――#4

1.「君はいったい何を考えてるんですか」

 ゴールデンウィーク明けの朝、


「しばらく天気が悪いのが続くんだって」


 いつものように佐伯さんに起こされ、顔を洗ってから朝食のテーブルにつくと、そう彼女が切り出した。


 体をひねってリビングの方に目をやる。ベランダへ出る全面窓からは、昨日までの五月晴れはどこへやら、確かにはっきりしない色の空が見えていた。


「洗濯ものは中に干してくからいいとして、あまり雨が続くと乾かないものも出てくるかも」

「そうですね」


 とは言え、毎日洗うものといえば下着類やTシャツ、各種タオルくらいのもので、その辺りは持っている数も多いから、そうそう尽きるとは思えない。


「いざとなればわたしは、水着エプロンで対処しようと思います。……おおぅ、まさかこんなに早く水着の出番がこようとはっ」

「きません」


 佐伯さんのふざけた案を、間髪入れず叩き潰す。


「お触りアリでも?」

「アリでもです」

「新婚さんはそんならしいよ?」

「たぶん違うと思います。……まったく、どこからそんな突拍子もない考えが出てくるのやら」


 それは問いではなく、単なる独り言、もしくは愚痴だったのだが、佐伯さんはすすっていた味噌汁のお椀を置いてから答えた。


「最近ね、うちのクラスの女の子の間で流行ってて、その手の本がよく回ってくるの」

「……」


 なんてものが流行しているのだろうか。


「おかげでレパートリィが増えて、わたしの将来のダンナ様はきっと飽きないと思うな」

「……僕は呆れてますけどね」


 レパートリィって、カラオケで歌う歌の話をしてるんじゃないんだから。


「弓月くん、どう?」

「何がですか?」

「こんな将来有望なわたし、今から押さえておく気ない?」

「……ないです、今のところ」


 というか、そんなところを決め手にするって、男として最低ではないだろうか。


 なんとも朝食が微妙な味になる話だな。


 佐伯さんにはもっと慎みある性格になってほしいものだ。

 そんなことを思った朝の風景。





 部屋で登校の用意を整えて、ブレザーと鞄を持ってリビングへ出ると、そこでは佐伯さんが洗濯ものを部屋干ししている真っ最中だった。洗ったハンカチが窓にぴったりと貼りつけられているのは彼女のアイデアだ。晴れた日だと、家に帰るころにはこれがきれいに乾いて床に落ちている。後は畳むだけだ。


 干してあるものの中には、見てはいけないようなものもあるのだが、そこには触れないでおこう。以前、恥ずかしくないのかと彼女に聞いたら、


『え、なんで? 弓月くんしかいないじゃない』


 と言われた。


 佐伯さんの中にある相関図の上では、どうやら僕はかなり彼女に近い位置にいるようだ。


「あ、弓月くん。今日は先に出てくれる? わたしはこれ干してから行くから」


 さて、どうしたものかと立ち尽くしていると、佐伯さんが先に口を開いた。


 学校へは別々に行くことになっている。たいてい彼女が先で、僕が後という順番だが、そこまで強く拘る決まりでもない。


「では、そうしましょうか」


 僕はブレザーに腕を通した。


「はーい、いってらっしゃーい」

「いってきます」


 そうして後のことは佐伯さんに任せて、僕は先に家を出た。





 マンションの前の道を通って大きな通りに出る。それに沿って歩道を歩き、学園都市の駅と水の森高校を結ぶ道に合流。


 その交差点で信号に引っかかった。


 僕が待っている間、片側二車線の道路を挟んだ対岸では青になっている横断歩道を渡って、水の森の生徒が左から右へと流れていく。数は多くない。予鈴までには時間があるので、登校のピークはもう少し後だろう。


