3.「そろそろおしえてください」

「グッモーニンッ」


 という元気な声を、意識の遠いところで聞いた。

 佐伯さんの声だ。


 続けて、ギシ、とベッドのスプリングが軋む音。彼女がベッドに手を突いて、僕の顔を覗き込んでいるのだろう。目を開ければとびきりの美少女の顔が、かなり近い距離で見られるに違いない。が、今の僕はそうできるほど意識も体も覚醒していなかった。


「早く起きないと朝ごはん抜きの上、わたしの朝ごはんが弓月くんになります」


 そんな冗談にも反応できず、やがていつもと違う僕の様子に、佐伯さんが「むー?」とうなりはじめた頃、僕はようやく口を動かすことができるようになった。


「……あと十分だけ寝かせてください」

「わ、珍しい。弓月くんもそんなかわいいこと言うんだ」


 何がかわいいのかわからないが、それくらい言うこともある。


「いいよ。その代わり十分で起きなかったら、ベッドにもぐり込むから」


 当然、このあと僕は十分とかからず起きた。





「どうしたの? 珍しく寝起きが悪かったみたいだけど」


 向かい合って朝食を食べながら、佐伯さんが僕に尋ねた。

「少し遅くまで勉強を」

「中間テスト、近いもんね」


 互いにトーストを片手に、サニーサイドアップを箸でつつきながら言葉を交わす。僕はまだ完全には眠気が取れていなかった。


「ね。今度一緒に勉強しようか。いろいろおしえてよ」

「内を言うんですか。凡人の僕が、入試をトップで通った人におしえることなど何もありませんよ」


 今ならギリギリ僕のほうにアドバンテージがありそうだが、いずれ逆転されることだろう。


 それからしばらく佐伯さんは何やら考えている様子だった。眠かった僕はむりに会話をつなごうという気力もなく、何か考えているなと、彼女の顔を見ながら思うだけだった。


 と――、


「きらーん。次のデートが決まりました」

「はい?」


 何を言い出すのだろうか。


「ずばり。まったりデートで」

「……」


 わからなかった。


「リビングで一緒に勉強して、たまに休憩して、終わったら買いものに行って晩ごはん。夜は借りてきたDVD見たり。そんなデート」

「リビングでの勉強以外は普段とあまり変わりませんね」

「いいの。デートだと思えばデートになるんだから」


 拘りがあるのかないのか、さっぱりわからない理屈だ。

 だいたいその場合、はじまりと終わりはどうするつもりだろうか。一緒に住んでいるのに。「今からはじめます」「これにて解散」とでもやるのだろうか。何とも間抜けな話だ。


「あ、確かにそうだね」


 そのあたりの疑問をぶつけてみたところ、そんな答えだった。あまり深くは考えていないようだ。


「わかった。日曜までに考えとく」

「……」


 でも、どうやら計画の実行自体は決定事項のようだった。





 食後、リビングでコーヒーを傍らに新聞を読んでいると、自室から佐伯さんが出てきた。黒いストッキングの上に赤いチェックのスカート。白いブラウスにはリボンをつけ、ブレザーも羽織っている。登校の準備は万端のようだ。


「弓月くん、もう出る?」

「いえ。君さえよければ先に出てください」


 出ようと思えばすぐにも出られるが、ぱっと見て佐伯さんの方が早そうだ。


「ん。わかった。先に行くから、戸締りお願い」

「わかりました」


 佐伯さんは髪とスカートをなびかせて、リビングを横切っていく。彼女は動きが軽やかで快活なので、見ていて気持ちがいい。


 佐伯さんが出ていってから、僕は新聞を閉じた。努めて何も考えないようにして、意識的に無駄な時間を過ごした。女の子と一緒に暮らすような特殊な環境にいてもこういうことができる僕は鈍感なのか、それともただ単に慣れてしまっただけなのだろうか。


 それから十分ほどしてから部屋でブレザーを着込み、制鞄を持って家を出た。


「おはよーございますっ」


 そこになぜか佐伯さんがいた。


「……」

「……」

「……そこで何をやっているんですか、君は」

「かわいい下級生モードでご挨拶っ」


 かわいいと自分で言うか。


「そうじゃなくて、君は先に行ったはずではと聞いているんです」

「うん。それがちょっと忘れものをね」


 自分の失敗を告白して舌を出す姿は、確かにかわいくはある。


「そーゆーわけで、一緒に行こー」

「いやです」

「ダメ。そこで待ってて」


 僕が間髪入れず答えても、佐伯さんがトーンを落とした声でさっくりと却下した。僕と入れ替わるようにして家の中に入っていく。


 閉じたドアを見ながら、とっとと逃げてしまおうかと考える――が、すぐにドアが開き、佐伯さんがひょっこり顔を出した。


「逃げたらひどい目に遭わせるから」


 ひとこと言って、また消える。

 とりあえず逃げる気は失せた。


 さほど待たされることなく佐伯さんが戻ってきて、結局、玄関の鍵は彼女がかけた。


「いったい何を忘れたんですか?」

「体操服とジャージ。今日は体育があるのにね」


 荷物にサブバッグがひとつ増えている。忘れものをしたのは確かなようだ。問題は、果たしてそれが本当にうっかりして忘れたのか、故意に忘れたのか、だ。まぁ、追求しても仕方のないことだろう。





