――#10

1.「自転車がなぜ倒れないか知っていますか?」

 学園祭も間近に迫ったある日のこと。


 普段よりやや遅めに学校から帰ってくると、マンションの前で佐伯さんが自転車を眺めていた。サドルに触れてみたり、ハンドルを握ってみたり。


 自転車?


 僕も佐伯さんも自転車など持っていないのに?


「あ、弓月くんだ。おかえりー」

「只今帰りました。……その自転車、どこから盗ってきたんですか?」

「せめて買ったと言え。ぴかぴかなのに」


 佐伯さんのジト目。


 確かに自転車はまっさらで、新品にしか見えない。


「買ったんですか?」

「ううん。懸賞で当たったの」


 自慢げにサドルを叩く。


 それはオーソドックスな自転車で、変速もなければ当然電動アシストなどでもない。ただ、その分軽そうで、前籠が籐の編み籠になっているのが洒落ていた。


「懸賞とは運がいいですね」

「うん。わたし、弓月くんと出会って一生分の運を使い果たしたと思ってた」


 えらく高く買われたものだな。


「ま、せっかく当たったんですから、大事に使ってあげてください」


 今の生活だと駅前に買いものにいくときに使うくらいか。でも、多少買いすぎても自転車に乗せられるなら、帰りも楽だろう。通学には確か申請が必要だったか。


 などと思ってマンションの中に入ろうとしたら、


「待って」


 佐伯さんがカッターシャツの裾を掴んで、僕を呼び止めた。振り返る。


「実は乗れないの」


 彼女は指を離さず、


「は?」

「だから――乗れないの、自転車」


 さらにちょっと怒ったふうに重ねた。


「それでよく自転車が景品の懸賞に応募しようと思いましたね」

「当たったときは、これを機に練習しようかと思って」


 なるほど。プロバビリティの殺人並みに消極的な前向きさだ。


「というわけで、練習につき合って。……今から」

「今から?」

「そう。思い立ったが吉日っていうし?」


 確かに、やる気になったときにはじめるのがいちばんではある。


「まぁ、別にいいですけどね」


 特に何かやるべきことがあるわけでもなし。夕食も僕と佐伯さんのふたりだけなのだ。多少遅くなったところで、迷惑をかける相手もいない。


「じゃあ、さっそく」

「待ちなさい」


 自転車のスタンドを上げて今にも出発しようとする佐伯さんを、今度は僕が呼び止める。


「そんな格好で自転車に乗るつもりですか。着替えてからにしなさい」


 彼女は自分の姿を検める。


 まだ制服のままで、例の如くスカートはかなり丈を詰めている。


「おおっ。これで立ち漕ぎしたら、素敵なことになってしまうかも」


 今日練習をはじめて、立ち漕ぎまでするつもりとはなかなかの自信だな。


「違います。転んだときに怪我をしないようにですよ」


 ついでに言うと、制服を汚すと後々大変だ。その点は去年二度ほどやった大喧嘩で懲りた。


「僕も着替えて、鞄も置きたいですからね」


 一旦、家へ戻ることにする。


「言っとくけど、わたし、運動オンチで乗れないわけじゃないからね。今まで自転車に縁がなかっただけで」


 マンションの階段を上がりながら、後ろを歩く彼女が言う。


 珍しい人生を送ってきたものだな。幼少期の自転車なんて遊び道具のひとつだろうに。


「運動神経はいいほう、かな? 因みに特技のひとつは、立った状態からブリッジして、また立ち上がること。……やってみせようか?」

「いりませんよ」


 少なくとも制服のままではやってほしくない。


「もうひとつは、口の中でさくらんぼを結ぶことです。舌が器用な女の子ってぇろいと思いませんかっ」

「運動神経とはぜんぜん関係ない特技ですね」


 かまうと調子に乗るので、無視することにした。





 各自、自室で着替えをすませる。


 少し涼しくなってきたこともあって、佐伯さんはデニムのロングパンツに、黒のロングTシャツ。相変わらずこういうシンプルな格好をさせるとプロポーションのよさが際立つ。


 僕のほうは、半袖Tシャツに、私服のカッターシャツを羽織っただけだ。


「せっかくだから一度、ふたり乗りしてみたいな」


 再び外に出ると、佐伯さんがちょっと甘えたようにそんなことを言ってきた。


