5 『初日の闇夜は幽霊とともに』
「むや……ん、ううん?」
……知らねぇうちに寝てたのか?
沈んだ意識から浮上した有栖は、寝惚け眼を擦りながらむくりと身体を起こす。
見渡す限り、視界は闇が支配していた。
彼女の最後の記憶は、昼下がりの書庫での久々の読書のときのものである。
文章は【言語翻訳C】のおかげで苦もなく読み進められたが、如何せん本と馴染みがない有栖は睡魔に敗北を喫したらしい。
少女のカタチになったことも関係しているに違いないと、有栖は責任転嫁する。
きっと有栖のINTが足りないせいだろう。
能力値でなく実際の知能という意味で。
しかしどうにも、眠ってしまったのは事実らしい。
気付けば、有栖が横たわっていたのも豪華な自室の寝台の上。
自慢の高級布団(憶測)はそれなりに温もっており、少なくとも数時間前から寝かされていたことが判然とする。
おそらくは眠った有栖をサヴァンがここまで運んできたと思われた。
起こしてくれりゃ良かったのに、と思わないでもない。
有栖は特別寝相が悪いため持ち運ぶのも大変だったろう。
──てか、肝心のサヴァンは……もう帰ったのか。まあ今は夜だろうしそりゃそうか。となると、俺は今一人な訳だな。監視役ってことでサヴァン使てるみてぇだけど、これじゃガバガバ警備すぎね? どっかから何かの魔術で監視してんのかね。
有栖がそう疑問を持つほどにミリス王国の対応は穏当なモノだ。
大事な大事な神の子に非礼をしない、というだけなら良いのだが……。
まあ考えても仕方ないことだと有栖はそこで思考放棄する。
心眼さえ使えれば、その類いの憂いは断ち切ることは容易いからだ。
よって差し迫った問題として、有栖が立ち向かわねばならないのは一つだけである。
うう、我慢できない……無理して紅茶飲んだからかよクソったれぇ……
──そう、尿意である。
……――……――……――……――……
夜に厠に行くという行為は、小学生以下の年代ならば恐怖でしかないだろう。
闇夜は日中と違い、視覚できる物の範囲が狭く、心許ない。
だから安全か否かを察することが難しい廊下を歩くのは恐ろしい。
ただ、それが許されるのは大概小学生までと決まっている。
……誰も、いないよな? 幽霊みたいな変質者みたいなの、いないよな?
しかしここに小動物系の少女の形をしたヘタレが一人。
廊下の壁際を抜き足差し足で動く、寝間着姿の有栖である。
精神的にはお前は男子高校生ではなかったのか──そういう突っ込みは野暮だろう。
この者が有栖である以上、ホラーが苦手なのは前々からなのだ。
皆が寝静まった宮殿は、心なしかひんやりとした冷気が漂っている。
廊下の明かりは、魔術的な道具なのだろう点在する吊り下げられた燭台からの光。
そして青白い月明かりが、壁の色取り取りのガラス戸からぼんやりと照らすのみだ。
耳が痛いくらいの静寂は、否応なしに自らの足音を際立たせた。
それ以外にも何処からか不気味な風の音、軋む音、夜鷹のような鳥の声が耳に入ってくる。
それらが有栖に他者の存在を──幽霊の存在を意識させるのだ。
実際そういう音は、思い過ごしだったりすることが多いのだが。
──クソったれ、怪談話とか俺に聞かせんなよ。確か今、日本で言うところの五月、六月くらいみたいだから、時期的には合ってるかもしんねぇけどさ。
そう毒づく有栖は、昼間の使用人達の噂を思い出す。
……蝋燭の灯に映るいるはずのない人影、それらが忽然と消えるという噂話。
