5.「……しばらくコーヒー断ちだな」

 朝。

 学園祭が終わって、明けて月曜日の振り替え休日も過ぎ、今日からさっそく通常の授業だ。


 眠りが浅かったせいで、目覚まし時計をセットした時間よりも先に起きてしまった。時刻を確認してからアラームを解除する。以前、佐伯さんが寝坊をしたときからいちおう毎日アラームをかけるようにはしているのだが、未だにこいつには一度も仕事をさせてやっていない。


「……」


 そうか。今日から佐伯さんはいないのか。


 実際には昨日からすでにいなかったのだが、そのときはまだ彼女はすぐに帰ってくると思っていた。

だから、実質的に今日が初めての『佐伯さんのいない朝』だ。


「……考えていても仕方がない、か」


 僕はベッドを降りた。


 やることはいくらでもある。朝食を作って、その後片づけ。洗濯くらいはしてから学校に行きたいところだ。簡単に掃除までしていた佐伯さんの手際のよさには、今さらながら頭が下がるな。


 ラフな部屋着に着替え、自室を出ようとして――ドアノブを握ったところで動きが止まる。


 ドアの向こうで物音がした。そして、人の気配も。


 僕は部屋から飛び出す。


「!?」


 そこに――佐伯さんが、いた……。


 制服姿でキッチンに立ち、朝食を作っている。まるでいつもと同じ朝の風景だ。僕は一瞬、彼女が出ていったのは何かの勘違いだったのだろうかと混乱した。


「あ、起きたんだ……」


 部屋から転がるようにして出てきた僕を見て、彼女は言う。


 だが、その声の調子はどこかばつが悪そうで、僕には彼女が焦っているようにも見えた。


「帰ってきてたんですか!?」

「う、うん。でも、荷物取りに寄っただけだから。教科書とか制服の冬服とか、ね」


 そう言われて見れば、リビングの入口にいつぞやの大きなスポーツバッグがあった。そこにまとめた荷物が入っているのだろう。


 つまり、まだしばらく帰ってくるつもりはない、ということか。


 さらに佐伯さんは、まるで逃げるように僕に背を向け、料理を再開しながら続ける。


「ほら、来週から衣替えだから。弓月くんも忘れないようにね。夏服のまま行ったら格好悪いよ」


 が、しかし、むりに明るく振る舞おうとして笑みを含ませた声は、まるで誤魔化し笑いのようだった。


「昨日ちゃんと掃除した?」

「しましたよ。簡単にですが」


 当り障りのない会話は、逆にどこか空々しい。


「洗いものは? 洗った食器がまだ水切りカゴに残ってたよ。もう棚に戻したけど」

「あ、ありがとうございます」


 そういえば、夜には何もする気がなくなって、そのままほったらかしにしていたな。


「……」

「……」


 少し間があいた後、


「はい、できた」


 佐伯さんは最後の一品を作り終え、その皿をテーブルの上に置いた。いつも僕が座っている、リビングに近い側の席だ。


「ついでだから朝ごはんも作っておいたから。後で食べて。……じゃあ、わたし、行くね」

「え?」


 彼女の放った最後のひと言に対し、僕は間抜けな声を上げる。


 佐伯さんは僕の横を抜け(僕はそれを目で追いながら振り返り――)、そして、スポーツバッグを拾い上げてから、僕へと向き直った。


 そこはリビングの入口。

 ドアの向こうは玄関へ続く廊下。


 僕はどうにか声を絞り出す。


「君は一緒に食べないんですか?」

「うん。家で食べてきたから」


 弱々しい微笑つきの、やわらかい拒絶。


「じゃあ、すぐにコーヒーを淹れますよ。それくらい飲んでいきませんか?」

「ううん。いい」


 彼女の声はあくまでも優しく。


「兎に角、すぐに僕も食べますから、一緒に学校に行きましょう」

「……」


 しかし、それにも黙って首を横に振るだけ。


 長居をする気はないということらしい。


「……そう、ですか」

「うん。……じゃあね、弓月くん」

「ええ」


 最後にもう一度、力のない笑みを見せ、佐伯さんはリビングを出ていった。


 僕はもうこの前のように玄関まで見送りはしなかった。


 その場に立ち尽くし――ようやく動けるようになったのは、玄関のドアが開いて閉じ、その音の余韻すらも完全に消え去ってからだった。


 振り返り、彼女の作ってくれた朝食を見て、ふと気づく。

 ホワイトオムレツに生ハムサラダ。後は食パンを焼いてコーヒーでも添えるだけの、多少冷めても十分に食べられるメニュー。もしかしたら佐伯さんは、僕に気づかれないように用だけすませて出ていくつもりだったのかもしれない。だから僕を起こしもしなかったのだろう。


 ……どうしてなのだろうか。


 なぜ彼女は僕から離れ、僕を避けるのか。


 そして、あの日。

 僕との約束を破り、あの先輩と時間をともにして、帰ってきてからも本当のことは言ってくれなかった。


 いったい、なぜ。


「……」


 いくら考えても思いつかない。


 きっと何か事情があるのだろう。それは佐伯さんがこちらに帰ってきて、その口から話してくれるのを待てばいいと思っていたが――やはり一度ちゃんと聞いたほうがいいのかもしれない。


 ため息をひとつ。

 僕はひとまず考えるのをやめた。


 せっかく佐伯さんが作ってくれた朝食だ。まずはこれをいただくとしよう。そう思ってコーヒーメーカーへと向き直り――そこで胸に息苦しさを覚えた。


 思い出すのは、佐伯さんと飲んだ最後のコーヒー。


 ……。

 ……。


「……しばらくコーヒー断ちだな」


 僕はコーヒーメーカーをセットするのをやめた。

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