬を使って無意識に肺へ息を吸いこみ、ぼんやりとだが意識がよみがえる。頭の下には黒い海面に波が立ち、中央に白鯨が横倒しになっている。巨大な額と小さく細い下顎。その口元に漁網がからみついている。海面ではなく鯨の横腹へ足から落ち、そのまま俺は背びれへ転がり滑る。柔らかい体表に、それも斜めから落ちたおかげで、海面へ叩きつけられるよりは痛みがなかった。

 目の前の背びれへしがみつくと、体を起こした白鯨がゆっくり海面を泳ぎ始める。その巨大な口から吐き出した漁網には、ちぎれた俺の長靴もからみついている。白鯨は胴長靴ごと漁網を食いちぎったのだ。

 後方へ目をやると、左膝から下の胴長靴が裂かれて、裸足になっているのが見える。皮膚に血が流れ、紫色にはれあがっているが、冷たい海に凍えているため寒さも痛みも感じない。一方で背中はひりひりと痛い。背びれをつかんでいない手でさわると、背嚢の合成樹脂性のカバーが砕かれていることがわかった。戻した手を見ると、赤い血でまみれていた。

 雨は小降りになっていたが、海の冷たさと傷の苦しさで気が遠くなりそうになる。抱きついている下腹部から白鯨の熱い体温が感じられることだけが、ただひとつの心地良さだった。

 白鯨は巨大で、表皮に細かく浅い傷が白く刻まれている。どこにも海面で見たような光を発していない。周囲にいた他の白鯨は姿を消している。とてつもない大きさ以外は、まるで魔法が解けたように普通のマッコウクジラだった。

 ゆうゆうと泳ぐ白鯨の頭を見ると、一本の角が生えていた。いや、正確には別の生物だ。五十センチメートルほどの大きなイカが額に吸盤ではりついている。マッコウクジラの食糧だ。

 自販機の硬貨投入口みたいな眼で俺をじっと見ていたイカは、天敵への抵抗で力つきたのか、クジラの額からはがれ、海に落ちて消えていった。

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