5.「今日は学食ですね」

 その日の朝はいつもと違っていた。


 佐伯さんがドアを蹴破らん勢いで部屋に飛び込んできたのを、僕はまどろみの中で知覚した。


「弓月くん、起きて起きてっ」


 彼女は乱暴に僕の体を揺さぶった。


「……何ですか、騒々しい」

「えっとね、時間がすごいことになってるのっ」

「……」


 僕は佐伯さんをゆっくりと押しのけ、上体を起こした。ベッドの宮に置いた目覚まし時計を手に取る。


「……あぁ」


 確かにいつもよりずいぶんと遅い時間だった。


「あぁ、じゃなくてッ。何でそんなに呑気なのっ」

「無駄に慌てても仕方ないと思ってるだけです。ちゃんと急ぎますよ」


 体にからむかけ布団を剥ぎ取り、足をベッドから下ろした。


「じゃあ、朝ごはんは簡単なものになるけど、ちゃんと作っておくから」


 佐伯さんは小走りに部屋の出入り口へと駆けていった。が、その足がドアの前で止まる。そして、再び振り返った。


「ごめんね、弓月くん」

「何がですか?」

「その、寝坊しちゃったこと……」


 あぁ、そのことか。


「僕もすっかり油断してましたから。佐伯さんだけが悪いわけじゃないです」


 僕自身、昨夜遅くまで起きていたこともあるし、ここのところ佐伯さん任せになっていたことも原因だろう。新生活に慣れてきて、気が緩んでいるのかもしれない。


「それよりも朝食をお願いします。着替えたらすぐに行きますので」

「あ、うん。わかった」


 佐伯さんは少し心を軽くした様子で、今度こそ部屋を出て行った。


 僕も手早く着替えをすませ、自室からリビングへと出た。キッチンでは佐伯さんが何やら作っているようだったが、僕は先に洗面所へ向かった。


 目覚めてからあまり時間をかけずに体を動かしはじめたから、少し頭がふらふらしていた。その頭を冷たい水でむりやり稼動状態へと持っていく。


 そうしてから僕はリビングへと戻った。


「ごめーん、弓月くん。やっぱりたいしたものできなかった……」


 ダイニングのテーブルに用意されていたものは、昨日たまたま買っていた調理パン数種類と、生ハムとレタスのサラダ。それにポタージュスープだった。ポタージュはお湯を注いで出来上がりというインスタントのものではなくて、鍋に入れて火をかけるレトルトタイプのものだ。


「充分ですよ。いただきましょう」

「あ、バタバタしてたから、まだ窓も開けてなかった」


 さぁ今から食べようかという段になって、佐伯さんがリビングの全面窓に向かって駆け出した。


 確かに室内の空気が澱んでいるように感じる。カーテンを開けただけで、窓までは開けていなかったらしい。しかし、だからと言ってこんな逼迫した状況のときにやることはないだろうと思うのだが。


