4.「君に理解できなくても、」

 表面上、

 特に変わらない日常が続いていた。





 起きるべき時間が近づき、浅くなった眠りの中で、僕は朝を感じる。

 やがてノックの音が聞こえ、


「グツモーニンッ、弓月くん」


 直後にドアの開く音と、佐伯さんの元気な声。


 僕がゆっくりと目をあけると、彼女の顔があった。僕の頭の両サイドに手をつき、真上から見下ろしている。


 真剣な表情。

 僕を真剣に見つめているというよりは、僕を見ながら何か考え込んでいるといった顔だ。


 瞼をあけた僕と目が合う。


 と、佐伯さんはまるで逃げるようにして笑顔を作った。


「おはよう、弓月くん。朝ごはんできてるよ」

「着替えたらすぐ行きます」

「うん、待ってる」


 そう言うと彼女はすぐにベッドから離れ、背中を見せて部屋を出て行った。


 残された僕の頭には、佐伯さんの逃げ遅れたみたいな真剣な表情が、いやに強くこびりついている。

 目をあけるとそこに佐伯さんの真顔があったことなんて、今までだって何度もあった(尤も、その意図ははかりかねるが)。でも、僕の心の中を覗こうと試みるような眼差しは、ここ最近のものだ。


「……」


 やはりきっかけは先日の言い合いか。

 しかし、彼女には悪いが、僕は去年の僕に何があったかなんて、佐伯さんに話す必要などないと考えている。





「今週末からゴールデンウィークですが、佐伯さん、連休中の予定は?」


 朝食にホットケーキを食べながら僕は尋ねた。


 そのとき、佐伯さんはちょうど食べている最中だったらしく、僕を見ながら目で返事をする意思を示しつつ、まずは食べることを優先した。いつもなら慌てて飲み込んで、すぐにでもしゃべり出す場面だ。


「まだ決めてないけど、叔父さんのとこに遊びに行こうかなって思ってる」


 口の中のものを嚥下して、返事。


 佐伯さんの叔父さんは、アメリカからひとり先に帰国した彼女がここに落ち着くまで、何かと世話を焼いてくれた人と聞いている。まぁ、その尽力も不動産屋の二重契約というオチなのだから、なんだか報われない。


「弓月くんは?」

「僕は佐伯さんの予定が決まってから考えようと思ってます」


 僕の選択肢も家に帰るか否か程度のものだ。佐伯さんの場合、親戚の家が遠く、行くなら新幹線にも乗るようなちょっとした旅行だが、僕は所詮は電車で二時間ほど。その気になればいつでも帰ることができる。……そう、別にむりに変える必要はない。


 故に、佐伯さんが連休中は学園都市にいるというのなら、僕もそうしようと思っていた。


「別にいいよ。わたしのことは気にしなくても」


 しかし、あっさりばっさり斬られてしまう。どこか素っ気なくも聞こえた。


「……まぁ、そう急いて決めることもないでしょう。週末までに考えればいいことです」

「ん。そだね」


 これっきりゴールデンウィークの話は終わり。この後もいくつかの話題について話をしたが、それは会話というよりはむしろ互いの予定の確認作業めいていた。





 食後、リビングでコーヒーを飲む。


 登校までにはまだまだ余裕がある。佐伯さんはというと、今日は雨など降りそうもない天気なので、登校前に洗濯をすませるのだといって、さっきから慌しく洗濯にいそしんでいる。


