2.「風邪、ですか?」

 新学期がはじまって最初の金曜日の夜のことだった。


「この週末、僕は一度家に帰りますよ」


 風呂から上がったばかりの僕は、寝間着代わりのスウェット姿。佐伯さんもすでに風呂をすませているのでパジャマを着ていた。僕らはリビングでそれぞれ自分の座椅子に腰を下ろし、テーブルを挟んで向かい合う。


「ほわ?」

「だから――」


「ほわ」という驚き方は斬新だと思った。


「この土日、家に帰ります」

「なんで?」

「こちらにきてからまだ一度も家に帰っていませんからね。新学期もはじまりましたし、親に顔を見せて、こちらの生活に問題がないことを報告しておかないと」


 問題がないわけではない。むしろ今まさに問題と向き合っていると言える。


「ルームメイトがいることも、このまま黙っているわけにはいきません」

「わたし、挨拶にいったほうがいい?」

「やめてください」


 僕は間髪入れずお断りする。


「じゃあ、黙ってるんだ、一緒にいるのが女の子だってこと」


 そう、問題はそこなのだ。


「今はね。タイミングを見て言うか、すべてが終わってから明らかにするか」


 今言えば確実に軽めのパニックが起こるだろう。母は大騒ぎ、父は押し黙って動転。妹は喜びそうだ、野次馬的に。


「兎に角、明日の午前中に帰って……戻ってくるのは日曜の夜でしょうね」

「なんか寂しい……」

「子どもじゃあるまいし。昼間は誰かと遊びにいったらどうですか」

「そりゃあ、お京とかいるけどさ……」


 どうやら彼女にはすでに休みの日に会うくらいの友達はいるようだ。人懐っこい、というか、誰とでも友達になれてしまう性質のようで、そんな彼女なら当然と言えば当然か。


 佐伯さんは黙っていた――が、いきなり。


「はくちんっ」


 くしゃみだった。


 いや、くしゃみらしいというほうが正確か。どうも妙に白々しいくしゃみだったのだ。


「佐伯さん、今のはくしゃみですか?」


 僕は思わず確認してしまった。


「うん。くしゃみ。湯冷めしかけてるのかも。……わたし、もう寝るね」


 佐伯さんは立ち上がった。

「おやすみ、弓月くん」

「あ、はい。おやすみなさい」


 なんだかよくわからないが、佐伯さんは逃げるようにして自室に引き上げていった。


「……」


 本当によくわからなかった。





 翌日。


 毎朝僕を起こすのを趣味と日課にしている佐伯さんが、今日に限って起こしにこなかった。


 かと言って、彼女に起こされないと寝坊してしまうわけでもないので、それならそれで僕としては単に自力で起床するだけのことなのだが。


 リビングに出ても佐伯さんの姿はなかった。


 正直、珍しいと思った。彼女はアメリカからの帰国子女なのだが、未だに時差ボケ状態にあるのではないかと思えるほど、普段から朝が早く、そして、朝から元気なのだ。僕が先に起きたのは今日が初めてだろう。


 とりあえずコーヒーメーカーをセットした。


 それでも起きてくる気配がないので、僕は彼女の部屋のドアをノックしてみた。


「佐伯さん、朝ですよ」


 すると、


「う゛~」

「……」


 なんだ、今のは。うめき声だろうか?


