2 『アリス・エヴァンズの優雅な一日』
──そこは、開け放たれた窓から柔らかい日差しが入る、広く開放的な部屋であった。
撫でるような風に髪を揺らし、少女は眩しげに目を細める。
華美な内装は、そこが位の高い者のための場所であることを印象付ける。
ここは、神聖ミリス王国の宮殿内。
ダイス教の信徒からすれば、紛れもなく特別な場所である。
「アルトリア国から仕入れた茶葉を使用しました、紅茶で御座います。どうぞ」
「──ありがとうございます」
光に満ちた絢爛な一室にて、その見栄えの良い少女はティーカップを口に運ぶ。
可憐さを色濃く残した彼女のあどけない顔形は、まさに絶世という言葉が似つかわしい。
服装も、柔らかく仕立ての良い白いワンピースドレス。
梳かれた特徴的な藍青色の長髪を小さく揺らしながら、彼女は喉を潤す。
その様を微笑みながら見る給仕は、穏やかに感想を問うた。
「如何でしょうか?」
「なかなかですね」
やんわりと頬を緩めて少女は答え、緩慢にティーカップをテーブルに置く。
それはまるで絵画の一場面のような光景だった。
……過去形である。
──うぇっ、ぬるっ、苦っ。キンキンに冷えた炭酸とかねぇのかよクソったれ。
チンピラじみた暴言を胸中で吐き捨てる少女。
様々な雰囲気が台無しになった瞬間だ。
少女の名前はアリス・エヴァンス。
元の名前は遠藤有栖。
見栄えばかりは卓越しているものの、中身は下衆の一言で済ませるに足る人間だ。
言ってしまえば、底の浅い屑だった。
今では狂言が災いして、神の子として悠々とミリス王国で暮らしているのである。
そんな有栖がミリスに来て、既に一週間が経過していた。
そしてその現状を言い表すと。
贅沢を尽くす高貴な身分という物に、有栖は溺れていた。
……――……――……――……――……
雑務ということで給仕が部屋を出て行くと、ようやく有栖は自由の身になる。
扉を閉める音。
給仕が遠のいていく音を入念に確認。
すると有栖は固定していた『不快感を与えない微笑み』を崩し、邪悪に顔を歪めた。
……うぃひひよし、行ったな。
湯気の立つカップを放置して、豪奢な寝台に飛び移る。
服装の乱れや皺を気にすることなく、有栖は心地良い自分の巣を堪能した。
手触りの良い毛布に埋もれて至福の笑みを漏らす。
現代日本の高価な布団にも引けをとらない──なお、有栖は現代で一万円以上の寝具に触れたこともないため、本当のところは知らない──そのもふもふに、自らの白い頬を何度も擦り付ける。
まるで獣がマーキングするようだ。
聞いたところによると、この寝台一式は平民の一ヶ月分の収入と同価らしい。
有栖の身を飾る服も、毎度数十皿出てくる豪華料理も、何もかもは冒険者や庶民とは桁違いの価格である。
間違いなく、ひと昔前の浮浪者紛いの身分では手に入れられなかった品々だ。
貴族身分って素敵と、そんなことを有栖は思う訳である。
性根も似合っているのではなかろうか、実力は度外視せねばなるまいが。
それはそれとて、一週間前に嫌々ミリス王国に連れてこられた頃とは真逆の心地のようである。
掛け替えのない友人と悲劇的な別離を体験した有栖は、最初の一日は嘆き悲しんでいた。
引き止めろよ裕也、おいコラ何見送ってんねん、これだからマゾは変態なんだ……と怨念を吐きながら壁を殴っていたのだ。
悲嘆に暮れる者の反応として、どこもおかしなところはない。
ないったらない。
元はと言えば、大言を放った身から出た錆なのだが。
後先を考えなかったために『神の子』と宣言し、他国に連行される羽目になった。
後先考えないとはつまり、心の準備ができていないことと同義であり──予想外の周囲の大騒ぎに呆然とするしかなかったということでもある。
良い子の皆は大事を為すとき、熟考した上で臨もう。
この大失態で有栖が得たのは、小学生でも知っている教訓のみだった。
悲しい奴だ。
しかし人間としてどうかと思う図太さをも兼ね備える有栖は、一週間で今のように贅沢に溺れていたことになる。
その適応力は一体何なのだろう。
余談だが、寄生虫の適応力は生物の中でも有数であると聞く。
いや、特に他意はないのだが。
「うぃひひひ、ふかーふかー」
見ないうちに脳細胞が死滅していたのか、有栖が酷く頭の悪そうなことを呟いた。
一週間、特に何のイベントもなかったのだから仕方ない……仕方ない、のだろうか?
