第19話

 確かにみすぼらしい家だった。

 くすんだ灰色の外壁、水垢のこびりついた窓、そこから見える黄ばんだ花がらのカーテン……どれもこれも生気を吸い取られたかのように澱み、じっとりと暗く沈んでいる。そんな印象。

 俺は裏口から案内されて家中へとお邪魔した。

 足を踏み入れると、微かな臭気が鼻孔をくすぐる。他人の家の臭いだ。

 月美は廊下を数歩あるき(ギシギシと妙な音がした)外れそうなドアノブを回して塗装の剥げかけた扉を開けると、緊張した様子で、


「ここだよ」


 と言った。


「きみの部屋か?」

「うん」


 俺が部屋の中に入ると、彼女はごくりと生唾を飲み込んだようだった。その音が俺にも聞こえてしまうくらい、静かだった。


「ごめん、散らかってて……」


 月美は言う。

 壁には企業ロゴが大きく入ったカレンダーが無造作にひっかけられており、床には年期を感じさせるカーペットが敷かれていた。部屋の真中には足の短い傷だらけのプラスチックテーブルが置かれていて……このように生活感を表す小道具はたっぷり詰め込まれているものの、そこには女子高生らしさというものがまるっきり欠落しているように見えた。


「ど、どうぞ、座って?」


 彼女は慌ただしく敷きっぱなしの布団を畳みながら言った。

 俺はテーブルの前に腰を下ろし、辺りを見回す。


 美しい。

 不思議な感覚だ。

 この生々しくわびしい情景を、彼女の貧しさを象徴するかのようなこの空間の全てを、どうして俺は美しいなどと感じているのか……。


 わからない。

 けれどもここは美しい。俺の胸を熱くさせるほどに美しいのだ。

 全ての要素が俺の情念を刺激し、沸き立たせ、興奮させる……。

 なぜ?

 この貧しい家のどこに、俺を掻き立てるものがあるというのか。こともあろうに美しいなどと感じさせるのか?


「あ、飲み物もってくるね!」


 月美はパタパタと部屋を出ていき、一分も立たない内に戻ってきた。

 そしてテーブルを挟んだ対面に座り、白い瀬戸物のマグカップを俺に差し出す。俺はカップを手に取って視線を落とす。底が茶渋でくすんでいたが、今入っているのはただの水らしい。カルキの臭いから察するに水道水なのだろう。

 俺は黙ってそれを飲み干し、テーブルに戻した。


「ここは、良いところだな……」


 思わずこぼれ出てしまった言葉だった。


「そんな、褒めすぎだよぉ……。だってだって、こんなに“惨め”で“汚らしい”家なんて……」


 なぜだか両手をオーバーに動かし、月美は俺の発言を否定する。


「どうしてそうも卑屈になるんだ、お前は」

「だって……今までずっと、そうだったから……。みんなでわたしを“馬鹿にして”……。“お金がない”ことを“からかわれて”、ほしいものだって“買ってもらえなくて”……。生意気だって“殴られて”、“汚い”って指をさされて……。笑顔で手を差し伸べてくる連中だって、心の底ではわたしのことを“見下してて”……。それが、たまらなく“悔しくて”……。……ごめん、こんな事話したって、仕方がないのにね。結局は全部、“わたしが悪い”んだし……」


 月美は、らしくもなく消え入りそうな声で言う。


「もっと、聞かせろ」


 俺は言う。

 しかしその言葉は、俺でない誰かによって発せられた言葉であるかのように部屋の中に響いた。


「え?」

「全て吐き出すがいい……。全部、俺が受け止めてやる」


 もっと、もっと欲しかった。

 彼女の言葉。

 悲惨な真実。

 俺は、彼女のなにを欲している?

 彼女をどうしたい?

 その答えは、もう目の前にある気がした。


「そう言ってくれるのは嬉しいけど、さすがに悪いよ……。それに、明黒くんだって――」


 月美は言う。


「“貧乏”なわたしの“不幸”話なんて聞いてたって面白くないでしょ?」


 月美は言う。

 “貧乏”。

 “不幸”。

 その言葉を聞いた時、俺の中で長い間不定形であった“何か”が、ついに明確な形を作り始めた。そんな風に感じた。

 あの時、天衣美羅は言った。


 ――あなたは、変態です……!

 ――悲しみ悶えるわたし達を見て愉しむつもりだった……。

 ――違いますか? 