 さて、彼女と一緒に登校するのは何度目だろうなと、佐伯さんと並んで歩きながら思う。


「どうしたの? 考えごと?」


 ほとんどひとりで話していた佐伯さんが、隣から聞いてくる。僕がかなりいいかげんな相づちを打っていたせいで、見抜かれてしまったらしい。


「まぁ、少し」

「女の子のこと?」

「残念ながら僕には、離れているときまで気にするような女の子の知り合いはいませんよ」


 言っていて少々悲しくなるが。かつて宝龍さんとつき合っていたときですら、そんなことはなかった。


「わたしは?」

「今ここにいるじゃないですか」

「じゃあ、いないとき」

「極力考えないようにしています」

「ひっどーい」


 ふざけ半分に肩からぶつかってくる佐伯さん。


「わたしは弓月くんのこと考えるな。授業中、今なにやってるんだろう、とか」

「君が授業中なら僕も授業中ですよ」

「ロマンがないぁ。……それで、なに考えてたの?」

「いつもと一緒ですよ。こんなところあまり人に見られたくないな、と」


 僕が何に不安を感じているかは言わずもがな。


 学園都市の駅と水の森高校との中間にある交差点まできた。僕らが信号待ちをしている間、同じ制服を着た生徒たちが、時折こちらに目をやりながら対岸を通っていった。


「僕が心配しても君は、なるようになるとか、どうにもならないと言うんでしょうね」

「ま、そんなところかな」


 佐伯さんは笑い、僕はため息をひとつ。


 やがて信号が変わり、僕らは横断歩道を渡って水の森へ向かう生徒の流れに合流した。





 佐伯さんづいている日というのはとことんまで縁があるようで、この日、僕は昼休みにまで彼女と会った。ただでさえ家で朝晩顔を合わせているのだから、学校でまで会わなくていいと思うのだが。