「佐伯さん、今日の帰りは遅くなりそうですか?」


 洗濯ものの入った籠を持って脱衣所から出てきた彼女をつかまえ、聞いてみる。


「さぁ? わかんない」


 しかし、まるで断ち切るようにして短くそれだけを言い、僕の横を通り過ぎてベランダへと出て行ってしまった。


「……」


 まぁ、放課後の予定なんて流動的だから、今わかるはずもないか。


 僕だって矢神と大型書店に行くこともあれば、滝沢とゲームセンタに繰り出すこともある。宝龍さんに屋上に呼び出される可能性だってあるだろう。

 バカなことを聞いた――そう思っていると、佐伯さんがベランダからひょっこり顔を出した。


「大丈夫。遅くなるようだったら連絡するから」

「わかりました」


 取ってつけたような会話だ。

 僕は残っていたコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がった。


「じゃあ、僕は先に行きます。後はお願いします」

「はーい。……あ、そうだ」


 と、一度は引っ込んだ佐伯さんの顔が再び。


「もし遅くなったら、弓月くん、洗濯もの取り込んどいてくれる?」

「いいですよ、それくらい」


 最初の役割分担により、洗濯に関しては僕は基本ノータッチとなっている。でも、必要ならいつでも交代もするしフォローする。そこに文句などひとつもない。


「女の子の下着を手に取るチャンス♪」

「あのですね……」

「きゃー、弓月くんが怒ったー」


 ひと睨みすると佐伯さんはベランダに姿を消した。僕はため息をひとつ吐いてから、登校の用意をする。


 表面的にはいつもと変わらない日常。

 でも。

 僕らの間には確実に溝ができていて、ことあるごとにそれを意識させられた。





 アパートを出ると、まずは駅に向かって歩くかたちになる。


 道路は片側二車線。中央分離帯があり、一車線辺りの間隔も路側帯も余裕を持って幅を取ってあるので、かなり大きな道路だ。

 今、僕が歩いている歩道もタイル敷きで幅が広く、真ん中には等間隔に街路樹まで植えられている。

 まるで何かのパンフレットに載っていそうな小奇麗な街並みだが、人通りや交通量が妙に少ない。そういう点でもやっぱりパンフレットの写真的なものを感じる。


 このままこの道を歩いて学園都市の駅に出るわけではなく、途中から水の森高校へと通じる道に入る。


 駅と学校を結ぶ道には、まだ比較的早い時間であるにも拘らず、水の森の制服を着た生徒の姿がちらほらと見かけられる。僕はその中に見慣れた猫背を見つけた。


「おはようございます、矢神」


 追いつき彼――矢神比呂に声をかける。


「あ、おはよう、弓月君」


 眼鏡の友人からは、ぼそぼそとした気の弱そうな返事が返ってきた。普段から彼はそういう傾向にあるが、しかし、今日はその平均よりもいくぶんか下回っているように思えた。


「どうしたんですか、元気がないようですが」

「ちょっとね、実は朝方まで原稿を書いてて」

「あぁ、なるほど」


 合点がいった。

 矢神はこう見えてもプロの小説家だ。またどこかの文芸雑誌から短編でも依頼されているのだろう。


「半分徹夜になったわりには、あまり書けなくて……」


 それはまた報われない。


「スランプですか?」

「どうだろう。安易にそういう言葉に逃げたくはない、かな」


 弱々しく笑うが、言葉とは裏腹に内面の強さを感じさせる言葉だ。


 決定的に睡眠が不足している矢神が気だるそうなこともあって、僕らはしばし黙って歩を進めた。が、程なくして矢神が口を開く。


「弓月君のほうこそ浮かない顔をしてるみたいだけど、何かあったの?」


 そう聞いてくるが、僕にはその自覚がなかった。

 だが、或いは、と思わなくもない。矢神は人を思いやれる人間であり、そういう方面での機微に鋭い。その彼が言うのだから、僕は本当に浮かない顔をしているのだろう。


 いったいなぜ、という自問は必要ないか。


「ちょっと気になってることがありまして。矢神が原稿の進み具合に悩んでるように、僕にも悩みごとがあるんです」


 そう誤魔化したところでちょうど学校に到着した。

 矢神も今ここで僕の抱える悩みを詮索するつもりはないらしく、それ以上のことは聞いてこなかった。


 下駄箱が立ち並ぶ昇降口で、学校指定の革靴から上履きへと履き替える。


「あ、弓月さんだ。おーい」