 一様に学校を目指す流れの中で、男子生徒がひとり立ち止まった。誰かと思えば滝沢だった。僕を見つけて、待ってくれているようだ。互いに手を上げて挨拶を交わす。


「おはようございます」


 信号が青になるのを待ってから滝沢と合流した。


「さすがクラスの副委員、早いですね」

「クラス委員は関係ないよ。単なる性分だな」


 彼は苦笑混じりに返してきた。


 僕らは並んで歩き出す。


「お前の方は、今日は佐伯君と一緒じゃないのか」

「滝沢……」


 僕はため息混じりの発音をした。


 以前、滝沢は妙な誤解をしていたようだったが、それに関しては、佐伯さんとは家が近くて会う機会が多いだけでそんな関係ではないとして、きちんと説明しておいた。それで納得してくれたはずなのだが。


「わかってるよ。冗談だ」

「あまり面白くない種類の冗談です」


 ところが、この直後、さらに冗談ではない事態が起こってしまった。


「おはようございます。滝沢さん、弓月くん」


 透き通るような、涼やかな声。


 その声の主が後ろから駆けてきて、声をかけるなり僕の横に並んだのだ。言うまでもなく佐伯さんだ。


「噂をすれば何とやら、だな。……おはよう、佐伯君」


 滝沢は上級生らしい余裕のある態度で応じた。が、僕の方は少々気が動転していた。


 あれほど外では声をかけないよう言って、佐伯さんもそれなりに守ってくれていたのに。なぜそれを今になって翻してきたのだろうか。しかも、こんな堂々と。


「どうした、弓月。挨拶くらいしたらどうだ」

「……おはようございます」


 何が悲しくて同じ挨拶を二度もしなくてはいけないのだろうか。


「はい! おはようございます!」


 佐伯さんは僕の方に顔を向け、改めて返してきた。


 嬉しそうな、元気のいい響きだった。きれいな髪の美少女に相応しい。家で莫迦なことを言ったりやったりしている姿は微塵も見られない。まるで別人だ。


「……佐伯さん」


 僕は落ち着かない気分になっているのを自覚しながら、彼女を呼んだ。


「前にも言いましたが、僕に近づかない方がいいです。僕はあまり評判のよくない人間ですから」

「知ってます。でも、わたし、そうじゃないって信じてますから」


 彼女は気持ちよく言い切った。

 信じてるも何も、本当のことを知ってるはずなのだが。


「滝沢さんもそう思いません?」

「うん?」


 僕を飛び越え、滝沢へと話が振られる。


「滝沢さん、去年も弓月くんと同じクラスだったんですよね? 弓月くんって、そこまでひどい噂が立つような人じゃないと思うんです、わたし」

「そうだな。確かに俺もそう思ってるよ。あのころ、弓月が触れて欲しくなさそうだったから、こっちもあえて首を突っ込まなかったが。……どうなんだ、弓月」


 そして、一周回って僕のところに戻ってきた。


「……火のないところに煙は立たぬ、と言います」

「それは答えじゃないな」

「大丈夫。わたし、信じてますから」


 再び佐伯さんが、反対側から天真爛漫な笑顔を見せながら言った。そんな彼女に僕は、滝沢からは見えないのをいいことに、睨むようにして目を向ける。


「どうなっても知りませんよ」


 いったいどういう意図があってこんなことをしているのかは知らないが、悪評のある僕のそばにいて嫌な思いをするのは、きっと彼女だ。


 しかし、佐伯さんは、やはり滝沢には見えないように、意地の悪そうな顔で舌を出して見せた。


 それが答えらしい。





 登校時に佐伯さんの襲撃を受けたものの、早めの時間で目撃者も少なかったせいか、大きな影響はなかったようだった。


 弓月恭嗣が宝龍美ゆきを振ったあの日からだいぶ時間が経っているので、当時のことはもう忘れられつつあるのかもしれない。

 とは言え、僕は評判の悪い人間なので、気をつけるにこしたことはないだろう。


 ところが――、


「弓月君、ちょっといい?」


 放課後、終礼が終わって帰り支度をしていると、雀さんが声をかけてきた。あまり友好的ではない調子だ。尤も、ここ最近、友好的だったことなどないのだが。


「今日の朝、一年生のあの佐伯さんと一緒だったって聞いたけど、それ本当なの?」


 あの佐伯さん。


 入学試験をトップで通り、入学式では新入生総代を務め、帰国子女で、誰もが認める美少女。ひかえめだが華やかさがあり、校内でもすぐに有名になった、あの佐伯さんだ。……僕が知る佐伯さんとはかなり違うのだが。