 彼女と鉢合わせしたのは体育教員室の前だった。僕は別の場所で用事をすませてそこを通りかかったところ、佐伯さんが中から出てきたのだ。


 彼女の、半袖の体操服にトレパン姿を見て、朝、今日は体育があると言っていたのを思い出した。どうやら五時間目がそうらしい。


「こんなところで弓月くんと会うなんて……運命?」

「偶然でしょう」


 この程度で運命を持ち出すとは、運命も安くなったものだ。佐伯さんは「ロマンがない」と、僕の答えに不服そうだった。どこかでロマンが流行しているのだろうか。


「あ、そうだ。おしえてほしいんだけど。トレーニングルームってどこにあるのかな?」

「トレーニングルームですか?」


 聞き返す僕。


「うん。今日の授業は正しい筋力トレーニングのやり方なんだって。女の子に何おしえるんだか」


 聞くからにつまらなさそうな授業に、佐伯さんはやる前からうんざりしている様子だった。


 おそらく正しい筋トレ云々はカリキュラムとして組み込まれているのだろう。去年の今ごろ、僕も授業でやった覚えがある。確か雨の日だった。


「トレーニングルームはどちらかというと運動部のためのものですから、クラブハウスのそばにありますよ」

「クラブハウス?」


 佐伯さんは首を傾げる。ピンとこないのだろう。それもそのはず、クラブハウスはあまり目立たない場所にあるから、利用しない生徒には所在がわかりにくいのだ。


 で、結局。


「案内」

「はいはい」


 こうなる。

 僕としても口だけで説明し切る自信はなかったので、一緒に行くほうが手っ取り早いとは思っていた。


 ひとまず昇降口へ向かう。


「ところで――」


 並んで歩きながら、佐伯さんが次の話題を切り出す。


「わたしの体操服姿、どう?」

「どう、とは?」

「や、弓月くん的にぐっときたりするかなって。ほら、わたし、成長期をアメリカ的な食生活で過ごしたせいか、胸はあるほうだし。スタイルも悪くはないと思ってるんだけど」

「……」


 確かに制服のときより胸の起伏はよくわかった。


「でも、君、家じゃもっと薄着のときもあるでしょう」


 今でも時々うっかり着替えを持たずに風呂に入ってしまうので、バスタオルを巻いただけの姿でリビングを通っていく。僕の心臓に負荷をかけて殺すつもりなのではなかろうか。


「それでリアクション少ないから聞いてるんじゃない。実はコスチュームとかユニフォームのほうが好みなのかなって」

「君はどういう目で僕を見てるんですか……」


 リアクションをしないのは、いちいちつき合っているとキリがないからだ。


「そもそもそれは君のほうでしょう」

「あ、バレた? 実はそう。アニメとかマンガのキャラになるやつじゃなくて、ぇろいほうのコスチュームプレイに興味があります」


 彼女はきっぱりと言い切る。

 いろいろひどい発言だな。


「もうひとつ聞いていい?」

「くだらないことなら却下します」

「……」


 黙った。

 口を閉ざして沈黙した。


 いったい何を聞くつもりだったのやら。


 そんなことをしている間に昇降口に辿り着き、僕らはそれぞれの下駄箱で靴を履き替えた。


「どっち?」

「こっちです」


 向かうのはグラウンドの方向。


「弓月くん、今日一緒に帰れる?」

「帰れるかと聞かれたら、帰れます。でも、僕としてはいやです。できればそうしたくありません」

「言うと思った」


 佐伯さんは苦笑気味。予想していたのなら聞かなければいいと思うのだが。


「でも、待ってるから。いやなら無視して。一緒に帰ってくれるなら声かけてよ」

「……」


 なんともたちが悪い。

 普段強引なくせに、時々一歩引いて試すようなことをする。


「あ。あれがそう?」


 佐伯さんが前方を指さす。行く手に長屋のような建物が見えていた。クラブハウスだ。


「え、ええ、そうです」

「だったらもう大丈夫。後は自分で行くから。ここでいいよ」

「そうですか」

「うん。ありがとう、弓月くん。じゃあね」


 先にきていたクラスメイトでも見つけたのか、佐伯さんは小走りに駆け出す。途中、一度振り返って僕に手を振ってくれた。


 一緒に帰る帰らないの話題は、再び口にすることはなかった。もう一度話題にしてくれたら、どうにかして有耶無耶にすることもできたのに。





 そして、問題の放課後になる。


「学校が終わって気が重そうにしているやつを、初めて見たぞ」


 僕がゆっくり帰り支度をしていると、滝沢が声をかけてきた。今日はもう帰るらしい。次期生徒会副会長の座を狙って、今からこつこつと下準備をしている彼にしては珍しいことだ。


「いろいろありまして。……そうだ、滝沢。昇降口のところで佐伯さんが待っているので、誘って一緒に帰ってあげてください」

「俺を待っているわけじゃないだろう」

「まぁ、そうなんですけどね」


 そこで滝沢はしばし考える。


「なんだ、弓月、彼女に帰りに待ってると言われたのか?」

「……」


 頭の回転の速いことで。

 滝沢が佐伯さんを連れ去ってくれたら、僕は考える必要がなくなると思ったのだが。


「そういうことなら野暮ことはせず、俺は先に帰るとしよう」


 そして、彼は嫌味にならない程度の薄笑いを浮かべ、教室を出ていった。こうなったら毒をもって毒を制す。宝龍さんでも誘っていくか。毒が2倍になるだけのような気もする。下手をすれば2乗だ。


 諦めの気持ちで、ため息をひとつ。


 僕は腹をくくり、教室を出た。廊下を歩き、階段を降り、また廊下を行く。そうして着いた昇降口で靴を履き替えて外に出てみれば、昼休みに言った通り佐伯さんがそこで待っていた。


 彼女は後から出てきたクラスメイトと手を振り合っている最中だった。それが終わるのを待って、僕は声をかける。


「お待たせしました」

「ううん。たいして待ってないから大丈夫」


 嬉しそうににこっと笑う彼女。


「じゃ、行こっか」


 僕がここにきたことについては、ひと言も触れなかった。何か心を見透かされているようで、落ち着かない気持ちになる。


 確かに僕には選択の余地が与えられていた。その中でこの選択肢をとった心情を説明するのはやめておこうと思う。とりあえず、佐伯さんに聞きたいこともあったので、とだけ言っておこう。


「そろそろおしえてください」


 校門を出てしばらくは他愛もない話をしていた。主に今日あったことなど。それからいつもの交差点で横断歩道を渡り、下校する生徒の流れから離れたところで、僕はそれを切り出した。


「何を?」

「君が何を考えているか、です」

「そういえば、そんなことも言ったような?」


 佐伯さんはとぼけるようにして、疑問形で首を傾げた。


「前にも言ったはずですよ。学校では僕に近づかないで――」

「でも、」


 と、僕の言葉は遮られた。


「何もなかったんじゃない?」

「……」

「わたしも別に何もなかったよ。誰も何も言わないし。……弓月くんは?」

「いえ、まぁ……」


 何かあったかと問われたら、何もないと言う他はない。


「でしょ?」


 僕は去年の宝龍さんの一件で悪評のついて回る人間になった。そんな僕と交友をもてば佐伯さんが陰口を叩かれたりするのではないかと不安だった。


 でも、それも僕の心配のしすぎだったのだろう。

 もしかすると僕が思っているほど、周りはもう気にしていないのかもしれない。それこそ人の噂も75日というやつだ。


 僕らは無言で歩を進めた。


「ああ」


 と、唐突に僕は思い至る。


「なるほど」

「なに?」

「いえ、たいしたことじゃありませんよ」


 考えてみれば、少し前から佐伯さんは言っていたではないか。どうにもならないよ、と――。


 これが彼女が示した証明と解答。

 要するにそういうことだったのだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援した人

応援すると応援コメントも書けます