 あの時俺は、会長にある事実を伝えることを怠った。確かにあの時の会長は少々錯乱していたように見えた……何を言っても信じてもらえそうになかった……が、それしてもあの事実を伝えることぐらいはできたのかもしれない。そうすれば物事はもっと単純に進んだのかもしれない。……ただ、俺はそれをしなかった……。どうして? 狼狽える会長の姿がとても魅力的に映ったから? 少しでも長く、見ていたくなって。それで。


 俺は、欲しているのか……?

 目の前の少女の“不幸”を?

 目の前の少女の“貧苦”を?

 俺は……。

 俺は。

 俺は、月美――を、不幸、の、どん底、に、叩き――落と、して――や、り――――


「にゃあ」


 突如として発せられたマヌケな音に、俺の思考は寸断された。

 我に返って振り返ると、中途半端に開いたドアの隙間から白い猫がこちらを見ている。見覚えのある猫だ。そう、コイツは……。


「殺されたはずの部室の白猫……。どうしてここにいるのかな」

「あはは……バレちゃった」


 月美はニヒルな笑みを浮かべて俺の視線から眼をそらした。

 やはりそういうことか。猫は生きていたのだ。


「ま、こんなところだろうとは思っていたがな……。トリックの種明かしは後でやるとして、月美、お前は天衣会長に謝らなくちゃいけないぞ?」

「えー……」

「『えー……』じゃないだろ」

「やっぱり、明黒くんも天衣ちゃんの味方するんだね……」

「当たり前だ。お前が全面的に悪いんだから」

「そりゃそーだけどさぁ……」


 頬杖をついて不満気にぼやく月美は、もうすっかり普段の調子を取り戻しているように見えた。


「わたし、結局天衣ちゃんに勝てなかった。ただの一度も勝てなかったんだよ? それどころか、逆に救いの手を差し伸べてくれちゃったりなんかしちゃってさぁ」

「だったら尚更――」

「わかってるよ! わかってるけど……やっぱり、悔しい。……天衣ちゃんは正しくてわたしは間違ってる。それは確かにそうだよ? でも、天衣ちゃんはそんなわたしを救おうとしてくれた。それで、実際、ちょっと……ほんのちょっとだけど、救われちゃって……今、こうやって明黒くんといられるのだってヤツのおかげみたいなところあるし……」


 トコトコと部屋の中に入ってきた白猫を適当にあしらいながら、月美は続ける。


「でもさ、だからこそわたしは天衣ちゃんが嫌いなんだよ! だってそれって、わたしの超完全敗北ってことじゃん! 惨めすぎるよそんなの……。ひねくれてるって思うでしょ? その通りだよ。わたし、性格悪いんだ。さすがの明黒くんでも幻滅したかな?」

「……で、お前はいったいどうすれば満足するんだ」

「一度だけで、いいの。一回だけでいいから、わたしのこの手で天衣ちゃんを完膚なきまで叩きのめしてやりたい……! あのプラチナだかダイヤだかの心を砕いて、“不幸のどん底”に突き落としてやりたい……!」


 不幸のどん底、か……。


「まさかとは思うが、本気でそんなことを言っているわけではあるまいな」


 俺の問いに、月美はふぅっと一息ついてから答える。


「あ、引いちゃった? まーね……。でも半分は本気だよ。なんて言うのかなぁ、一瞬は本当に地獄へ落とすんだけど、後から冗談でしたー、みたいな感じで現世まで引っ張り上げてあげる、みたいな。イメージ的にはそんな感じのことがやりたい」

「よくわからんが、俗に言うドッキリみたいなものか」

「そうそう! 思いっきりタチの悪いやつ! なにか良いアイデアないかなぁ」

「……下手な考えはよすことだな。また返り討ちにあうだけだ」

「ま、そうだよね……」


 そう言って月美はふにゃりと机の上に突っ伏した。

 やれやれ。

 人は見かけによらないと言うが、可愛らしい顔をしてまったく何を考えているのか。

 一時的にとは言え、個人的な逆ギレで罪のない少女の心を砕くなど……。


 ……心を、砕く。

 不幸のどん底に、突き落とす。

 もし、本当にそんなことが実現できたなら、その時あの天衣美羅はいったいどんな顔をするのだろうか……?


 絶望の底であえぐ会長の姿。

 見て、見たい?

 天衣美羅の絶望。

 壊して、みたい?

 天衣美羅の心。

 ああいや、俺は何を考えているのだ。

 そんなこと、許されるはずが――


「ねぇねぇ明黒くん?」

「な、なんだ?」


 いつのまにか、月美はむっくりと起き上がって俺を見つめていた。


「もしかして……ちょっとやる気になってる?」

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