「変なことをしたがる人ですね。まぁ、それくらいならかまいませんが」


 彼女は軽いし。


 僕はスタンドを上げ、サドルにまたがる。続けて佐伯さんが後ろに乗り――そして、僕は降りた。

 嫌な予感がして振り返れば案の定。彼女はリアキャリア(荷台部分)にまたがって乗り、さっきまでそこにあったはずの僕の背中に抱きつこうとしていた。


「君、女の子らしく横座りしたらどうですか?」

「スカートじゃないんだから、そんなこと気にする必要ないじゃない」


 そう言って佐伯さんは頬を膨らませる。


「君の場合、悪意ある意図を感じるんですよ」

「抱きついたら何かつぶれるかもしれないけど、気にしない気にしない」

「気にしますよ」


 そんなにふたり乗りしたまま道路に飛び出したいのか。


「いいから横座りするか、それとも、そのままなら荷台を握っていてください」

「むー、仕方ない。……これでいい?」


 佐伯さんは不満げにしながらも、足の間のリアキャリアを両手で掴んだ。


 それを確認してから僕は再度サドルにまたがり、ペダルを漕ぎ出した。初速ゼロから次第に加速し、ある程度スピードが出ると、姿勢も安定してくる。


「さて、どこに行きましょうか?」

「さぁ?」


 考えていなかったのか。まぁ、考えなしに発進した僕も人のことを言えた義理ではないが。


 というか、自転車の練習をどこでやるか、だ。


 車がくる可能性のある住宅地ではあまりしたくない。広い場所なら駅前広場がすぐに思い浮かぶが、あそこは若い母親がよく小さな子どもを遊ばせているしな。


「となると、あとは学校でしょうね。練習はグラウンドの端を使わせてもらいましょう」


 この時間にグラウンドに残っているのは運動部だろうし、それなら二、三人轢いても問題はない。


 ふたり乗りの自転車は住宅地を抜け、すぐに大きい道路に出た。左右を確認しつつ、曲がる際にあまり道路に飛び出さないように注意して、路側帯にコースをとる。


 自転車は軽車両に分類されるため、道路交通法の定めるところにより路側帯を走らなくてはいけない。しかし、日本は明らかに道路整備の方針を誤ったと言える。前述のように定めておきながら、自転車専用レーンはもちろんのこと、十分な路側帯を確保している道路は少ない。果たしてこんな道路事情で、自転車に乗りはじめたばかりの三才の子どもに「路側帯を走るんだよ」とおしえられるだろうか? 少なくとも僕は怖くてむりだ。


 しかも、近年は自転車が歩道で事故を起こしても過失相殺は認めないそうだ。やれやれ、なんとも横暴な話だ。


 その点、この学園都市は道が広く、路側帯も十分に幅がとられていて安心できる。珍しいものとしては、原付の二段階右折のための停止スペースまで描かれているのだ。


 そうこうしているうちに水の森高校が見えてきた。やはり自転車だと早い。


 それはいいのだが、


「それはそうと君、なんで抱きついてるんですか?」


 いつの間にか佐伯さんが僕の体に腕を回し、しがみついていた。おかげでそれこそ何かやわらかい感触が背中に当たっている。


「や、何となく安定が悪くて。それに後ろに乗せてもらってるからサービス?」

「いりませんよ、そんなの。……揺れますよ、気をつけてください」

「え? きゃっ。……あんっ」


 段差を越えて歩道に上がった瞬間、佐伯さんの口から妙に艶めかしい声がこぼれた。


「なんて声を出してるんですか」

「だって、胸がうんぎゅってなったんだもん……」

「莫迦なことをしてるからですよ」


 まったく。


 そのまま僕らは水の森の敷地に進入した。





 自転車にふたり乗りしたまま校門をくぐり、今から下校らしい数人の生徒とすれ違いながらグラウンドへと抜ける。……よく考えたら、けっこう傍若無人なことをしているな。


 全国的にも有名な進学校であり、あまり運動部には力を入れていないとは言え、それでもそれなりに部活動はやっている。ふたり乗りで乗り入れてきた僕らに気づいた運動部員たちが、何だ何だと振り返った。ひとりが佐伯貴理華ということもあってかなり気になる様子だったが、部活動中なのでのんびり野次馬するわけにもいかなかったようだ。こちらとしても都合がいい。