「本当ですね」

「どういうつもりよ」


 僕が言い終わるか終わらないかのうちに、雀さんは言葉を重ねてきた。


「と言いますと?」

「まさか宝龍さんの次は佐伯さんだとか思ってるんじゃないでしょうね!?」

「それこそまさかですよ」

「じゃあ、朝、一緒にいたのはどういうこと!?」


 机を叩かんばかりの勢いで問い詰めてくる。


 その点については僕も知りたいので、ぜひとも佐伯さん本人に訊いてもらいたいところだ。


「それにしても、僕にだって女の子とつき合う権利くらい――」

「ありません! 少なくとも不誠実な人間には、そんな権利はありません!」

「……」


 あいかわらず雀さんは僕に厳しい。


 とは言え、耳が痛い部分もある。宝龍さんのわがままにつき合うかたちで交際をはじめたことは確かなのだ。それを不誠実を言わずして何と言うのか。


「滝沢じゃないですか?」

「滝沢さん?」


 僕が友人の名前を出すと、雀さんはきょとんとした顔になった。


「朝、滝沢もいましたから、佐伯さんは彼が目当てだったのかもしれません」

「うーん……」


 雀さんは腕を組みつつ、拳を顎に当てて考え込む。あり得る話だと思っているのだろう。実際、僕なんかより、整った顔の優等生である滝沢が目当てだったと考えるほうが納得できる。


「なんだ、珍しい組み合わせだな」


 そこにやってきたのは、その滝沢だった。すでに帰り支度をすませ、鞄を提げている。


「別に弓月君と話したくて話してるわけじゃありません」


 雀さんはむっとして言い返した。


「今朝、弓月君が佐伯さんと一緒にいたっていうから、注意してただけです」

「それが何か問題でも?」

「大ありです。こんな不誠実な人が佐伯さんに手を出したらどうするんですかっ」

「それは大変だな」


 滝沢は雀さんの剣幕に苦笑しながら答えた。


「ただ、弓月と佐伯君は家が近いらしい。それで仲がいいんじゃないのかな」

「そうなんですか?」

「だろう?」

「まぁ、そうですね」


 滝沢が僕に振り、僕はそれにひとまず同意した。


 雀さんはまたも先ほどと同じ構造で、うーん、と考え込んだ。納得できかねるといった様子だ。


「ところで雀さん、今日はクラス委員の会議なんだが」

「あ、そうでしたね。すぐに用意してきますっ」


 彼女は慌てて身を翻し、自分の席へと戻っていった。なるほど。それで滝沢はすでに荷物をまとめていたのか。


 ふたりはクラス委員だ。雀さんが委員長で、滝沢が副委員長。性格的に融通の利かない委員長に対して、副委員長の方は柔軟な思考ができる。そのため、雀さんがクラスメイトに注意して口論になり、滝沢が割って入って妥協案を見出すといった場面が、この一ヶ月でたびたび見られた。