 佐伯さんが窓を開けた。


 途端に吹き込む朝の風。


「きゃっ」


 その風は彼女の短いスカートを巻き上げながら、室内へと流れた。咄嗟に裾を押さえる佐伯さん。その動きは賞賛に値する速さだった。


 ばっ、と彼女は弾かれたようにこちらに振り返った。


 目が合う。


「……見た?」

「……」

「……」


 僕は言葉を探した。


「すみません。少し……」


 思えば問われてすぐに嘘で返せなかった時点で、僕には正直に答えて謝るという選択肢しか残されていなかったと言える。


 なお、佐伯さんはまだいつもの黒いストッキングを穿いていない。


「……」

「……」


 おもむろに佐伯さんが、がっくりと床に崩れ落ちた。どうやらかなりショックを受けているようだった。


「もう少し大人っぽいの穿いとけばよかった……」

「……」


 そっちなのか。


 だいたいそんなこと言ってたら、嘆き崩れてるその座り方だって、大胆に太ももが露わになって十分に艶かしいのだが。


 と、不意に彼女は顔を上げ、


「手持ちでいちばんのエロかわなやつでやり直していい?」

「よくないです」


 僕はきっぱりと断る。


「そもそもそんな悠長なことをやってる時間はないはずですよ」

「あ、そうだったッ」


 はっと気づいて、飛び跳ねるようにして立ち上がる佐伯さん。再びダイニングにパタパタと戻ってきて、ようやくテーブルに着いた。


 いつもより遅い朝食。

 急いでいることもあって会話はなかった。


「あ」


 しかし、不意に何かを思い出したように佐伯さんが声を上げた。


「お弁当どうしよう?」

「さすがにむりでしょう」


 改めて壁の掛け時計を見る。このまま朝食を終えてすぐに家を出れば、走らなくとも学校には間に合うだろうという時間だ。彼女とは少し時間をずらして登校する僕は、多少走ることになりそうだが。


 弁当を作っている時間などないのは一目瞭然だ。


「今日は学食ですね。たまにはいいでしょう」

「学食かぁ。わたし、学食はちょくちょく行ってるけど、まだお昼は食べたことないなぁ」


 佐伯さんはポタージュの入ったマグカップを両手で包み込むようにして持ちながら、未知の領域に思いを馳せていた。


「そっか、学食かぁ」


 そして、もう一度、何かに期待するような調子で繰り返した。





 朝は起床からバタバタしたものの、何とか遅刻にならずにすみ――午前中の授業もつつがなく終了。


 そして、昼休み。


「滝沢」


 四時間目が終わると僕は真っ先に滝沢に声をかけた。

「今日も学食ですよね? 一緒に行っていいですか?」

「もちろんだ。突っぱねる理由はないよ」


 滝沢は笑みを見せながら同行を快諾してくれた。


 さっそく彼と並んで教室を出た。いつも教室で一緒に弁当を食べている矢神には、今日は学食に行く旨をすでに前の休み時間に伝えている。


「なんだ、今日は弁当を忘れたのか」

「朝、起きるのが遅くなりまして。作っている時間がなかったんですよ」


 嘘と本当が半分ずつ。弁当を作るのは僕の役目ではない。


「そう言えば今朝はギリギリの登校だったな」

「そういうことです」

「というか、ひとり暮らしなのに自分のために弁当を作るほうがどうかしてる。前にひとり暮らしが決まったとき、二年になったら学食通いだとか言ってなかったか」

「気が変わったんですよ」


 確かにそんなことを言っていたころもあったし、当時はそのつもりだった。まさか同じ学校に通う女の子のお手製の弁当を食べることになろうとは思いもよらなかった。


「どんな気の変わり方だ」

「そうですね。自分で料理をするようになって、その楽しみに目覚めたと思ってください」


 しかし、滝沢はそれを聞いて、鼻で笑っただけだった。料理に凝りだしたという僕が可笑しいのか、僕の言葉自体を信じていないのか、判じがたいところだ。


 他愛もない話をしているうちに、学食へと辿り着いた。


 毎日ここに通っている滝沢は、迷うことなくランチのコーナーへ足を向けた。あれこれ考えずに日替わりランチに決めているのだろう。僕もその後についていくことにした。

 それぞれランチを注文し、トレイを持って戻ってきた。向かい合わせでテーブルに着く。特に真剣に話すようなテーマもなく、もっぱら会話は世間話だった。


「あ、滝沢さんだ」


 と、そこに聞き慣れた涼やかな声音。


 見上げてみれば、そこにいたのは佐伯さんと、先日のクラブ勧誘会のときにも見た彼女の友人だった。ふたりともやはりトレイを持っている。


 どうしてここに――と言いかけて、その愚かしい問いを飲み込んだ。そして、こういう状況になることを朝のうちに気づかなかった自分を呪う。わかっていればもっと遅い時間にここにきたのに。


「先日はお世話になりました」

「と言われても、当の矢神がいないんだがな」


 滝沢は微苦笑する。


「お昼ご一緒してもいいですか?」

「うん? それはかまわないが」

「よかったぁ。じゃあ、お言葉に甘えて」


 彼女たちは「よかったね」などと言い合って、さっそく席に着いた。滝沢の隣に佐伯さん、僕の隣には彼女の友人が座った。つまり、僕の斜め前に佐伯さんがいるわけだ。……なぜわざわざ僕の視界に入るのか、佐伯さんは。尤も、隣なら隣でそれもやりにくかっただろうと思うが。


