3.「僕が彼女を振ったんです」
朝だった。
「グッモーニンッ、弓月くん!」
朝はいつも、同居人である佐伯貴理華が起こしにくる。
これを爽やかな朝だと思うか思わないかは個人差があるだろう。どうやら僕は意外に気に入っているらしい。
重い瞼を開けると、いつものように佐伯さんの顔があった。僕を見下ろしている。ひと声かけた後、僕が目を覚ますのを待っていたようだ。
「……おはようございます、佐伯さん」
「うん、おはよう」
彼女は笑顔を見せて返してきた。
「朝ごはんできてるよ。すぐにきて」
そう言うとベッドから離れ、ご機嫌な様子で部屋を出ていった。僕の返事を聞いただけで安心しているようだ。しかし、残念ながら今日の僕は意識が完全に覚醒しきるまでに、いつもより時間を要した。ざっと十分くらい。
それから着替えてリビングへ出ると、ショートパンツのラフな部屋着の上からエプロンをつけた佐伯さんが、目を三角にして仁王立ちしていた。
「トゥ・レイッ(遅いっ)!」
そんな彼女の声から逃げるように洗面所に行き、顔を洗った。
鏡を覗くと眠そうな僕の顔があった。尤も、眠そうな半眼についてはデフォルトで、それでも普段ならもう少ししゃんとしているのだが、今はその欠片もない。
眠気覚ましにもう一度顔を洗ってからリビングに戻った。
「遅い。何やってたのっ」
そこに飛んでくる追撃。
「昨日は少し遅くまで勉強してたんですよ。その反動です」
言い訳を口にしながらテーブルにつく。朝食は和風だ。名づけるなら焼き魚定食といったところだろう。
「まっじめー」
「僕はそんなに頭がいいほうではありませんから。佐伯さんは?」
「わたし? わたしの学力、知らない?」
佐伯さんは逆に聞き返してきた。
「知りませんよ。知るわけないでしょう」
「あ、そうなんだ。ま、そういうこともあるか」
僕の返事も当然のものだと思うのだが、なぜか彼女は虚を突かれたような反応だった。しかし、その後、自らを納得させ、何ごともなかったように朝食を食べはじめた。
「じゃあ、先に出るね」
きっちりと水の森高校の制服に身を包んだ佐伯さんは、そう断ってからリビングを出ていった。
が、すぐにまたひょっこりと顔を出す。
「あ、そうだ。もし学校で弓月くんと会ったらどうしたらいい?」
「無視してください、僕のことは」
それが僕の回答。
僕は女の子に優しくできない人間だ。ならば近づかないほうがいい。僕と知り合いであることに何のメリットもないのだから。
問題は果たして佐伯さんがそれで納得するかだが。
「ふうん……」
案の定、彼女は不満を隠さない様子で、曖昧に返事をしてリビングを出ていった。
初日以降、僕らは時間をずらして家を出るようにしていた。僕の一方的な希望だ。たいていは佐伯さんが先で、僕が後。
ひとり残された僕は、コーヒーメーカーの保温ポットから、コーヒーをマグカップに注ぎ、立ったままそれを口に運んだ。
「……」
佐伯さんには悪いことをしている――そう思った。
その日の昼休み、
教室で矢神と一緒に弁当(佐伯さん作)を食べ、それからひとり学生食堂に向かった。目的は自販機コーナーだ。
その自販機の前で滝沢と会った。
「滝沢、そっちももう食べ終わったんですか?」
「まあな」
二枚目な友人は短く答える。
滝沢は僕と違って昼食は学食派だ。彼も食べ終わって、飲みものを買いにここにきたのだろう。
「僕はいつも通りミルクティを買いにきました」
家ではコーヒー党の僕だが外、特に自販機で買うときは紅茶を選ぶ。どうも市販のコーヒーは口に合わないようなのだ。こうなるとあまり凝りすぎるのも考えものだな。
さっそく滝沢に背を向け、硬貨を投入口に放り込んだ。
「最近楽しそうだな」
唐突に、滝沢が投げかけてきた。
「そうですか? 自覚はありませんが」
「少なくとも俺にはそう見えるよ」
彼の声を背中で聞きながら、僕は取り出し口からミルクティの缶を取り出した。
「宝龍との一件以来、お前はかなり塞ぎ込んでいたし、口数も少なかった」
「滝沢」
彼の言葉の終わりと僕の発音が重なった。僕は滝沢へと振り返る。
「僕が彼女を振ったんです。その僕が塞ぎ込む必要はないでしょう。振られた彼女なら兎も角」
「女を振ったことで自分も傷つく種類の男もいる」