どうせ見間違いだ何だと断じる有栖は、実のところ臆病風に吹かれていた。
という訳で足早に、そして慎重に厠の扉へと向かっていく。
道中に心霊現象に遭うことはなく、有栖も安心して「そうだよな、いる訳ねぇよ」などとフラグを立てていた。
その一方で、尿意も既に限界に達している。
男の身体と違って女の身体は、何となく尿意を抑えるのが難しい気がして結構切実だ。
あの有栖が内股で歩行する様はなかなかに滑稽である。
一度でも漏らそうものなら有栖のちっぽけなプライドはズタズタに引き裂かれるだろう。
万が一そうなったときの有栖は実物だが。
踏ん張りが利かないのはなかなかに不便だ、と有栖はぼやく。
だがサヴァンと部屋を回った甲斐あって、迷うことなく目的地へ辿り着くことができたのは重畳だった。
ちなみに厠は随分と異世界人の手が込んでいるのだろう、洋式便座であった。
下水関係はそう整備されてはおるまいが、和式嫌いの有栖はこの便利さに感謝する。
そして未だに履き慣れない女性用の下着を下ろし、便座に腰掛けた。
ここまでの行動を何気なくすることに対して、有栖が何か思わないでもない。
……まあ始めの頃は、全然慣れてなくてヤバかったし、小便するとき何かの喪失感は味わったがな。
憂鬱だった数ヶ月前を思い返しながら、事を済ませてドアの外へ出て行く。
あとは自室に戻って、ぬくぬくと毛布にくるまるだけだ──と考えていると。
「……明か、り?」
ちょうど、ある大扉の隙間から光が漏れているのが視界に映る。
そこは通路の奥に備え付けられた、他の階層に通ずる扉からだった。
サヴァンからは「あそこまでがアリス様の行動範囲」と厳命されていた場所だ。
無論、そこは昼間には施錠されていた。
光が漏れているのも考えてみれば不思議なことではない。
有栖のフロアでも所々に灯があるように、大扉の向こうにもあるというだけ。
蛾でもなければ、さして興味を惹かれる対象ではないのは当たり前だ。
けれども単なる好奇心、暇つぶし、気紛れの類いで有栖は扉の側まで近づいていく。
こういうところが有栖が迂闊で愚か者な所以だと思われる。
ホラーで第一の犠牲者になる素質を有栖は確と持っていた。
「鍵、掛かってないのか……?」
ドアノブに手を触れ、それがあっさりと回ったことに驚く。
今に至るまで不用心だ何だと思ってきたが、まさかここまでとは。
変質者が入ってきたらどうするつもりなのか、と有栖は警備員をクビにしたい発作に襲われる。
学校でもあるまいし、別に警備員が巡回する訳ではないだろうに。
溜息まじりに「糞警備員め、神の子権限を甘く見るなよ」と権力を盾にそう思う有栖だった。
こんなことに神の子の名を使うと、途端に神の子が陳腐化するようである。
そうしてもう一つ。
──扉の外へ出てみたい、という好奇心を制することができなかった。
恐る恐る扉を開く。
炎を連想させる揺れる光は、それに応じて徐々に有栖の視界で大きくなっていく。
どうにも大扉の部屋はそこまで広くもない、立方体の石造りのようだ。
左右の壁に松明らしき照明器具があり、漏れた光の源はこれで間違いないだろう。
その途中で、半開きにさせた大扉から覗く有栖は見た。
部屋の奥──そこにある階段を上っていく謎の影たちを。
……あれ、これ、マズくないか。
警報を発す脳内に腰が引ける。
しかし有栖は、見てしまう。
気付いてしまう。
数人の影のうち大柄な一人が、こちらへと歩み寄ってきたことを。
……クソったれ、見逃してくれよ神の子だからな俺は!
