5.

 時刻は間もなく十二時。

 本当だったら今ごろはどこでお昼を取ろうかと、ふたりで迷っていたころだろう。それを考えると少し憂鬱になる。


 もしかしたら、後宮さんと喫茶店に入っている間にきて、わたしがいないから帰ったのかも……とも思ったけど、たぶんそれはないと思い直した。きっと那智くんなら忠犬のようにいつまでも待っているに違いない。その姿を想像してみると、知らず頬が緩んだ。


 しかし、ここに那智くんはいない。


 それを思い返して、結局、わたしはまたため息を吐くのだった。





 携帯が鳴った。


 バッグから取り出しディスプレイを覗いてみると、それは知らない番号だった。


「……」


 普段なら出ないところだけど、このときは何か予感めいたものを感じ――わたしは通話ボタンを押して、携帯を耳に当てた。


「もしもし?」

『あ、よかった。出てくれた。先輩、僕です!』


 それはまさしく那智くんの声だった。


「那智くん! 那智くんなの!?」


 わかっていながらも、わたしは聞き返していた。


『えっと、はい、そうです』

「いったい何してるの!? 今どこなの!?」

「すみません。連絡もしないで。今そっちに向かってますので。わひゃひゃひゃひゃ……」


 いきなり電話の向こうから奇怪極まりない声が聞こえてきた。


「な、なに、今の……?」

「す、すみません。後ろに奈っちゃんがいて邪魔をしてく――」


 プツッ――


 腹が立ったので切ってやった。

 そのまま携帯をそばの噴水に投げ込むか、道路に放置して車に轢かせるか迷っているうちに再び電話がかかってきた。


「……」

『いきなり切らないでくださいよ~』

「……」


 あれで切らない女の子がいたら連れてきてほしい。恋する乙女の何たるかを説いた上で、シベリアに送ってあげるわ。


『先輩、聞いてます?』

「ええ、聞いてるわよ。聞いてるから今の状況を簡潔に説明してくれるかしら?」


 自然、声がピリピリしてくる。


『……えっとですね、今、車でそっちに向かってます』

「車?」


 タクシーでも乗っているのだろうか?


『はい。実は途中で……って、ああ、もういいや。言ってるうちに着きましたから』

「……は?」


 思わず素っ頓狂な声を上げるわたし。


 と、そこにひと目で高価とわかるスポーツカーがロータリィに入ってきた。まさか、と思う間もなく、その車はわたしとの最短の地点に停車した。


 助手席から降りてきたのは予想通り那智くんだった。彼は車から降りると、ぱっと明るい笑顔で手を振ってくる。


 無邪気な笑顔。

 今までの不安も吹き飛んでしまいそうな笑顔だ。


 刹那、わたしは走り寄りたい衝動に駆られる。実際、そうしようと思ったが、那智くんが一度こちらに背を向けた。運転手に挨拶しているようだ。おかげでわたしは駆け出すタイミングを逸してまった。


 それからようやく那智くんはドアを閉め、再びこちらに向き直った。ひらり、と片手だけを支えにガードレールを跳び越える。駆けてくる。


「すみません。遅くなりました!」


 那智くんは笑顔でそう言った。


 少しは申し訳なさそうな顔をしてほしい。しかし、こんなときでもやっぱり那智くんの笑顔は素敵だと思ってしまうわたしは少々甘いだろうか。


「……」

「えっと……やっぱり怒ってますか?」


 こちらが何も言わないことに不安を感じたのか、那智くんは恐る恐る聞いてきた。


 わたしは無言のままで那智くんを抱きしめた。


「うわっ。ちょっ、ちょっと先輩……!?」


 那智くんが慌てふためき暴れて逃げようとしたので、わたしは彼の背中に回した手に力を込め、さらに強く抱きしめた。わたしよりも那智くんのほうが背が低いので、彼の肩に顎を乗せるようなかたちになる。


 そして、わたしは耳もとで静かに囁いた。


「怒ってる」

「……すみません」


 今度は申し訳なさそうに言い、那智くんは大人しくなった。


 確かに怒っている。けど、それ以上に不安だった。那智くんがこなくて不安で、こうしてきた今でもやっぱり不安で、抱きしめておかないとまたどこかに行ってしまいそうな気がする。


 不意に突き刺さるような視線を感じた。


 正面。


 先の車がまだ止まっていて、その後部座席の開いた窓に宇佐美さんの顔があった。

 彼女は、じっとこちらを睨むように見つめていたが、わたしが視線を返していることに気づくと、ぷいとそっぽを向いてしまった。


「せ、先輩、そろそろ……。人も見てますから……」


 那智くんの言葉に我に返る。


 体を離すと那智くんは顔を真っ赤にして俯いてしまった。キスだってしたことがあるのに、抱きしめたくらいでこんなふうになってしまうとは、かわいらしい。もう少しいじめてみたい気もするけど今はやめておこうと思う。