 グラウンドの隅の邪魔にならないところで自転車を降りる。


「ところで、自転車がなぜ倒れないか知っていますか?」

「えっと……気合い?」

「多少はあるでしょうね」


 非科学的な力だが、影響していないとは言い切れない。


「簡単に説明すると――キャスタ角によってハンドルの回転軸とタイヤの接地点がずれているため、走行中の自転車は前進性が保たれているわけです。ハンドルを切った際にはジャイロ効果がはたらき、タイヤの傾きに連動して――」

「……それ、知ってる必要ある?」

「特には」


 当然こんな知識などなくても自転車には乗れる。


 関係ないが、力学を学びはじめたころ、坂道で自転車を押しているだけで、押す力や自転車の質量、重力などのベクトルを描いた図が頭に思い浮かんだものだ。


「とりあえず、乗ってみましょうか」

「え? 何かおしえてくれることないの!?」

「ありませんよ。補助輪を外したばかりの子どもじゃあるまいし。君だって自転車の乗り方くらい、だいたいの想像はつくでしょう。……まぁ、倒れないように支えるくらいはやってあげますよ」


 実際のところ、いかに彼女が軽かろうが人ひとり乗ったまま傾きはじめたら、僕の腕力では支え切れないだろう。そのときは佐伯さんが怪我しないようにだけはするつもりだ。


 僕がリアキャリアを掴んで自転車を支え、佐伯さんがおそるおそるサドルにまたがる。


「で、でわっ」


 緊張した声音で言い、ゆっくりとペダルを漕ぎはじめた。僕もふらつく車体を手で支えながら後をついていく。なかなかいい走り出しだ。


 が――、


「佐伯さん、速いです」

「いや、だって、ゆっくりだと倒れそうだしー」


 確かにスピードがあったほうが安定はするが……とか言っているうちに、ついていけなくなった僕はスペースシャトルのブースタのようにパージされ、彼女の乗る自転車がひとり先に行ってしまう。


「佐伯さん、ブレーキ、ブレーキ!」

「え、ブレーキ1? あ、そ、そっか!」


 次の瞬間、自転車はキキッと急停止した。たぶん左右両方のブレーキを力いっぱい握ったのだろう。後輪を浮かせるようにしていきなり止まった自転車は、バランスを失って転倒。だが、佐伯さんはその前に脱出して、数歩たたらを踏むだけにとどまった。運動神経がいいのは確かなようだ。


「おー、乗れたっ」

「……気のせいです」


 乗れば直進爆走で、止まるたびに乗り捨てるつもりか。


「よ、よし、もう一度っ」


 倒れた自転車を起こす佐伯さん。


 まぁ、こういうのはコツを掴むまで反復練習しかないだろう。


「ほら、弓月くん、支えて支えて」

「はいはい」


 ばんばん、と佐伯さんが叩くリアキャリアを持ち、再び車体を固定させる。


 初めてで転ばずに乗れたのだ。後は低速でもバランスを保つことさえできれば、そう遠くないうちに乗りこなせるようになるだろう。



 と、思っていたのだが――



 なぜか彼女はそこからいっこうに成長しなかった。


「佐伯さん、スピード落としてっ」

「む、むり! そんなことしたら倒れちゃう!」


 走り出したら暴走特急。


「ブレーキをかけなさい、ブレーキを」

「ブ、ブレーキ! ブレーキどこー?」


 余裕なんてないものだから、すぐにブレーキの存在を忘れる。


「きゃあ!」


 そして、最後にはカースタントもびっくりな乗り捨て脱出。


 派手に倒れた自転車は、カラカラと虚しく車輪を回す。自転車もまさか初日からこんなひどい扱いを受けるとは思わなかったことだろう。


「まだまだっ」


 そのくせ不屈の精神だけはあるときた。


「ほらー、行くよー。弓月くん」

「ま、待ってくださいっ。少し、休みましょう……」


 にしても、こっちの身にもなってほしい。彼女が乗るたびに走って追いかけているのだから。十本も二十本もダッシュして、いったいどこの部の練習だ。


「もぅ、だらしないなぁ。女の子より先に果てるなんて」


 ……何の話だ。


「いい。次はひとりで行くから。そろそろ乗れそうな気がするし」

「……」


 一歩も前進していないくせに、どの口でそんなことを言うのやら。


 尤も、これだけやって無傷なのだから、乗れるようになるかは兎も角として、少なくとも怪我をする心配だけはなさそうだ。僕はひと休みさせてもらうことにしよう。


 飽くなきチャレンジ精神で走り出す佐伯さん。とりあえずひとりで漕ぎはじめることはできるようになったようだ。


 僕も昔はこうやって練習したものだ。乗れるようになった後、ゆーみとふたり乗りで近所を走っていたら、下り坂で盛大に転んでしまった。ゆーみはどこに行ったとあたりを見れば、坂の遥か下を転がっていて、驚いた犬に吼えられていた。そりゃあモノトーンの布の塊が転がってきたら、犬だってびっくりするだろう。