 不意の呼び声。


 声のしたほうへ目をやれば、佐伯さんのクラスメイト、桜井さんが癖っ毛のショートヘアを揺らし、小走りに駆け寄ってくるところだった。


「おはようございます。弓月さん、矢神さん」


 桜井さんは僕らの前で足をそろえて止まり、お辞儀をした。


「おはようございます、桜井さん」

「おはよう」

「弓月さんって、いつもこの時間なんですか?」


 登校が、という意味らしい。


「いや、テキトーです。家が近いですからね。早いときもあれば、遅いときもあります」


 唯一考えるべきファクタは、佐伯さんと登校時間をずらすことだ。


「いいなぁ、近いって。しかも、ひとり暮らし。……今度遊びにいっていいですか?」

「まぁ、そのうちにね」


 どうにも危機感の希薄な子だ。ある意味佐伯さんと似たもの同士かもしれない。


「あ、そうだ、桜井さん。ちょっと聞きたいことがあるんですが、少しだけいいですか?」

「はい? 何ですか?」

「弓月君、僕、先に行ってるから」


 気を遣ってくれたらしい矢神はそう言い、ひと足先に教室に向かった。


 僕は、目立つところでの立ち話も何だと思い、桜井さんを促して隅のほうに場所を移す。あまり人に見られたくない。早くすませよう。


「桜井さん」


 と振り返って、僕は驚いた。彼女がやけに近い位置に立っていたからだ。ほとんど僕が見下ろしているような構図。両腕を回せば抱きしめてしまえそうだ。

 話すときの距離が妙に近いのは、桜井さんの癖みたいなものらしい。


「えっと、最近の佐伯さんって、学校ではどんな様子ですか?」


 僕は気を取り直して切り出した。


 桜井さんは一瞬きょとんとした表情を見せた後、今度はじっと僕の顔を見つめてきた。


「もしかして弓月さんって、キリカのこと気になってるんですか?」

「少しね……って、いや、そういう意味じゃなくて」


 なにやら誤解を与えてしまったようだ。


「ふぅん」


 まぁ、いいですけどね――と言った後、桜井さんは次句を継いだ。


「それにしても変な聞き方するんですね」


 それから彼女はくすりと笑い、すっと一歩後ろに下がった。会話をするのに適度な間隔があけられた。


「変ですか?」

「こういう場合って、『彼氏がいるかどうか知らない?』とか、『俺のこと何か言ってなかった?』とか聞きません」

「……」


『俺』とか言って喋っているのは、いったいどこの誰なのだろうか。というか、やっぱり大きな誤解があるようだ。少し頭が痛い。


「それに関してはまた改めて聞かせてもらうことにして」


 気にならなくもない事項ではある。特に、学校で余計なことを話していないか、とかだが。


「教室でのキリカ、ですか……?」


 桜井さんはようやく答えてくれる気になったようだ。右手の小指を顎にあて、考える。


「わたしが見る限りじゃいつも通り、かな? 相変わらずかわいいけど、ひかえめでおしとやかで……」


 その時点で僕から見たら異常事態なのだが、今は置いておくことにしよう。


「先週だったかな、ケータイ買って――あ、これが黒なんですけどね。で、嬉しそうにニコニコしてたり。……うぅん、それくらいかなぁ」

「そうですか」

「あ」


 と、桜井さんが声を上げた。


「そういえば、二、三日前くらいから時々浮かない顔してることがありますね」

「……」


 浮かない顔、ね。

 ついさっき僕が矢神に指摘されたのと同じというわけだ。


「ここで悩みを聞いてあげて、キリカポイントアップ! ……なぁんて、ちょっと自分に不利になるようなことを助言してみたり?」


 えへ、と笑う桜井さん。


 佐伯さんが何を思い悩んでいるかなんて、聞かなくたってわかるさ。


「ありがとうございます、桜井さん」

「え? あ、ちょっと、弓月さん!? あぁん、もうっ」


 僕は桜井さんに礼を言ってから、踵を返した。彼女の地団駄でも踏みそうな抗議の声を背中で聞きながら教室へと足を向ける。


「何をやっているんだ、僕は」


 僕の態度が佐伯さんの傷つけてしまったことなんて、端からわかっていたことだ。要するに、それを確認しただけじゃないか。


 自己嫌悪。

 そして、袋小路。


 話が僕だけのことなら、いくらで話してやれるのだが……。





 その日の昼休み。


 教室で矢神と一緒に昼食を食べ終えた後、僕は自分の席で弁当箱を片づける。


