3.「……男です」

 問題の日は土曜日だった。


 朝、目覚めた瞬間感じる違和感。いったい何かと考えれば、僕がこうして目覚めたこと自体がその正体だった。


 いつもなら朝の微睡の中、佐伯さんの声で起こされるのに、今日はそれがない。どうしたのだろう。僕はベッドを降り、パジャマ代わりのスウェットのまま部屋を出た。さすがに二月の朝だ、寒い。


 リビングとキッチンは照明が点いておらず、薄暗らい。当然カーテンも閉まったまま。空気は一晩の間にすっかり冷え切って、フローリングから底冷えのしそうな冷気が伝わってくる。つまるところ、佐伯さんはまだ起きていないということか。


「佐伯さん、起きてますか?」


 彼女の部屋のドアをノックし、声をかけてみる。が、返事なし。どうしたものかと思案しつつ、いくつかの可能性を考えてみる。


 ひとつは単なる寝坊。

 ひとつは起きられないほど体調が悪いという事態。


 そして、最後にそもそもこのドアの向こうに彼女がいないという可能性。


「……っ」


 それを考えた瞬間、胸が詰まった。……もう何ヶ月も前のことなのに、まだ引きずっているのか、僕は。情けない。


 このままこうしていても埒が明かない。僕は意を決し、中に踏み入ることにした。


「入りますよ」


 再度ノックし、ドアを開ける。


 中はリビングと同じだった。部屋の照明は消えたままで、カーテンを貫いて入ってくる薄明かりに包まれている。目が慣れてくれば、ベッドの上に人ひとり分の布団の盛り上がりが確認でき、僕はほっと胸を撫で下ろした。


「佐伯さん、朝ですよ。起きてください」


 ドアの脇にあるスイッチで部屋の照明を点け、声をかける。


「うぅん……」


 佐伯さんは悩ましげな声を絞り出しながら、寝返りを打った。が、次の瞬間、動きがぴたりと止まり――、


「え、朝!? 嘘!? ホント!?」


 遅蒔きながら何を言われたのか理解したのだろう、布団を跳ね除け、飛び起きた。


「……」

「……」

「……」


 僕の返事を待つ佐伯さんと、絶句する僕。


 結果、沈黙。


「うわ、寒っ」

「……そりゃあその格好ですからね」


 思い出したように身震いする佐伯さんに、僕は声を絞り出した。


 すっかり忘れていた。佐伯さんは寝るときには多くを身に着けない主義だった。

 ベッドの上で体を起こした彼女は、白いシルク地のパジャマを着ていたが、寝乱れていて非常にきわどい。ぎりぎり隠れている感じだ。しかも、ボトムのほうは穿いていなかった。足の間に見える下着は、あまりに刺激的な黒。透き通るように滑らかな肌とパジャマの白に対するコントラストがまぶしい。


 佐伯さんは固まる僕を見て、ようやく自分の格好に気がついたらしい。僕が顔を背けるのと、彼女が慌ててパジャマの裾を引っ張って隠すのが同時だった。


「……」

「……」


 この場合、なんて格好をと責めるのは当然お門違いで、彼女のテリトリィに踏み込んだ僕が悪いのだろうな。


 そこで佐伯さんは面白い玩具を見つけたかのように笑った――気がした。


「因みに、フロントはハイカット。バックも2分の1カットなので、ヒップにキュッて感じです」

「そんな詳細情報はけっこうです! 早く起きないと僕が勝手にわけのわからない朝食を作りますよ」


 僕は脱兎の如く部屋を飛び出て、乱暴にドアを閉めた。





 ふたりそろって盛大に寝過ごしたわけではないので、そこまで切羽詰った朝模様にはならなかった。今日が土曜で、弁当がいらないのも大きい。影響らしい影響といえば、少々朝食が簡素になったくらいか。とは言え、要領のいい佐伯さんのやることなので、それでも朝の栄養補給には十分だった。


「今日ですよね?」

「うん、そう」


 佐伯さんはバターを塗ったトーストから口を離してそう答えた。


 何の話かというと――今日、彼女がアメリカにいたころの友人が遊びにくるのだ。しかも、その相手は男だという。


「一ノ宮で待ち合わせて、その後一緒にこっちに帰ってくる予定」

「そうですか」

「あ、お昼は向こうで食べてくるつもりだから、悪いけど弓月くん、ひとりでテキトーに食べてくれる?」

「了解です」


 それくらいどうってことはない。たまには自分で自分の食事くらい作らないと、せっかくの料理スキルが腐ってしまう。


「ところで、君たちが帰ってきたら、僕はどうしましょうか? いないほうがいいですか?」

「ん? んー、どっちでも?」


 少し考えた末に、佐伯さんはそう答えた。


「それもそうですね」


 一緒に住んでいるからといって、お互いの人間関係にまで積極的に関わる必要はない。……なお、佐伯さんは僕という同居人がいることを、すでに友達に言ってあるようだ。


「どうせなら未来の旦那様ってことで挨拶する?」

「しません」


 きっぱり断っておく(因みに、これはまだあの人から受け継いだあの店を見にいく前の話だ)。


 そこで会話が途切れた。

 お互いいつもより遅いことを意識して、早く食べないといけないと思っていたかもしれない。


 が、しばし続いた沈黙を破って、佐伯さんが口を開いた。


「それにしても楽しみ。会うの久しぶりだから」


 懐かしさに頬を緩める。


「昨日の夜も電話で遅くまで話しちゃった」

「それが理由でしたか。今朝の寝坊は」


 僕がそう言うと、佐伯さんは誤魔化すように苦笑いを浮かべた。


 再び会話が止まる。

 たぶんそこまで急がなくても十分間に合うと思うのだが。


「……」


 それはそうと――いったいどんな子なのだろうな、佐伯さんの男友達というのは。





 学校には特に遅刻することなく間に合い、午前中はいつも通りに土曜日の授業をこなした。


 ――そうして放課後、


「じゃあ、先に帰ってるから」と、わざわざ昇降口で待っていた佐伯さんが、そうひと言言って足早に去っていったのが数分前のこと。帰ると言っても、制服のまま一ノ宮に直行するようだ。もう彼女の背中は見えない。


 そして今、僕は宝龍美ゆきと並んで歩いていた。


「何か気になることでもあるの?」


 不意に宝龍さんが問うてくる。


「……いえ、別に」

「って顔じゃないわね。単純に知り合ってからの時間なら、あの子より私のほうが長いのよ? わからないと思って?」

「……」


 彼女の観察力には頭が下がるな。それとも、それだけ僕の顔が何かを示しているか、だ。


「本当に何もありませんよ」

「じゃあ、今日これから何かあるの? あの子、ずいぶんと急いでいたみたいだけど?」

「佐伯さんのアメリカ時代の友達が遊びにくるようですよ」

「ふうん」


 と、そこで宝龍さんは何か気づいたように、


「それって、男? 女?」

「……男です」

「恭嗣、貴方ずいぶんとかわいい性格になったわね」


 小さく笑う彼女と、むっとする僕。


「……気にしてませんよ、そんなこと」

「どんな子なの?」

「聞いてません。気にするほどのことじゃありませんから」


 我ながらよけいなひと言をつけ加えたものだ。


「当時つき合っていた子かもね」

「ないでしょう。そんなこと一度も言いませんでしたよ」


 今回の件に限らず、過去に異性とつき合っていたことがあるとは聞いたことがない。


「そう。でも、言えなかったって可能性もあるわね」

「……」


 まさか。でも、佐伯さんはあの通り、なぜ僕なんかのそばにいるのかわからないほどのルックスだ。そういう過去があってもおかしくはないだろうし、もしあったとしても許容すべきだろう。


 気配で宝龍さんがこちらを見ているのがわかった。


「きっとあえて言わなかったのね」

「つまり、かつては友達以上だった、と?」


 しかし、僕に気を遣って伏せているということか。


「さぁ?」

「……」


 どっちなんだ。積み上げた推論を自ら崩してしまったぞ。


「真相はあの子に聞いてみないとわからないわね」


 突き放すようにそう言う。


 そこで丁度いつもの交差点に差しかかり、僕は宝龍美ゆきと別れた。





 帰宅したのが十二時半ごろ。


 昨夜の残りのご飯にレトルトのカレーをあけて昼食とした。美味い。僕の料理スキルはまだ腐ってはいなかったようだ。……もっとちゃんとしたものを作ろうとしないあたり、もうすでに腐りつつあるか。


 食後にはリビングでコーヒーを飲みながら、滝沢が押しつけていったコミックスに目を通す。が、残念ながらたいして面白くなくて、途中で放り出してしまった。彼が持ってくる作品は今のところハズレがないのだが、ここにきて趣味の違いが出たのかもしれない。


 ふと壁掛け時計を見ると、その針は午後二時を指していた。


 佐伯さんは今ごろどうしているだろうか。たぶんとっくに友達と合流して、昼食もすませていることだろう。一緒にこっちに帰ってくると言っていたが、それはいつごろなのだろう。早めに戻ってくるのか、さんざん遊んでからなのか。


「……」


 しまったな。それくらいの行動予定は聞いておくべきだった。


 そのあたりの不透明さに気がついてしまうと、急に落ち着かなくなってしまった。僕は立ち上がると、自室に戻った。外出着に着替え、コートを羽織る。夕方まで外で時間を潰そう。いつ帰ってくるのかと家で待っているよりは、外をぶらぶらしていたほうが気がまぎれるというものだ。


 躊躇いもなく冬の空の下に出る。


 ところが、だ。


 とりあえず駅のほうへと足を向け、タイル張りの駅前広場に差しかかったとき、ちょうど帰ってきた佐伯さんとばったり鉢合わせしてしまった。意外と早かったな。


「おー」


 と、手を上げる佐伯さん。


 僕は最初、女の子がふたり並んで歩いてくる光景をすんなり納得してしまった。……ちょっと待て。佐伯さんがつれてくるのは男友達じゃなかったか? しかし、彼女の横を歩く人物は、確かにジーンズにスタジャンと少年の格好をしてはいるが、背は彼女とさほど変わらず――やがてお互いの顔がしっかりとわかる距離まできてみれば、


(こういうのは浜中君ひとりで十分なんだけどな……)


 中性的というには、あれ以上に女の子寄りの容姿をしていた。


 いや、それどころかむしろ女の子だと言われたら素直に信じてしまいそうなほどだった。

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