そう言った滝沢は、僕と入れ違いに自販機の前に立った。買うのはいつも同じ銘柄の缶コーヒー。僕はその動作を黙って見ていた。
彼が買い終わるのを待ってから僕は口を開く。
「僕はそんな人間じゃありませんよ」
「どうだろうな。ついでに言うと、お前が彼女を振ったんじゃないと俺は思ってるよ」
「……」
どうも旗色が悪い。
僕は缶のプルタブを開け、喉を潤した。
「滝沢とこの手の議論をしても敵わないので、昔のことは忘れたことにしておきます」
「俺はそのひと言で、お前には敵わないと思うよ」
滝沢は苦笑交じりにそう言って、コーヒーを口に運んだ。
「そうだ、弓月。噂の新入生の話はもう聞いたか?」
それからふと思い出したように新たな話題を切り出してきた。先の話題はもう終わりのようだ。
「新入生? いいえ、僕は何も。面白い生徒でも入ってきたんですか?」
「ああ。入試のときの成績がずば抜けてよかったらしい。入学式には新入生の総代として挨拶の言葉も読んでる。女子だ。しかも、かなりの美人ときた」
「それはそれは」
世の中不思議なもので、僕のように凡庸なやつも多いが、人より長けた部分をいくつも持ち合わせている人間も探せばけっこういるのである。
「まるで宝龍さんのようだ」
「そうだな」
宝龍美ゆきもまた成績優秀で、新入生の総代を務めたと聞いている。そして、容姿は言わずもがな、だ。
しかし、宝龍さんを褒めるような僕のこの受け答えを滝沢はあまりお気に召さなかったらしく、彼は短い言葉で流した。
「加えて、帰国子女らしい」
「……」
奇しくも僕もひとり知っているのだが……。さて、帰国子女というのは一学年に何人くらいいるものなのだろうか。
「どうした?」
「滝沢はそういう話題が好きだなと思いまして」
僕は誤魔化すように言ったが、しかし、それもまたひとつの事実ではある。
滝沢は端整な顔をしていて、当然のように女の子から好意を寄せられることが多いが、彼自身はあまりそういう方面に興味がないようなのだ。そのくせ自分が当事者でない場合に限っては、その手の話が好きなのだから始末が悪い。
「ひとつはお前の気晴らしになればと思ってな」
「気を遣わなくてもいいのに。……それでほかには?」
「その噂の新入生がそこにいるんだ」
「……」
さすがにこれは予想外だった。このタイミングでミルクティを飲んでいたら吐き出していたかもしれない。
僕は学食を見回し、そして、その姿を見つけた。
そこにいたのはまぎれもなく佐伯貴理華だった。
友達と向かい合ってテーブルについている。手には自販機で買ったのであろう缶ジュース。それを飲みながら楽しげに談笑している。
しかし、その様子は僕が知っているのと少し違っていた。
今の佐伯さんは、華やかだけど一歩引いたような、ひかえめでおしとやかな美少女といったふうだ。少女らしい隠しきれない快活さも垣間見えるが、同時に子どもっぽさなどすでに卒業したような落ち着きも、その所作と居住まいから窺うことができた。
僕はしばらくの間、その美少女に目を奪われていたらしい。
「……」
なるほど。これでいくつかの疑問が氷解した。彼女が入学式で妙に消耗して帰ってきたわけとか、僕が彼女の学力を知っていると思った理由とか。
それにしてもそこにいる少女は、本当に僕の知っている佐伯貴理華なのだろうか。彼女は友達の話を穏やかな笑みで聞き、そして、自分が話すときは冗談でも交えているのだろうか、相手の笑顔を誘っていた。家で見る佐伯さんとはずいぶんと違っている。
やがて彼女も僕に気がついた。やわらかく微笑み、胸に前で小さく手を振ってくる。
「……」
僕はそれを他人事のように見ていた。
「知り合いか?」
滝沢の声でようやく我に返った。
「まさか。滝沢に手を振ったんじゃないですか」
「相手の視線が自分に向けられてるかそうでないかくらいわかる。確かに彼女はお前を見ていた」
「気のせいですよ」
そう言って僕は佐伯さんに背を向け、滝沢を誘導するようにして学食を後にした。
このとき、僕は遅まきながら内心で頭を抱え、苦悩していた。朝、あれほど僕のことは無視するようにと言っておいたのに。彼女はいったい何を考えているのだろうか……。
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