4章 願い求めた幸福の名前

 携帯のアラームに意識を呼び起こされ、瞳を開く。


 軽い眩暈と、微かな頭痛。まだ寝ていたかったと主張する体の反抗はいつものことだ。


 むくりと上半身を起こし、いまだ鳴り続ける目覚ましを止めるのもいつものこと。カーテンを開き、空の様子を伺うのもいつものこと。


 おはようと言い合う相手がいないのも、いつものことだ。


「……」


 寝床に敷いた布団から起き上がり、目を開きてベッドの様子を見るも変化はない。毛布が膨らんでいるわけでも、枕に白い頭が乗っているわけでもなく昨夜、自分が用意したままの状態でそこにある。


 整いの乱れはないかと眺めて、見つからないことに胸が痛んだ。まさか床で寝たのだろうか、そもそも横になって休息したのだろうか。心配が募る。


 待っていると、受け止めてやると言ったが、それは何もしないで無抵抗に時を待つという意味だ。考える時間は絶対に必要であることは理解しているのに、何も出来ない歯痒さが寝起きの頭を締め付ける。


 だが、これくらいはせめて伝えたいと、きっといるであろう姿の見えないシロに向けて言葉を投げかけるべく、台本を脳内で作り上げる。


「シロ、寝るときはベッドを使ってくれていい。睡眠は活力の重要な補給方法だ」


 反応はない。


「それと昨日作った夕飯、どうせ手を付けてないままなんだろう。オレは今から軽くシャワーを浴びるから、その間にレンジで温めて食べるといい。でないと持たなくなるぞ」


 返事はない。


「意地を張り続けるのは構わないが、心配はさせないでくれ。姿が見えないんだから、倒れたらオレはわからない。そのまま歩いていって、心臓の範囲外に出てお互い死ぬ、なんて間抜けな終わりはしたくないだろう?」


 あの耳に良く残る憎まれ口は飛んでこない。


 そのことが寂しく思えるほど、自分はあの罵声に慣れてしまった。聞こえないと物足りなく感じてしまうようになった。感情に呼応して動く耳と尻尾は、今どうなっているのか。


「それだけだ。今日も学校に行く。終わったらスーパーに寄って帰るから、そのつもりで」


 声が途切れれば、あとに残るのは静寂のみ。


 結局この後、シャワーから上がっても、ラップをして冷蔵庫に保管していた夕飯に手を付けられた形跡はなく、時間ギリギリまで待っても新たに作った朝食がひとりでに量を減らすこともなかった。





@





「なんと今日の食堂はエビ、カニ、ホタテの海鮮チャーハンなのだ!」


 教室に入るなり、挨拶よりも先にそう声をかけられるものだから、握っていた鞄を落としかけそうになった。まだ机に座って一息もついていないというのに、まだ言い足りないらしい。幸助がずいずいっと寄ってくるのだから、こちらも後ろに下がらざるを得ない。


「季節は冬、魚介類の上手くなる時期! そこへ投入された魅惑の日替わりチャーハン!食べたいよな? 五十食限定っていう制限が余計に食欲と購入欲をそそるよなぁ!?」

「随分と元気だな、幸助」

「当たり前だろ、当たり前だとも、当たり前であるとも!」


 同じ単語を三回、言葉尻を微妙に変えて繰り返すほどお熱であるらしいが、二歩、三歩下がる度に同じ距離だけ近づかれては切りがない。これでは廊下どころか、階段のほうまで押し込まれてしまうと、前進してくる友人の胸板を手で押し返す。


「そんなもんで俺の情熱は止まらん!」

「今日のお前は本当に元気過ぎじゃないか……?」


 跳ね除けられ、吐息のかかる距離まで接近されてしまった。


 それどころかいつの間にか廊下の壁際まで後退していたらしい。いくら友人だとしても、この近さは少々抵抗感がある。左右のどちらかに逃れて離れようとするのだが、幸助が壁へと両腕を突きつけてその道を塞ぐ。