実際に口にすれば、神の子権限の濫用で威厳が消し飛ぶことは間違いないだろうが。
何処ぞの親善大使のような我儘は身を滅ぼすのである。
その前に幽霊にあの世へ送られそうだ──と、有栖は泣き言を心中で喚く。
幽霊なんていない、と思って五分もしないうちに幽霊認定とは。
有栖らしいと言えばらしいが、見苦しい奴である。
それでも有栖は、敢えて扉を一気に開く。
そして心眼を起動、両眼は黒色から黄金色へと変異させる。
狼狽は顔に微塵も出さず、幽霊を迎え撃つように胸を張った。
幽霊なんて怖かねぇ、野郎ぶっ殺してやる、という元グリーンベレーめいた物ではない。
有栖は無敵の神の子パワーで何とかする腹積もりだった。
身体から溢れ出す神聖的なオーラ的な何かで除霊を果たそうというのだ。
動揺のあまり破れかぶれになっているようだ、いつも以上に発想が阿呆だった。
そもそも神の子(偽物)が何を言っているのか。
「────アリス・エヴァンズ様? 此の様な夜分に如何致しましたかな……?(鍵が何故開いているのだ……ガインド卿の仕業かな。或いはアリス・エヴァンズ様が窮屈さに耐えかねて……?)」
突如開け放たれた扉に瞠目したその不審者は、六十代、あるいは七十代以上と見られる初老の男。
使い込まれて些か擦れた白いローブを被り、覗く皺が多い額と、フードから見え隠れする白髪混じりの赤毛、そして枯れ木のような右手で掴む質素な杖が特徴か。
体格は小柄で、腰は曲がってはいないものの、老成した魔術師を彷彿とさせる姿だった。
……あれ、何か
違和感を覚えたが、そんな暇はない。
眼前の男について有栖には見覚えがある。
ミリスに来た初日、挨拶を交わした相手が彼──このミリスで高い地位にあり、実質的にはミリス王や教皇に次ぐ権力者。
枢機卿のジルコニア・ヨグ・ペトロフ。
彼はその身分でありながら、ミリスの召喚士でもある。
初見からの有栖の評価は「御し易い好々爺的なおじいちゃん」だ。
余計な言葉さえなければまともなのだが。
以前の有栖であれば、目にした瞬間に膝をつき取り入ろうとしただろうが……成長、ではなく増長した彼女であれば話は違う。
幽霊でないと知った途端に、有栖は傲慢そうに奥の階段を顎で指し、
「どうもこうもありません、召喚士。私の眠りを邪魔する下賤の者達の足音を聞いたのです。我慢ならずこうして──」
「! それは大変な失礼を……!(そうか思い出したぞ……
クソったれ、噂に尾がついてんぞ! 俺はそこまで寝相酷かねぇよ!
謝罪するジルコニアに、あくまで威圧感を出すため有栖は不機嫌一色の面を浮かべる。
内心で切れるチンピラ有栖と、珍しいことに外面の表情が合致した瞬間であった。
加えて一つ、問い質さねばならないことがある。
先ほど幽霊と誤認した人影だ。
アレからは不穏な気配がする。
具体的に言うと、ダーティビルで初めて白ローブの集団と邂逅したときと同等の。
貴重な有栖の平穏を蹂躙するような、そんな存在──という予感だった。
だから心眼で事前に危機を察知して、対応せねばなるまい。
いつまでも受け身な有栖ではないのだ。
「それにしても、です。貴方もこんな夜分に何事ですか。先刻の人影も──」
「この儂に関しては散歩も兼ねた見回り、で御座いますが……その、人影、というのは何の事か……(奇妙な話だ。儂は確かに一人のはずだが……)」
「何を。貴方はその人影と共にいたではありませんか」
「……いえ。その様な事実は全く」
──嘘は吐いて、
だがそんな馬鹿な話があるものか。
確と有栖は人影を見ている。
まさか見間違ったはずがない。
けれども心眼は、ジルコニアの混乱を真っ赤な字で羅列するのみだ。
つまり────。
鉄面皮の有栖は顔を硬直させて、やっと返した言葉は一言だけだった。
「──そう、ですか。」
「既に此の様な御時間で御座います。之から夜間の物音に気を付けますので……どうぞ御ゆるりと御休みになって」
「はい……お休みなさい」
心ここにあらずで有栖は答え、扉を閉める。
──あの人影が、ジルコニアに見えぬ存在であれば辻褄が通ることになる。
それはあの人影が、使用人達の噂通りだということを指し示していた。
「あれ、嘘だろ、嘘、嘘、ゆ、ゆうれ──」
徐々に理解して、顔を真っ青に変える。
──その日、有栖は一睡もできなかったのは情けない話だが事実である。
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