 この弁当箱は佐伯さんが選んだものだ。それを包む小風呂敷も。そして、中身も当然今朝彼女が詰めたもの。ある意味でこの弁当箱というのは佐伯さんの趣味の塊と言える。


 ――現状を何とかしないとな。


 弁当箱を見つめながら思う。


 そして、僕の足は自然と宝龍さんの席に向かっていた。ただ何となく彼女と話がしたいと思った。


 が、しかし、その足も宝龍さんの席に辿り着く前に止まってしまうことになる。そこに主がいなかったのだ。いるのは数人の女子生徒。さっきまで彼女たちに囲まれて、宝龍さんも一緒に弁当を食べていたと思ったのだが。


「なに、弓月くん。宝龍さんに何か用?」


 そんな言葉を投げかけてきたのは、雀さんだ。彼女は半眼を釣り上げるという、実に器用な目つきで僕を睨んでいる。


 他の女の子たちは苦笑気味。雀さんの弓月恭嗣嫌いは皆もよく知るところなのだ。少し前ならここにいる全員から冷たい目で見られていたが、今ではそういうことはほとんどなくなった。僕と宝龍さんが時々何ごともなかったかのように雑談をしているのは誰もが目にしている。あの出来事もすでに過去のものになりつつあるのだろう。雀さんのように怒りの火を燃やし続けているほうが珍しい。


「彼女にちょっと用がありまして。どこに行ったか知りませんか?」

「さぁ?」


 と、冷たい感じで雀さん。


「さっき黙って教室から出ていったわ」


 でも、すぐに不承不承言葉を付け足した。

 雀さんは根っからの委員長タイプで、相手が嫌いだからといって嘘を吐いたり、知っていることを隠したりといったことはできない。少々融通のきかないところもあるが、それも含めて愛すべき人柄だろう。


 雀さんの言葉を聞いた僕は、あぁ、と納得した。


 孤独病だ。


 宝龍さんは急に独りになりたくなって、ふらっと出て行ったのだろう。なら行き先はいくつもない。


「わかりました。こちらから行ってみます」

「ちょっと弓月くん、あなたねぇ。少しは察しなさいよ」

「え? ……あぁ」


 おそらく雀さんは、宝龍さんがトイレに行ったと思っているのだろう。僕だってそこまで無神経ではないつもりだ。


「違いますよ。たぶん宝龍さんはそこじゃないです」

「……どこに行ったかわかっているような言い方」

「単に心当たりをいくつか知っているだけです」


 上手くすれば最初の候補で当たりを引くかもしれない。


「さすがによく知ってるのね」


 雀さんは忌々しげに言うと、ふん、と鼻を鳴らして、もう話すことはないとばかりにクラスメイトとのおしゃべりに戻った。


 僕は相変わらずな雀さんの態度に苦笑しつつ、その場を後にした。


「屋上かな、やっぱり」


 教室を出て、最も確率の高そうな場所を目指す。


 階段を上がって三階へ。一年生の教室が集まる場所だ。周りにこちらを注視している生徒がいないのを確認してから、さらに階段を上がった。

 屋上へと出る鉄扉のノブを握ると。


「……当たり」


 それはすんなりと回り、開いた。


 鉄扉をくぐって青空の下に出、宝龍さんの姿を捜す。この学校では屋上に出るのは禁止されているし、開放もされていない。なのでグラウンドや他の校舎からここにいるのを見られるわけにはいかない。となると、おのずと立てる場所は限られてくる。


 ――いた。


 彼女はグラウンドとは反対側のフェンスにもたれて立っていた。学校の敷地外からしか見つかることのないポイントだ。


 宝龍さんはすでにこちらを認めていた。僕がこの屋上に出てきたときから気づいていたのだろう。


「珍しい。恭嗣がこんなところにくるなんて」


 温度の低い声と、睨むような目つき。かと言って、別に怒っているわけではなく、これが宝龍美ゆきのデフォルトだ。


「迷惑でしたか?」

「今は大丈夫」


 因みに、迷惑なときは本当に「迷惑。帰って」と言われるから恐ろしい。


 僕は宝龍さんの横に並んで立った。ただし、彼女が内向きにフェンスにもたれて立っているのに対して、僕は外向き。街の風景を眺めている構図だ。


 この方向だと学園都市の駅が見える。視界に横たわっているのは、線路を乗せた高架橋だ。学園都市を貫く路線は高速鉄道なので、高速道路の如くこの高架橋の上を走っている。おかげで街に踏み切りというものはない。駅の周りはショッピングセンターと高層マンション。典型的な新興住宅地のデザインだ。