「きゃーっ」


 ここ一時間ほどですっかり聞き慣れた悲鳴で、僕は我に返る。


「どいてどいてー」

「っ!」


 見れば佐伯さんの自転車は昇降口付近までオーバーランし、見事なコース取りでもってそこを歩いていた男子生徒に突っ込んでいくところだった。


 幸いにして、騒々しい反復練習のおかげでブレーキをかけることはできたようで、男子生徒が受け止めるようなかたちで停車した。見知らぬ彼に車体を支えられ、佐伯さんは両足を地につける。


 ほっと胸を撫で下ろした後、僕はそちらに歩み寄った。


 間、佐伯さんは自転車から降りて何度も頭を下げ、男子生徒のほうは笑顔で応じていた。


 近づくにつれ、男子生徒はノンフレームの眼鏡をかけていて、その雰囲気からどうやら三年生らしいことがわかった。理知的な面立ちだが、その笑顔や時折混じる眼鏡のブリッジを押し上げる仕種が少々キザに映る。


 やがてふたりのやり取りは、三年の先輩が何かを話し、佐伯さんが少し困ったような顔でうなずくものに変わっていった。――何だ? いったい何を話している?


「佐伯さん」


 声が届くところまでくると、僕は彼女を呼んだ。


 男子生徒がちらりとこちらを見る。


「じゃあ」

「あ、はい。それじゃあ……」


 辛うじてそれだけが聞こえた。僕がその場に辿り着く前に、彼は最後にもう一度眼鏡のブリッジを押し上げ、立ち去った。


「お知り合いですか?」


 僕が問うと、彼女は静かに首を横に振った。


「今日が初めて」


 そう言って伏せた彼女の顔は、少し浮かないものに見えた。いったいさっきの男と何を話したのだろう? 品のない言葉でナンパでもされたか?


「佐伯さ――」

「さ、続き続きっ」


 僕らの発音が重なった。


 彼女はたぶん僕が何かを言いかけたことに気づいていたはずだ。その上で聞こえない振りをしたのだろう。勢いよく顔を上げ、明るい声を発した。


「絶対今日中に乗れるようになるんだから」

「大口を叩きましたね。こうなったら気がすむまでやりなさい。どこまでできるか見ててあげますよ」


 今はこれ以上の詮索はやめておこう。言いたくないのなら仕方がないし、そうする必要があれば話してくれるだろう。そもそもそれ以前に、何かあったように見えているのは僕の気のせいなのかもしれないのだから。





 結論から言うと、佐伯さんはまったく進歩しなかった。


 相変わらずスピードを出さないと倒れてしまうし、転ぶのを怖がっていて余裕がない。何度も倒された自転車がよく壊れなかったものだと感心するが、きっと軽さと丈夫さが売りなのだろう。とは言え、このままでは唯一のチャームポイントである籐の編み籠がどうにかなってしまうかもしれない。


 僕たちは今、成果の上がらなかった練習を終え、家路についていた。自転車は僕が押し、ふたりで歩道を歩く。


「おっかしいなぁ」

「よっぽど相性が悪いみたいですね」


 運動神経は悪くないとなれば、後はもう相性という他はない。


「まぁ、ひたすら練習あるのみ、でしょう」

「むー」


 思うようにいかなかったせいか、佐伯さんはかなり不満げだ。


「ひとりで乗れるようになるまで、君は僕の後ろに乗っていればいいんですよ」

「うわ。そんなこと言われたら、わたし、もう乗れなくてもいいかも。ねぇ、その自転車あげるから、ずっとそうしようか?」


 それは勘弁してほしい。


 いきなり、彼女はひょいとリアキャリアに横座りした。


「じゃあ、さっそくこのまま買いものに行こー」

「そうですね。ここまで出てきたんですから、それくらいはすませて帰ることにしましょうか」


 僕もサドルにまたがり、ペダルにかけた足に力を込める。

 安全運転の自転車は、のんびりした調子で走り出した。


 まぁ、こうやってどこに行くのも佐伯さんとふたり乗りというのも悪くはないのかもしれない。

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