「入りますよ?」


 すべてがいつもと違う。さすがに心配になって僕は彼女の部屋に踏み入った。


 確かに佐伯さんはベッドに寝ていた。


「どうしたんですか?」

「か……」

「か?」

「風邪ひいたみたい……」

「……」


 これには返す言葉が見つからなかった。なぜなら僕が見たところ、いつもの彼女と変わりないように見えたからだ。つまり病人には見えなかった。


「……」

「……」

「……」

「う、う~……」


 居心地の悪い沈黙を埋めるように、再び佐伯さんがうめいた。


「風邪、ですか?」

「うん、風邪。やっぱり昨日、湯冷めしたみたい……」


 なるほど。昨日のあの奇妙なくしゃみは伏線だったわけだ。さて、どうしたものかな。


「とりあえず熱でも測ってみますか」


 僕はひとまず部屋を出た。キッチンに行って食器棚の上に置いてある救急箱を下ろし、そこからデジタルの体温計を取り出した。


 再び佐伯さんの部屋に戻る。


「これで熱を測ってみてください」


 体温計を差し出すと、彼女は布団から手を出し、恐々それを受け取った。


「頭痛はありますか?」

「うん、少し……」

「喉は?」

「痛いかも」

「鼻は?」

「ぢょっとづばってる……」


 急に濁点だらけの声になった。


「お腹は?」

「減ってる」

「……」


 そうか。食欲があるのはいいことだ。


「僕は何か薬を取ってきますので、君は熱を測っていてください」

「う、うん……」


 僕は再びキッチンへと戻ってきた。いちおう救急箱の中にはひと通りの薬をそろえてあるけど、さて、こんな症状盛りだくさんの人間に飲ませる薬なんてあるのだろうか? いや、それ以前に飲ませていいのかどうか。


 風邪薬の中でいちばん軽いそうな総合感冒薬を持って佐伯さんの部屋へと向かう。が、その足が部屋の前で止まった。中で彼女がなにやらごそごそやっていたからだ。ドアが開いているのに気がついていないのだろうか。


 佐伯さんはベッドから立ち上がり、勉強机の照明に体温計を近づけていた。さらに今度はパジャマの袖でごしごしと擦っている。


「……」


 果たしてそれはデジタルの体温計に効果があるのだろうか。


 僕はそっと数歩後ろに下がった。


「佐伯さん、入りますよ」


 改めて宣言する。


 一瞬遅れて中でどたばたする音が聞こえてきた。それを確認してから部屋に入ると、彼女は先ほどと同じようにきっちりとベッドに収まっていた。


「どうですか?」

「う、うん……」


 佐伯さんは布団から手を出して、おずおずと体温計を差し出してきた。僕はそれを受け取り、液晶を見てみた。しかし、そこには何も表示されていなかった。


「佐伯さん、消えてますよ」

「え? あれ、そ、そう? もしかしたらリセット押しちゃったかも……」

「……」


 そうきたか。


「君が見たときは何度でしたか?」

「えっと、四十度?」

「四十度?」

「じゃなくて、三十八度だったかな?」


 彼女は訂正してから、誤魔化すように乾いた笑いを漏らした。


「三十八度……。まぁ、普通の風邪でしょうね。ここに薬を持ってきました」

「弓月くん、ありがとー」

「でも、今より症状が悪くなったら飲むようにしてください。今はダメです」


 むしろ飲むだけ無駄だ。もったいない。よく考えたら水も用意していないのだから、僕もたいがいいかげんだ。


「いいですね?」

「うん……」


 佐伯さんは力なく頷いた。


「それでね、弓月くん」


 そして、おそるおそる聞いてくる。


「弓月くん、今日はどうするの?」


 僕は思わず大きなため息を吐いていた。結局このドタバタも、そこがスタートでゴールなのだ。ここまでつき合ったのだから、とことんまでつき合うべきか。


「そりゃあ、家に帰るのは中止でしょうね」

「ほんとっ?」

「風邪をひいてる君を置いていくわけにはいきませんから」


 我ながら甘いことだ。


 まぁ、佐伯さんにしてみれば、その覚悟でひとり先に日本に帰ってきたとは言え、いざひとりになるのだと思うと寂しいのだろう。何かあっても頼れる両親は未だ海の向こう。寂しいと言うよりも怖いのかもしれないな。


「ただし、昼までに起きてきたらもう治ったとみなして、僕は予定通り家に帰ります」

「えー」

「病人でしょう? それくらいは我慢して寝てなさい」

「……」


 さすがに自ら招いたことなので、これには文句は言えないようだ。まぁ、自業自得というものだろう。


「また後で様子を見にきてあげますよ」

「うん」


 彼女に布団をかけ直してやり、僕は部屋を後にした。


 佐伯さんが静かなうちに家に電話をしておくことにしよう。昼過ぎには彼女が全快になって起きてくるに違いない。


 このとき、僕は確かにほっとしていた。


(これで母と顔を合わせずにすむな)


 今日家に帰ろうと思っていたのだって、ひとり暮らしをさせてもらった子どもの義務として顔を見せておこうと思った程度のことだ。帰れないのなら帰れないで仕方がないと、自分に対して言い訳が立つ。


 僕は理由を作ってくれた佐伯さんに、密かに感謝した。

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