「こうしていると思い出すわ」


 宝龍さんが懐かしそうに話を切り出した。


「何をですか?」

「ふたりで授業をサボって、人には言えないようなことを――」

「すみません。思い出す以前に、そんな記憶がないのですが」

「……」


 宝龍さんは黙り込む。


「……」

「……冗談よ」

「……」


 嫌な冗談だ。ここにきたのは間違いだったかもしれない。


「その冗談、ほかでは言わないでくださいよ」

「そうね。彼女が聞いたら誤解しそう」


 宝龍さんはくすりと笑った。


「佐伯さんは関係ないでしょう」

「ええ、関係ないわね。私も彼女の名前を出した覚えはないもの」

「……すごく帰りたくなりました」


 ここのところ急速にこの手の冗談が増えている気がする。いったい何なのだろう。からかわれているのか?


「帰るのなら止めないけど、何か相談があってきたのではなくて?」

「相談……」


 相談、か。何を相談すればよいのやら。


「違った?」

「いえ。でも、僕自身よくわかっていないので」

「じゃあ、今感じてる素直な気持ちは?」


 そう言われて僕はしばし考える。


 そして。


「……女の子は難しいですね」


 つくづくそう思う。

 僕に過去彼女がいたと知って動揺するし、僕が彼女を振ふるかたちで別れたと言ったら信じないし。挙げ句、その経緯に何か事情があると信じているふうで、別れた理由を知りたがる。