 そんな雀さんだから、会議のことを忘れていたのは珍しい。それほど僕にひと言言ってきたかったということなのだろう。


 僕と滝沢は無言で顔を見合い、苦笑した。


「さて、僕は帰ります。ナツコさんのことはお願いします」

「ナツコ言わないっ」


 教室の向こうのほうから間髪入れず、雀さんのそんな声が飛んできた。地獄耳だな、雀さん。彼女の常日頃からの希望に応えて、漢字表記はひかえておくことにしよう。


「じゃあ」

「ああ」


 そうして滝沢と短い挨拶を交わして、僕は教室を出た。





 下駄箱から革靴を取り出して履き替え、昇降口を出ると、そこで最も会いたくない人物と会ってしまった。


「あ、弓月さーん」


 そう声をかけてきたのは一年生で佐伯さんのクラスメイトの桜井さんだが、その横に当の佐伯さんがいた。もちろん、僕が会いたくなかったのはこっちの方だ。


 こうして改めて見ると、桜井さんのちょっと癖毛の淡い茶色もきれいだが、佐伯さんの天然の濃淡のついた不思議な茶髪が、際立った魅力を持っていることがよくわかる。


「弓月さん、一緒に帰りませんか?」


 桜井さんが僕の真正面に立ち、見上げながら訊いてくる。癖なのか、彼女はやけに近い距離で話す。今も背中まで手が回せてしまいそうだ。


 ここで首を縦に振ればもれなく佐伯さんがついてくるのだろうが、かと言って断るための説得力ある理由も見つからなかった。


「途中までになりますが」

「はい。それでもぜんぜんかまいませんっ」


 弾んだ声を上げる桜井さん。


 ふと佐伯さんの方に目をやると、彼女は口笛でも吹きそうな澄ました顔でそっぽを向いた。まさか待ち伏せしていたわけじゃないだろうな。


 歩き出すと、自然と僕が佐伯さんと桜井さんに挟まれるかたちになった。こういうフォーメーションが嬉しいか嬉しくないかは人それぞれなので、この際おいておこう。それよりも周りがちらちらとこちらを見ているのが気になるな。視線が痛い。


 校門を出て、幅の広い歩道を歩く。


「弓月さん、キリカと家が近いんですよね」

「そうみたいです。お互いの家の場所を知ってるわけではありませんが」

「休みの日なんかはよく会うよね」


 桜井さんとは反対側から、佐伯さんがつけ加えてくる。


「いいなぁ、キリカ。変わってぇ」

「何を変われと!?」


 女の子たちは元気だ。三人どころか、ふたりだけも十分に賑やかだ。


「弓月君、今度ごはん作りにいってあげようか?」

「……遠慮しておきます」


 食事関係をほぼ100%佐伯さんに依存している僕の言う台詞ではないが。


「そのときはわたしも呼んでくださいね」


 そして、話の流れを完全に無視する桜井さん。


 そうやっていくつかの雑談をしているうちに、僕らが曲がる交差点に辿り着いた。


「じゃあ、お京。またね」

「うわぁん、キリカ、変わってよぉ」

「まだ言うかっ」


 別れるときまで楽しげなのは、女の子の特徴だろうか。僕や滝沢、矢神などは非常に地味だ。尤も、それには僕たちが平均よりもテンションが低いこともあろうが。


 僕と佐伯さんは、青になった横断歩道を渡った。向こう側に着いてから振り返ると、桜井さんが手を振ってきた。それに応えてから、再度歩き出す。


 桜井さんが抜け、僕たちだけになった。


 同じ方向を行く生徒はいない。車道にも時々思い出したように車が走り抜けていくだけ。しばらく歩いてから、僕は口を開く。


「君はいったい何を考えてるんですか」

「さぁ?」

「ということは、何か企んでるわけですね?」

「考えてるよぉ」


 そう言いながら彼女は笑った。


「ま、いいじゃない。弓月くんだって、わたしと歩いてて悪い気はしないでしょ?」

「……」


 その自信はどこからくるのやら。


「僕にだって選ぶ権利はあると思いますが」

「うわ。何それ? ちょっと傷つくんですけど。……でも、悪くないと思うんだけどなぁ、わたし」

「僕としてはもっとおとなしい、おしとやかな女の子がいいです」

「おしとやか……」


 佐伯さんは僕の言葉をワンフレーズだけ復唱した。


 それから少しの間、沈思黙考していたが、やおら駆け出し、僕の前に回り込んだ。こちらを真っ直ぐ見つめ、手は胸の前で祈るように組み合わされている。


 僕らは立ち止まって向かい合った。


「弓月先輩、実はわたし、前から……」

「なんですか、それ」


 僕は思わず噴き出した。


「うん。こういうのがいいのかなぁって」


 佐伯さんはくるりと前へと向き直る。


「やっぱりダメかぁ。弓月くんの好みに合わせるのって難しい」


 再び歩き出し、僕もそれに続いた。


 まぁ、ダメというほどではないだろうな。

 彼女の仕草や雰囲気にどきりとしたことは確かだが、でも、やはりそれは佐伯さんらしくないと思った。

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