それはともかく、一つ疑問がある。
何故、このように有栖が平穏に過ごせているのかということだ。
ミリス王国において、有栖の扱いは地上に顕現したダイス教の『神の子』だ。
本来なら忙殺される勢いで、仕事が舞い込むはずなのだが。
そこのところ、有栖自身も伝えられていないため不明だ。
もっとも、有栖が神の子宣言したのは唐突だったためミリス王国も混乱しているのかもしれない。
何にせよ、今の有栖には無関係な話だ。
──こんなに待遇良いなら、まぁ、その、少しくらいなら甘んじて受けてやっても良い。ああ、神の子、最高。結果オーライ結果オーライ、うぃひひひ!
無駄に偉そうで、得意げな有栖だ。
友達が側にいない一抹の寂しさはあるが、頭を布団に擦り付けて頭から追い出す。
俺をほっぽらかしたアイツなんか知るものか……と、意固地になっていた。
勿論、陵辱好きの神をぶん殴るという目的は見失ってはいない。
だが具体的な方策が見つからないため、今のところは保留中というやつだ。
ただ有栖の生活と安全が保障された現在、ぬくぬくと自堕落に日々を満喫していないとは言えない。
軸がブレているのかブレていないのか分からない奴だった。
「……身と貞操の危険がなけりゃ俺はまあ、割り切ってしまっても──」
そんなときであったか。
「そん……! 僕は──女のような」
「まあ、まあ……ち着いて」
有栖がぐだぐだしていると、戸外から言い争うような声が聞こえてきた。
──やばっ。まだ少ししか堪能してないのにクソったれ!
その瞬間、有栖は機敏な動きを見せる。
ベッドから跳ね起き、布団を自然な形で畳み、皺が寄りかけていたワンピースドレスを正し、先ほどまで腰を下ろしていた椅子に座り直して、ティーカップに口を付けた。
威厳のある姿勢をとり、表情も澄ましたものにすげ替える。
ここまでで二秒も掛かっていない。
ダーティビルにいた頃よりも一層、自分を繕うことだけは成長したようだ。
しばらくすると三度のノックが、扉から発せられる。
有栖は一秒の間をおいて、ゆっくりと「どうぞ、鍵は掛かっておりませんよ」と応じた。
そして既に湯気が絶えたカップを置き、視線を扉へと向かわせる。
ここまで全ての行動を意識して行い、自らの気位を高く持つ。
「……休息中、失礼致します」
ん? 何か聞き覚えあるな、この声。
けれどもミリスで聞いた物ではない。
ダーティビル王国で右往左往していたときに──ああ、そうだ。
有栖がその正体を突き止めた直後、遠慮するように控えめに扉は開かれ、
「今日から……エヴァンズ様の侍女として務めることになります、サヴァン・デロ・ガインドです。宜しくお願いします」
「…………サヴァン?」
サヴァン・デロ・ガインド。
ダーティビル王国での一件で、損なポジションだった女性騎士だったはずだ。
その記憶と違うことなく、顔や雰囲気、身長も何もは彼女であることを指す。
しかし有栖は、一瞬その判断に迷った。
その訳は彼女の服装にある。
「その格好は一体……?」
「それは──! その、きちんと理由もありますので……先に断固として明言しておきますがッ! これは僕の趣味ではありませんからッ!」
入ってきたのは、苦々しい顔つきをした鳶色の髪を一つ結びにする高身長の騎士……だった者だ。
彼女の格好は騎士とは到底思えない、端的に表現するなら──そう、メイド服だった。
黒を基調とするフリル付きの制服に、白のエプロンが眩しい。
サヴァンの頬は羞恥のせいかほんのりと朱が差し、鳶色の眼と眉は困惑している様子を過不足なく表現している。
それを見ての有栖の感想と言えば。
──デリヘルとか呼んでないんだけど。
元高校生でありながら、この少女は何を思っているのか。
有栖は、冷静に錯乱していた。
……こうして、緩慢にも少女の物語は動き出す。
そこに、信頼する『友達』の影はなかった。
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