 そういったことを僕は宝龍さんに吐露した。


「わりと簡単な話ね。恭嗣が前にどんな子とつき合っていたか、あの子が気にするのも当然じゃないかしら」


 彼女はさらりと言ってのけた。


「そうですか?」

「わかってるんでしょ」


 じろりと睨まれた。


 これに関してはノーコメント。


「そうね。あの子が昔、男とつき合っていたとして、それがどんな相手だったか恭嗣は気にならない?」

「……別に」


 僕は努めて平坦な声で返した。


「僕がそんなことを気にすると思いますか? あなたとつき合っていたときだって――」

「私の一切に関心がないのは当然ね」


 宝龍さんはぴしゃりと言って、僕の言葉を遮った。


「それでも私の場合とは少しくらい違うと思ったのだけど?」

「……」

「パス2ね」


 そう言って僕の心を見透かしたように笑った。こういうときにやっぱり彼女は年上だと感じる。


「さて、そろそろ中に入るわ」

「もうですか?」

「私がここにきて十三分から十七分が経ったわ。もう充分。戻りながら話しましょ」


 宝龍さんは言うが早く歩き出した。僕も遅れて足を踏み出し、唯一無二の出入り口である鉄扉へと向かう。


「それにしても、あの子は恭嗣のことをよく見てるわね」

「どうでしょうね」

「恭嗣の言ったことを信じなかったんでしょう? それこそが証拠だわ。よくわかってる。勝手な憶測とイメージだけで噂を広めて鵜呑みにするような連中とは大違い」


 言葉の後半には軽蔑の響きが含まれていた。


 鉄扉は宝龍さんが開け、そのまま僕のために道をあけてくれた。


「ありがとうございます」


 僕はひと言言ってから、先に階段部屋へと入る。


 と、そこに思いがけない人物がいた。


「佐伯さん……」


 三階へと下りる階段の踊り場に彼女は立っていた。その顔に浮かんでいるのは、申し訳なさそうな、戸惑いの表情。


「あ、あのね、お京が上に上がっていく弓月くんを見たって言うから――」

「あら」


 それを遮ったのは宝龍さんの声だった。彼女は遅れて僕の横に立った。


 佐伯さんが驚いた顔で、僕と宝龍さんの顔を交互に見る。


 そして、

「その人、なの? 弓月くんが前につき合ってたっていう人」

「ええ、そうです」


 さすがにひと目でわかったようだ。


 僕は質問に答えながら階段を下りた。踊り場で佐伯さんと相対する。宝龍さんが三段ほど上からそれを眺める構図だ。


「弓月くん、もう別れたって言ってなかった……?」


 戸惑いの色を濃くしながら、ちらちらと宝龍さんのほうを窺い、僕に確かめる。


「言いましたね。実際、別れましたよ。去年の十二月だったか」

「クリスマスの前ね」


 宝龍さんが補足を加える。


 佐伯さんがむっとしたような顔を見せた。


「それにしては仲がいい感じ。こんなところにふたりきりで」

「言わなかったかもしれませんが、彼女とはクラスメイトです。話くらいはしますよ」

「だからって……」


 佐伯さんの語調が少しずつ弱くなっていく。


「別れたらそれきり話もしてはいけないというわけではないでしょう」。


 僕の言葉に佐伯さんは口をつぐむ。が、それでもどこか何か言いたげだ。


「君に理解できなくても、これが僕のスタイルです」

「恭嗣」


 宝龍さんの声に、僕は彼女のほうに目を向ける。視界の隅では佐伯さんもはっとして顔を上げていた。僕を呼んだ宝龍さんはそれきり何も発音せず、視線だけで語りかけてきた。


 言いたいことは何となくわかる。

 彼女は前にも言っていた。もうやめたほうがいい、と。しかし、正直なところ、あんな莫迦な話を本当に語って聞かすべきなのか、僕は判断に迷っていた。


「弓月くんのこと、名前で呼んでるんですね」


 僕が決心し切れずにいると、先に佐伯さんが口を開いた。彼女は挑むような意志の強い目つきで、宝龍さんを見上げている。


「気に障ったのなら謝るわ。つき合っていたときからの惰性なの」

「……」


 さすがというべきか、どう見ても謝りそうにない態度だった。しかも、ひとり高い場所にいるし。


「別に何とも思ってません。ただ……」


 と、そこで佐伯さんは一拍おいた。


「わたし、弓月くんと同棲してます」

「は?」


 間の抜けた声を上げたのは僕だ。何でこのタイミングで――と思ってしまうような、一見して唐突に見える発言だった。しかし、佐伯さんにとってはある種の切り札だったのかもしれない。


「恭嗣」


 宝龍さんが再びこちらを見た。僕を咎めるような表情。それから佐伯さんに向き直り、小さなため息とともに告げる。


「知ってるわ」

「……え?」


 この返事は予想外だったらしい。佐伯さんは虚を突かれたような顔をしている。


「前に恭嗣から聞いてるの」

「そんな……」


 佐伯さんがゆっくりと僕を見る。


「どうして……? わたし、一緒に住んでるのって誰にも内緒だと思ってた」

「まぁ、そうですね」


 やむを得ないことで、一時的な措置ではあっても、あまりおおっぴらにはできないことだ。


「だからこそ何かあったときのため、事情を知ってる人がいたほうがいいと思い、彼女には話しておきました」

「何よそれ。そんなの聞いてないっ。わたしは弓月くんとふたりだけの秘密だと思ってた。子どもみたいって笑われるかもしれないけど、それが楽しかった。大事だった。それなのに……!」


 佐伯さんは言葉を詰まらせる。


「それなのに弓月くん、とっくに喋っちゃってるし。相手は前の彼女だって言うし。しかも、別れたわりには、まだ仲がいいみたいだし。わたしには昔のことはぜんぜん話してくれなくて――」


 が、そこからは堰を切ったように溢れ出した。


「もうわけがわかんない!」


 そして、最後に叩きつけるようにそう言うと、駆け出し、階段を下りていった。


 僕は追いかけることもできず、その後ろ姿を見送る。


「……恭嗣」

「……」

「女の子の扱いが下手ね」

「否定はしませんよ。どこかの誰かさんとはそんなことを気にするようなつき合い方をしませんでしたからね」


 宝龍さんに同居の件を話しておいたのが裏目に出たか。


 いや。

 原因はもっと別の場所か。


 まったく。いつの間にこんなことになったのだろうな。

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