第12話


 猫が、死んでいました。

 白猫ちゃんです。

 この部屋の愛すべき住民だった、あの猫ちゃんが、死んでいました。

 いいえ違います。

 目の前の光景は、『死んでいる』などという簡素な言葉では表現できない類の光景でした。


 猫ちゃんは、『むごたらしく殺されて』いたのです。

 全身真っ赤に血まみれで、右腕と左前足は存在すらもしていませんでした。両目には鉛筆とボールペンが深々と突き刺さり、ぱっくりと引き裂かれた口の中にはザクロのような不気味な物体が見え隠れしていました。


「明黒、くん……?」


 わたしは言いました。

 しかしその声はわたしのものではないかのような音で部屋の中に響きました。


「ああ、天衣会長……」


 猫の残骸の隣にしゃがみこんでいた明黒くんは、焦りもせず、悪びれもせず、ただゆっくりとわたしのほうを見やりました。

 その手には血塗られたフルーツナイフが握られています。


「朝早くから悪いね。それにしても随分早かったじゃないか」


 明黒くんは表情一つ変えないままに言いました。


「な、なにを言ってるんですか? なにをやってるんですか? あなたは!」


 わたしが狼狽えたような素振りを見せると、まるでそのことを悦ぶかのように心の邪竜が姿を見せます。彼はナイフを手放さぬまま立ち上がり、邪竜の赤い目と共にわたしを見つめました。


「いや、参ったよ。俺もついさっき来たところなんだがね。扉を開けたらこの惨状だ。まったく驚いた」


 明黒くんはよどみなく言いきりました。

 いつもと全く変わることのない冷静な調子がわたしを無性に苛立たせます。


「ふざけないで、くださいよ……!」


 気が付くと、わたしは叫んでいました。


「この期に及んで言い逃れができるとでも思っているんですか?」

「会長は、俺がこんな状況を作ったと言いたいのかな?」

「当たり前です! 現行犯ですよ!」

「しかし俺には動機がない。考えてもみろ、こんな事をして一体なんの得になる?」

「動機がない? よくもまぁそんなことが言えたものですね……! 明黒くん、あなたは――」


 思えば、わたしに対する露骨な嫌がらせがはじまったのも彼と出会った次の日からでした。


 卵でロッカーべたべた事件。

 イナゴでローブがべとべと事件。


 しかしわたしが案外に平気そうにしているので彼はついに痺れを切らしたのでしょう。だからこんな酷いことを……。

 こうなってくると昨日のあの発言も気になってきます。



 ――強い精神を持つ人間は、自分に対して加えられる攻撃に対してはかなりの部分まで耐えることができるのだろう。しかし、傷ついている親類や友達を前にした時、どこまでその痛みに耐えられるんだろうかってね……。



 彼はあの時、わたしに話を振ってきました。その時のわたしは不覚にもペットのナメクジが死んで悲しかった時の思い出を話してしまった……。

 そのエピソードは結果としてわたしの弱点を晒すことになったのでしょう。

 わたし本人に攻撃を加えても無駄ならば、攻撃対象をその周囲に変更してしまえばいい。

 明黒くんは、そう考えたに違いありません。


「あなたは、変態です……!」


 わたしは絞りだすようにして言いました。


「動機がない? ハッキリしてるじゃないですか! 性欲ですよ、本能です! あなたは、わたし達の可愛がっていた猫を酷い方法で殺し、その死体を見せつけることで悲しみ悶えるわたし達を見て愉しむつもりだった……。違いますか? もっとも、わたしが待ち合わせの時間より早く来すぎてしまったせいで、その計画は中途半端なところで露呈してしまったようですがね」

「ほう。またすいぶんと突拍子もないことを考えたものだな。……どうやら、今のきみには何を言っても無駄なようだ」


 そう言って明黒くんはわたしのほうに向かってきました。

 血塗れのナイフを持ったまま、です。


「ッ……!」


 わたしは一歩、反射的に後退ります。

 すると、なにかのガラクタに躓いたのか体勢を崩して尻もちをついてしまいました。

 部屋の隅に積み上げられていたコミック本がなだれを起こし、ふわりと埃が舞い上がります。


 わたしはケホケホと咳き込みながら立ち上がって部屋の角っこに背をもたれました。状況は海野さん達にトイレで追い詰められた時と似ていますが、今、向かい合っているのはナイフを持った異常者なのです。

 マゾヒズム程度ではピンチを快楽に変えることなどできません。


「天衣会長? なにをそんなにびくびくとしているのだ。……ああ、これが怖いのか」


 明黒くんはわたしの目の前までやってきて、それからゆっくりとナイフを懐にしまいました。


「もう安心だろ? ……ナイフは危ないからなぁ、俺が預かっておくぞ?」


 彼は言いました。

 この時のわたしは、一体どんな顔をしていたのでしょうか。

 どんな眼で、明黒くんを睨みつけていたのでしょうか。


 それはわたしにはわかりません。

 しかし、そんなわたしの姿を眺めて明黒くんは少なからずの性的刺激を得たようでした。

 明黒くんの性癖の象徴、あの黒き邪竜が、自らを繋ぎ止めている鎖の一つを引きちぎったのです。


 残る鎖はあと二つ。

 そしてこの瞬間、わたしの眼(セイント・アイズ)は彼の性癖の正体を見破りました。

 鎖が全て開放されし時、真に覚醒しうるであろう明黒くんの性癖。

 その本来の姿は、


 真性サディズム……!


 考えてみれば簡単な話だったのです。

 他人を虐げることによって快楽を得るサディズムという名の性的嗜好。

 その原点、起源の形が『他人の不幸を悦とする』薄幸フェティシズムであったとしてもまったく不思議な話ではない……。


 無論、全てのサディストが危険人物であるわけではありません。

 むしろ、ほとんど全てのサディストは完全に無害な人々です。彼らは自身の空想の中でこそ暴虐非道に徹するでしょうが、その非道を現実世界に持ち出すほどに狂気的ではないのです。

 かくいうわたしの性癖の中にもサディズム系統のそれは存在していますし。


「本当に大丈夫か? 会長」


 明黒くんがわたしに向かって手を伸ばしてきたので、わたしは思わずその手を跳ね除けてしまいました。


「出て行ってください……」

「……天衣会長、俺は自身の心のわだかまりを解く鍵を手に入れるためにきみに協力を願ったというのに、今、俺の心はなお“わだかまった”。まぁ、独り言だがな」

「出て行ってください!」


 わたしは叫びました。

 明黒くんはさすがに少し面食らったようになって、それから眉をひそめます。心の邪竜と共にわたしを見下ろし、数秒の間はそのままじっとしていましたが、やがてフッと息をつくと半開きのドアに手をかけて外界へと歩を進め、


「きみにもいずれわかる時がくるさ。いずれ、な……」


 去り際に、彼はそう言いました。

 その時の明黒くんの口元が微かに笑っているように見えたのは、わたしの錯覚だったのでしょうか……。

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