5.「君が知りたいのなら、」

「どうするの?」


 と、宝龍さんは僕に問う。


「どうしましょうか。佐伯さんが何を怒っているのかさっぱりで――」

「嘘ね」


 彼女ははっきりと断じた。

 普段から温度の低い声が、今はさらに冷たく感じるのは、僕の精神的要因によるところが大きいのだろうか。


 三階に下り立つ。ちょうどそこを通りかかった一年の男子生徒がぎょっとしたのは、上から人が下りてきたのに驚いたことと、宝龍さんの美貌に目を見張ったのと、半々だろう。


「教室に行ってみる?」

「やめときましょう。今行っても話にならないと思います」


 僕らはそのままさらに階段をゆっくりと下りる。


「わかってる? あの子、恭嗣のこと――」

「わかってますよ」


 最後まで言われたくなかったので、僕は宝龍さんの発音を遮った。


「わかっている、というと語弊がありますね。僕は超能力者じゃありませんから。……何となく、そう感じてはいました」

「だったら――」

「でも、それは未確定です」


 例え僕がそう感じていても、佐伯さんが明言したり意思表示をしない限り、それは未確定情報でしかない。推測だ。


「私の目にもそう見えたわ」

「それでもです」


 あくまでも観測よる推測であって、評価は下せない。


「恭嗣はどうなの?」


 宝龍さんは違うアプローチで再び僕に水を向けてきた。


「僕ですか?」

「まったく気にもとめてないってわけじゃないんでしょう?」

「……」

「……」


 沈黙という名の空白ブランク


 階段の踊り場に到達した。体の向きを百八十度変え――そこで僕は口を開いた。


「佐伯さんと一緒に生活するようになって、もう一ヶ月になります」

「それが?」

「いえ、ただそれだけです。そう思っただけ」

「下手な誤魔化し方」


 宝龍さんは呆れたようにため息を吐いた。


 まぁ、自分でもそう思うが。


「お互い好きでもないのにつき合ってみた男女を、僕は知っています」

「奇遇ね。私も知ってるわ」

「……茶番でしたね。あれと同じ轍は踏みたくないものです」


 同意を求めるように言ってみたが、しかし、宝龍さんからの反応はなかった。


 道程は二階へ。僕ら二年生の教室が集まる階だ。


「その茶番の話、あの子にしてあげたら? 私のことはかまわないから」

「必要があれば、ね。でも、できることならしたくないです。あまり面白い話ではありませんから」

「そう」


 宝龍さんは感情を交えない平坦な声で言う。


「私はこの件に関して口を挟める立場じゃないから、恭嗣のやりたいようにやればいいわ。……兎に角、私のことは気にしなくていいから」

「わかりました」

「じゃあ、私は先に戻るわ」


 そう言うと僕の返事を聞く前に、早足で先に行ってしまった。


 僕は逆に心持ちゆっくり歩き、彼女とタイミングをずらして教室に戻った。





 放課後。


 僕は終礼が終わると素早く教室を出た。昇降口で上靴から学校指定の革靴に履き替えるが、まだ帰るつもりはない。


 昇降口を出たところで佐伯さんを待つ。


 幸い放課後のここにはほかのクラスの友達を待つ生徒が多く集まるため、僕が人待ち顔で立っていても目立つことはない。午後に買ったお茶のペットボトルを鞄から取り出し、ひと口飲んで喉を潤した。


 やがて下校のピークを迎え、昇降口から大量の生徒が吐き出されはじめた。友達を待つ生徒も増え、彼らはそれぞれの待ち人と合流して校門を出て行く。しかし、その中に佐伯さんの姿はなく、さらに下校ラッシュが過ぎ、生徒の流れが一旦途絶えても、やはり最後まで彼女を見つけ出すことはできなかった。


 見逃したのだろうか? いや、それはないと思う。もちろん、佐伯さんが僕を避けているなら別だが。今となっては時折思い出したように生徒が出てくるだけの昇降口を見ながら考える。