「あ、わたし、桜井京子と言います。キリカのことは有名だから知ってますよね?」


 佐伯さんの友人が名乗った。五十音で並べたとき、佐伯さんと近い。おそらく出席番号も前後になっていて、高校入学後最初の友人になったのではないだろうか。去年の僕と矢神がそうだった。


「お京って呼んであげてください」

「もうっ」


 横から飛んできた佐伯さんの茶々に、桜井さんが口を尖らせた。


「桜井くんか。覚えておこう」


 滝沢は上級生らしい余裕のある笑みで応えた。


 ところで、佐伯さんの前には当然のようにランチの乗ったトレイが置かれているが、桜井さんの前にあるのは見た目もサイズもかわいらしい弁当箱だった。


「見たところ、佐伯くんは学食派、桜井くんは弁当を持ってそのつき合い、といったところかな」

「いえ、わたしも普段はお弁当を持ってきてるんです」


 佐伯さんが恥ずかしそうに返す。


「でも、今日はちょっと寝坊しちゃいまして」

「なるほど」


 滝沢は嫌味にならない程度に笑う。彼はこういうところがそつがないというか、上手いと思う。


「それは面白いな」

「わたしが遅刻しかけたからですか?」


 佐伯さんはあざとくならない程度にかわいらしく頬を膨らませてみせる。


「そうではないよ。実はここにいる弓月も、今日は危うく遅刻というような時間に登校してきてね。普段は弁当なのに、こうして学食で食べているわけだ」

「そうなんですか? わぁ、奇遇ですね」

「……ええ、確かに奇遇です」


 僕は曖昧に笑う。


 なんと不毛な会話だろうか。確かに彼女に微笑みかけられたら、遅刻仲間という不名誉な共通項も名誉なことのように思えてくる。しかし、それも僕らの間ではただただ白々しいだけだ。


「察するに、佐伯くんはひとり暮らしかな」

「鋭いですね。でも、実は男の人と同棲してたりして」

「ッ!?」


 横で聞いていて卒倒しそうになった。何を言い出すんだ、佐伯さんは。


「うん? それは聞き捨てならないな」

「不動産屋さんの手違いみたいです。二重契約で。入居する日になって初めてわかったんです。でも、相手の人がちょっと素敵な人で、お互い事情もあったし、そのままルームシェアすることに……」

「……」


 よりによって大部分で事実を語るか。


「どうした、弓月。まさかそんな冗談を真に受けたんじゃないだろうな」

「それこそまさかですよ」


 そう言っている僕の斜め前では、佐伯さんが稚気たっぷりな笑みを浮かべているのだが。

「キリカってその話ばっかり」

「いいじゃない」


 ほかでも言っているのか。勘弁してくれ。


「佐伯さん、そういう冗談はあまり言わないほうがいいですね。変な噂が立つし、噂はすぐにひとり歩きをしますから」

「はぁい……」


 佐伯さんは舌を出し、肩をすくめた。少しは反省してくれたらいいが――と、僕は心の中でため息を吐く。噂のひとり歩きはなかなか馬鹿にできないものだ。僕の気持ちは少しだけ過去を振り返っていた。