「それで? こんなに遅くなって、いったいどうしてたの?」

「えっと、そんなに複雑な事情ではなくてですね。途中で奈っちゃんに捕まっていたんですよ」


 那智くんは恥ずかしそうに白状する。


「くる途中でちょっと店に入ったら、そこで奈っちゃんとばったり。そのままとっ捕まってしまって。今から先輩とデートだって言ってもぜんぜん離してくれなくて参りました」

「……」


 そんなことを言ったら相手によっては逆効果だということを、那智くんはきっとわかっていないのだろう。


「仕方ないので腰にしがみついたままの奈っちゃんを引きずってここまでこようとしたんですけど、さすがにすぐに力尽きて。そこで今度は奈っちゃんのお父さんと会ったんです。で、奈っちゃんは叱られ、お詫びにここまで送ってくれたというわけです」


 なるほど。事情は飲み込めた。


「けど、連絡くらいはできるでしょ? こっちはずっと待ってるんだから」

「その、携帯の電池が切れちゃいまして……」


 あはは、と笑って誤魔化す那智くん。


 ……まったく。怒る気も失せるわ。がっくり肩を落としてため息を吐いているわたしの前で、那智くんが肩にかけていたデイバッグに手を突っ込み、何やらがさがさ中を漁りはじめた。


 やがて中から取り出したのは――、


「誕生日おめでとうございます」


 差し出されたそれは、至るところに『Happy Birthday』と書かれた赤い袋に、口にはピンクのリボンをかけただけの巾着型の簡易ラッピングがされていた。それほど大きいものではない。


「喜んでもらえるかどうかわからないんですけど、いちおう誕生日のプレゼント、です……」


 途中から自信がなくなってきたのか、言葉が消えていく。


「嬉しい。開けていい?」

「いや、できれば帰ってからにして欲しいかな~と」

「じゃ、開けるわ」

「うぇーい!」


 奇声を上げる那智くんは無視してリボンを解く。出てきたのは白いレザーのブレスレットだった。


「あら、素敵」


 わたしは素直に感激した。


 さっそく手首に巻いてみる。三回ほど巻いたところ金具を止める。


「どう、似合うかしら?」


 袖が少し邪魔だ。これをつけるなら夏場のほうがいいかもしれない。


「はい。よく似合います。高価なものじゃなくて悪いんですけど、できるだけ身につけていてほしいと思って選びました」

「まぁ、そうなの」


 その気持ちはとてもよくわかる気がした。わたしも那智くんに何か贈るとしたら、大事に仕舞われるものより、ずっと長く使ってもらえるもののほうがいいと思う。


「実は、その……同じものを僕も買ったんです。先輩と同じものを持ってるってなんかいいなと思って。いつかふたりでそれをつけて、その手をつないで歩けたら、と……」


 照れながら消え入りそうな声で那智くんは言う。


 あ、マズい。今また、すごく抱きしめたい。いったいどうしてくれようか。


「で、今それは?」

「家に置いてありますけど?」

「……シベリア送り」

「何で!?」


 惜しい。まったく惜しい。そこまでわかっていながら、なぜ最後の最後で詰めが甘いのか。


「あ、そうだ。これも」


 次に出してきたのは青いニットのキャスケットだった。これは包装もされずに裸のままだった。


「くる途中、通りかかった店で見つけたんで、買ってきたんです。……まぁ、そこで奈っちゃんに見つかったから曰くつきになっちゃいましたね」


 力なく笑いながら那智くんは渡してくれた。


 これが原因で那智くんが遅刻したわけだから、確かに曰くつきではある。しかし、このキャスケットに罪はないし、那智くんが買ってくれたと言うだけでそんな曰くは吹き飛んでしまう。


 わたしはそれを頭に被り、那智くんに感想を聞く。


「どう?」

「いいと思います」


 お世辞ではないと信じられる、真っ直ぐな口調で那智くんは言ってくれた。


 と、そこで再び視線を感じた。


 まだ同じ場所に車はあった。しかし、今度は、彼女は笑っていた。今までも時折見せていた、あの不敵で小生意気な笑みだ。


 窓が閉まっていく。

 ゆっくりと一定の速度を保って、窓が完全に閉まるまでその笑みは崩れず、やがて黒いスモークガラスの向こうにそれは消えた。


 そして、ようやく車は発進した。


「……」


 いやなことを思い出した。


 わたしの知らないところで那智くんが宇佐美さんと会っていたこと――。つい先程まで一緒にいて、間、わたしはずっと待たされていたこと――。不安が甦ってくる。


 しかし、その不安は、裏返せばすべてわたしの中から出てきたものでもある。那智くんのわたしに対する気持ちを信じ切れなかった自分。那智くんを心配せず勝手なことばかり考えていた自分。


 そして、最後に見せた彼女の勝ち誇ったような笑みも気になる――。


「先輩? そろそろどこか行きませんか?」

「え? ええ、そうね」


 不安は逆に前よりも増えたかもしれない。


 それでも今は、那智くんと過ごす時間を楽しみたいと思う。


「あ、待って、那智くん」

「はい?」

「ありがと♪」


 顔を近づけ、素早く、盗むように、那智くんの頬にキスをする。


「☆×■◎※△ーーーー!?」


 途端、那智くんは声にならない悲鳴を上げた。……その反応は少し傷つく。いい加減にこれくらいのことは慣れてほしい。

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