 結局、佐伯さんが出てきたのは、それから優に一時間はたった後。ちょうど僕がペットボトルに口をつけようとしていたときだった。

 都合のいいことにひとり。


「佐伯さん」


 僕の声でようやくこちらに気がついたようだ。彼女は大きな目をさらに大きく見開き、驚きをあらわにした。

 それから一瞬だけ、泣き出しそうな顔。

 そして、胸に拳を当て、困ったように視線を地面に彷徨わせた後――顔を上げた。


 佐伯さんがこちらに向かって歩いてくる。僕のほうからも寄っていった。


「ど、どうしたの?」


 そう問う声には戸惑いの色。


「佐伯さんを待ってました」

「……」

「一緒に帰りませんか?」


 押し黙る佐伯さんに、僕は続けた。


「行きましょう」


 こうして立っていても仕方がないし、実際に歩き出したほうが口も滑らかになるかもしれない。逆にまったく何も話さなくても、それならそれでいいと思っている。


 僕は足を踏み出した。


「待って」


 が、直後、佐伯さんに呼び止められ、一歩足を出しただけに終わった。


「弓月くん、ずっとわたしを待ってたの?」

「ええ、まあ」

「たまたま何かの用でこの時間になっただけじゃなくて?」

「そうです。教室を一番に出て、ずっとここで待ってました」

「……」

「……」


 短い沈黙を経てから。


「変なの。だったら電話でもメールでもしてくればいいのに」

「それも考えたんですが、そういうツールを使わずに会えたらいいなと思ったんです」


 僕がそう言うと、佐伯さんはぷっと吹き出した。


「変なの」


 先と同じ台詞もう一度口にする。


「そんなに変ですか?」

「弓月くんって、もっと合理的で効率的にものを考える人だと思ってた」

「そういう部分があることも否定しませんよ。でも、基本的には無駄を愛する性格のつもりです」

「ふうん、そうなんだ」


 佐伯さんは可笑しそうに僕を見上げてくる。心の奥を覗かれているような、落ち着かない気分にさせられる視線だ。


「兎に角、帰りましょう」


 僕はその視線から逃げるようにして背を向け、歩き出した。すぐに佐伯さんも横に並び、ふたりそろって校門を出る。下校時間を完全に外れてしまったので、水の森の生徒の姿はなかった。


 しばらくの間、さっきまでの饒舌さが嘘みたいに黙って歩いた。


 やがて。


「弓月くんが言った通り、すごい美人……」


 佐伯さんがぽつりとこぼした。


「宝龍さんですか? そうですね。僕もそう思います。初めて見たときは驚きました」


 去年の四月、一年生最初の授業の日。彼女を見たときの衝撃は今でも忘れられない。もちろん、その彼女と後につき合うことになるとは、そのときは思いもしなかったわけだが。


「あんなきれいな人と、どうして別れたの?」

「……」


 言葉はすぐには出てこなかった。

 どう話したものか、どう切り出せばいいか、言葉を探す。


「僕と彼女は――」

「……話して、くれるんだ」


 言いかけたところで佐伯さんが割って入った。


「そのつもりです」

「どうして?」


 ――どうして?

 ――どうしてだろう。


「そうですね。佐伯さんには僕についてのいろんなことを知っておいてほしいと思ったからかもしれません。だから君が知りたいのなら、できるだけ話そうと」


 同居人なのだからお互いのことは知っておくべきだ――そんな建前を言うのは簡単だが、そういう誤魔化しはよそう。


 とは言え、今、彼女に面と向かって口にできるのは、これが精いっぱい。


「……」


 なのだが、さすがに何か反応をくれないと、こちらも困る。


「話を戻しましょう。……僕と宝龍さんは――」

「もういいよ」


 再び佐伯さんが僕の発音を遮った。


「弓月くん、なんか言いにくそうだから……いい」

「……」


 しっかりバレてるな。

 宝龍さんも言っていたか。佐伯さんは僕のことをよく見ている、と。


「でも、話してくれる気になったんだよね。じゃあ、今はそれだけでいい。それだけで嬉しいから。また今度話して」

「……わかりました」


 少しほっとした部分もあった。

 結局のところ、やはりあまり話したくない話題ではあったし、それを聞いた佐伯さんの反応が怖かったのだろう。


 佐伯さんのほうはというと、ご機嫌が麗しく回復されたようで、足取りも軽やかなものに変わっていた。やはり彼女はこうあるべきだ――その姿を見て、改めて思った。


 大きな交差点で、僕らは九十度折れる。


 信号は、ちょうど青。横断歩道を渡るとき、佐伯さんは白い部分だけを踏むようにして歩いていた。歩幅が合わなくて次第に大股になり、それでも間に合わなくなると、最後には跳ねるように渡った。


 彼女のほうが僕より三歩ほど早く渡り切った。

 その勢いで数歩進んでから、ぴょんと跳ねてこちらを振り返る。後からくる僕を迎えるように立ち止まった。


「ゴールデンウィークはどうするの?」


 佐伯さんは僕に聞く。


「僕はこの前言った通り、佐伯さんに合わせるつもりです。君は、親戚のところでしたっけ?」

「ううん、やめた。こっちにいようと思う」

「そうですか」


 なら僕もそうしようか。


「ねぇ」


 佐伯さんはそう切り出してから、一拍おいて。


「デートしようか、ゴールデンウィーク」

「……」


 さすがにちょっと面喰らう、唐突な提案だ。


 でも。


「いいですよ」


 まぁ、それも佐伯さんらしいと言えば佐伯さんらしい。


「ほんと!? やったぁ」


 彼女は嬉しそうに歓声を上げると、弾むような足取りで再び歩き出した。


 僕も後を追う。


 と、少ししてから佐伯さんはまたもこちらを振り返り、足を止めた。


「喉渇いちゃった。そのお茶ちょーだい」


 学校を出たときからずっと手に持っていたペットボトル。

 僕は思わずそれを見た。


「飲みかけですよ?」

「いいよ。わたしは気にしないから」


 佐伯さんは僕を試すような笑顔を向けてきた。


「そこまで言うならいいですよ。ぜんぶ飲み切ってくれたら、僕に被害はありません」

「被害ゆーなっ」


 むっとして言いながらも、彼女は僕の差し出したペットボトルを受け取った。キャップを外し、特に躊躇うこともなく口をつけた。こくこく、と小さな音を立て、喉の奥に流し込む。


「はい」


 そして、少し飲んでから、それを僕に突き出してきた。


「は?」

「もういい。返す」

「ぜんぶ飲んでください」

「いいの。もう十分飲んだから」

「……」


 突きつけられているのは、キャップの開いたペットボトル。果たして僕は何を求められているのだろう? これは試練か何かだろうか。


 佐伯さんを見ると、あの試すような笑顔があった。


「まったく……」


 返されてきたそれを受け取り、彼女がしたように僕も口をつけた。中身は気持ち程度にしか残っていなかったので、飲んでしまうのはひと口だった。


 それを待っていたかのように、佐伯さんが跳んで距離を詰めてきた。

 僕の腕を取り、自分の両腕を絡めてくる。


「さ、帰ろっ」


 僕がよろめくのもかまわず、腕を引っ張って歩き出す。


「ゴールデンウィーク、どこ行こっか? 楽しみだね」

「そうですね」


 どちらかというとまた何かトラブルがありそうな予感がしているけど、きっとそれも佐伯さんがいれば楽しいものになりそうな気がする。


 そうか。もうゴールデンウィークは目の前なのか。


 家にはテキトーに理由をつけて帰れないと連絡しておかないとな。

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