 と、そのときだった。


「弓月くん、そのおろしトンカツ、ひと切れちょーだい」

「何を甘えたことを。自分のがあるでしょう」


 テーブルの対岸から伸びてきた佐伯さんの箸を、しかし、僕はすかさず皿を引くことでかわした。


「だって、美味しいんだもん」

「だからと言って、人のを取るものじゃありません」

「むー」


 トンカツの奪取に失敗した佐伯さんは、箸の先を下唇に当てながら不満げに唸った。


「……弓月」


 と、横から滝沢。


「はい?」

「仲がいいな」

「……」


 ああ、やられた。


 自分の迂闊さに自害したくなった。これでは普段と同じ調子ではないか。だいたい滝沢が『さん』で、僕が『くん』の時点でおかしいだろうに。


 見れば滝沢は疑わしげな目を僕に向け――やはり突然のことに固まっていたふうの桜井さんは、急に顔をぱあっと明るくさせた。


「弓月さんっていつも黙ってるから、もっと怖い人かと思ってました。ほんとは面白い人だったんですねっ」


 彼女は両の掌を合わせて感激を表現する。


 それはどうだろう。少なくとも自分で自分を面白いと評価したことはないのだが。

 しかし、桜井さんはどうやら僕に興味を持ってしまったらしく、隣の席からぐっと体を寄せてくる。


「弓月さん、ひとり暮らしって本当なんですか?」

「ええ、まぁ」

「いいなぁ。弓月さんといい、キリカといい。わたしもひとり暮らししてみたいなぁ」


 桜井さんはもとの位置に戻って、天井に目をやった。


「大変ですよ」

「そうなんですか?」

「……と思います」


 考えてみれば、僕もその大変さを知らなかった。別の大変さは知っている。主に家族でもない同年代の女の子と一緒に生活する大変さではあるが。


「じゃあ、今度遊びに行ってもいいですかっ?」

「いや、それはやめたほうがいいです」


 その危機感のなさに警鐘を鳴らしたいが、それ以上に佐伯さんと一緒に住んでいることを知られるわけにはいかない。


 僕の目は自然と佐伯さんに向いていた。が、彼女の顔にいつもの笑顔はなく、ひどくつまらなさそうにこちらを見ていた。


「残念。じゃあ――」


 と、再び桜井さんは体を寄せてくる。話すときの距離が近いのは、彼女の癖なのだろうか。うっかりすると抱きしめてしまいそうになるのだが。


「アドレス教えてくださいっ。交換しましょう」

「それは……」


 あまりお勧めできない行為だ。僕がそれをどうかわそうか考えていると、そこに口を挟んできたのは、向かいからこちらの様子を見ていた佐伯さんだった。


「お京」


 呼びかけると同時に、彼女は立ち上がっていた。


「食べ終わったんだったら帰ろ」

「おれ、早くない? まだ時間あるよ?」


 桜井さんは学食内の壁掛け時計を確認してから言い返す。


「次、英語でしょ? わたし、たぶん当てられると思うし、和訳はちょっと自信がないから。予習しとかないと」

「あ、そうなんだ。じゃあ、キリカ先に帰ってて。わたしはせっかくだから、もう少し先輩たちと話してくから」

「お京も帰るの」

「え、なんで?」


 至極当然な疑問だ。


「なんでって……」


 しかし、対する佐伯さんからは明確な理由の回答はなかった。代わりに一度だけちらと僕のほうを見た。


 そして。


「もういい」


 ぼすん、と再び腰を下ろした。


「あれ、帰らないの?」

「だから、もういい」


 佐伯さんは不貞腐れるように、そっぽを向いてしまった。


「……」


 やれやれ。こんな展開になるなんて思いもよらなかった。想定外だ。何の冗談だろうか。勘弁してくれ。……まぁ、ここいらが潮時かもしれない。


「滝沢、そろそろ教室に戻りましょう」

「うん? そうか。お前がそう言うなら、そうしよう」


 僕と滝沢は立ち上がった。


「えぇー。もう帰るんですかぁ」


 嘆く桜井さん。その横では佐伯さんがじっとこちらを見上げていた。が、その顔が不意に何かを思いついたように輝いた。


「あ、そうだ、滝沢さん。今度教室に遊びに行ってもいいですか?」


 これまた僕の欲しないところを……。


 滝沢が僕を見る。意見を求めているようだ。が、聞かれているのは滝沢であって、僕ではない。よって、僕は「さぁ?」の意味を込めて、肩をすくめた。好きにすればいい。


「いいんじゃないかな。でも、いつもいるとは限らないよ。俺も、弓月も」


 それが滝沢の返事だった。


 そうして僕らは佐伯さんたちと別れた。

 十分距離が離れたのを確認してから、食器返却口の前で滝沢が口を開いた。


「本当はお前が目当てなんじゃないか、弓月君」

「……」


 弓月君言うな。


「……気のせいでしょう」


 そうあって欲しい。


 それにしても着実に僕の学校生活が侵食されつつあるのではないだろうか。誰か僕に「気のせいです」と言ってくれないだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます