第33話 エピローグ 敗北




 ※ ※ ※





 当たり前だが、入院騒ぎになった。



 警察沙汰にならなかっただけましだという感じだが、匡は一週間、真樹に至っては倍の二週間の入院を命ぜられた。


 脱水症状に酸素欠乏症のダブルパンチ。

 極限状態での勝負により、身体の免疫は完全に低下しており、二人ともまる二日、意識不明の状態をさまよった。


 まだ基礎体力の高い匡は回復が早かったのだが、平均的な女性でしかない真樹は、一度死の淵をさまよったくらいだった。

 その様子をすぐそばで見ていた匡は、普段の彼からすると予想もできないほどに取り乱し、周囲を驚かせた。



 今回の騒動の立役者であり、黒幕である榎本は、なんと事務所で控えて待っていたらしい。

 火災警報器が鳴ったら扉を開けるという条件で控えていた彼女は、救急車を呼んだあとは、追及を逃れるために姿を消した。



 入院中に一度だけ電話をよこした彼女は、一言、こんな風に言った。

「負けた気分はどうや? 匡君」



 どうもこうも。

 最悪だよ、と。匡は笑い半分に吐き捨てた。



 先に退院した匡は、この日、病院を訪れていた。


 重症だった真樹は、後遺症などの危険があったため、検査も長引いていた。

 幸い大きな問題は残らないようだったが、まだ完全に回復したわけではないらしい。



 あの勝負の日以来、ちゃんと面と向かって会うのは、今日が初めてだった。



 病室の扉を開けると、冷たい空気が匡の肌を撫でた。


 病室では、ベッドから上半身を起こして、窓の外を見ている彼女の姿があった。十一月の上旬の、冷たい風が彼女の髪の毛を揺らしている。遠くを眺めている彼女の瞳は、一体何を写しているのか。

 己の人生において、明確な敗北を与えた女の姿は、どこか幻想的で、眩しさのあまり目を細めてしまう。



「暖かくしていないと、風邪ひくぞ」

「それはいいですね」



 匡の忠告に、鈴を転がすような声で彼女は言った。



「入院が長引けば、近江さんにお見舞いしてもらえる回数が増える」



 微笑みながら、真樹は匡を振り返った。

 点滴だけの生活が続いたせいか、少し頬がこけている。どこか儚げな笑みは、今やどうしようもなく愛しいものだ。


 ずっと知らなかった感情を、心の中で弄ぶ。



「一つだけ、聞きたいんだけど」



 椅子に腰を下ろすことなく、立ったまままっすぐに真樹の瞳を見て、匡は問う。


「あの時、真樹ちゃんは本当に死ぬ気だったの?」

「死ぬ気でしたよ」


 ためらいもなく、真樹は言った。

 そしてそのあとに、いたずらっぽく笑って、付け加えた。


「だって、そうでもしないと近江さん。私のこと、見てくれないから。見せかけの演技なんて、近江さんは絶対見抜くでしょ?」



 ずっと彼の側で見ていたから。

 彼の実力を、肌で感じているからこそ、知っているのだ。



「だから、本気でした」



 この男に振り向いてもらうには。

 己のすべてを掛けるほかないと。



「だって――見てもらわないことには、好きにもなってもらえないから」



 それは、牧野真樹の一世一代のギャンブル。

 惚れた男を惚れさせるための、最初で最後の賭けだった。







「私の勝ちです。近江さん」







 得意顔でそういった彼女は、ふわりと頬をほころばせ、匡に全力の愛情を向けた。

 そうして、敗北を知らなかった男は、ついに負けた。







 ※ ※ ※






 牧野真樹は、近江匡のことを天才だと思っていた。


 実際、彼は天才だろう。

 彼になんて、一生かけたって敵わない。


 今回は奇抜な手と罠によってなんとか出し抜けたが、それも二度目はない。




 けれど、二度目なんていらないのだ。



 だって真樹は、完膚なきまでに匡に勝利した。


 だから、今はこう答えよう。






 私は近江匡を天才だと思うけれど―――


 同時に、彼は絶対に私には敵わないのだ、と。








 ギャンブルクルーズ 完

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ギャンブルクルーズ 西織 @nisiori3

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