「幸い、四時限目は体育館を使っての体育だ。どの教室よりも食堂までの距離は近い所にある。着替えは食べた後にすればいいから、財布持ってすぐに飛び込めば売り切れは……」

「幸助」

「なんだ。今大事な話をしてるところだというのに」

「オレも大事な話をしようと思う。いい加減、調子に乗り続けられても困るから、このまま喋りつづけてオレに殴られるか、自分から離れるか。どちらか好きなほうを選んでくれ」


 数秒ほど見つめ合ってから、幸助は静かな動作で離れていった。おかげで白いシャツに塞がれていた視界が広がり、廊下にいた生徒から向けられる奇異の視線に気づく。


 よくよく見渡せば、教室から覗きこんでいる者達もいた。これだけ派手なやり取りを目立つ人物がしたのだ。注意を引きつけて当然なのであろうが、居心地の悪さに対する中和剤になりはしない。朝から体力と精神を削ってきた幸助を睨む。


「おおなんだ、そんなに見つめて。俺に惚れちまったの、おうふっ」


 ふざけたことを言い出したその阿呆の襟首を掴んで持ち上げる。


「お前にしては冗談の引き際が下手だな。さすがにイラっときたぞ」

「ずびばぜんべじだ、悪ノリじずぎまじだ……」


 よろしい、と手を離して解放する。親しき仲にも礼儀は必要だ。その辺を弁えている相手だと認識していたのだが、評価を少し修正する必要があるのかもしれない。


「でもほら、今日はむなっちゃん、昼付き合ってくれるんしょ? 久々に一緒に飯食えると思ったらテンション上がっちまって」


 訂正。評価は変えなくていい。これは自分に原因がある事案だと、由紀は顔を渋くする。


 幸助の言う通り最近、友人を蔑ろにしてしまっている自覚はある。一昨日は水無月と、昨日はシロと。必要な時間の使い方ではあったが、数少ない友達からのお誘いを断ってしまったことには違いない。


「悪い」


 述べた謝罪に、幸助は笑う。


「いらねえって。過ぎたことなんだしさ、そういう湿っぽいのはなしってもんだぜ」

「いや、違うんだ」


 無論、申し訳なから出てきた言葉だが、意味合いが違う。これは今までのことに対してではなく、今からに対しての謝りだ。


「……まさか、今日も?」


 察しの良さは、この友人の美点だ。目を瞑り、唸るように息を吐き出す。


「外せない用事が入った。今日も付き合えそうにない」


 明日は必ず付き合うと啖呵を切ったのと同じ口で、断りを入れることの苦々しさが身を包む。呆れているのだろう。憤慨しているのだろう。約束破りの負い目から、真っ直ぐに幸助の目を見ることができず、顔を背けていて彼の対応を待つ。


「そっか、よかったじゃん」


 かけられた言葉の意味が一瞬、理解できなかった。

 表を上げると、幸助は笑っていた。


「俺以外で昼休みを一緒に過ごせる相手が出来たってことだろう? ならいいことじゃん。むなっちゃん、友達なんてもういらねーって諦めてたけど、強がりなのバレバレだったし」

「……怒らないのか?」

「怒るわけねーだろ。怒る理由がない」


 お前は俺を見縊り過ぎだと、そう呟いて幸助は頬を軽く掻く。


「三日連続で蹴られると確かにむっとくるとこはあるけど、裏を返せば、三日も連続で蹴ってまでやらなきゃなんねえことがあるんだろう? その意図を汲めないほど、俺の懐は狭く見えるか?」


 説明はできない。事情は話せない。けれどそれごと理解をしてくれる。


「助かる」

 

 ただ一言、そう伝えると幸助は口元を緩めるのだ。


「教室戻ろうぜ。って、押し出した俺が言うのも変か」

「変なのはいつものことだろ」


 憎まれ口の中に込められた親愛もお見通しなのだろう。気持ちよさそうに幸助は肩を揺らしながら前を歩く。本当に自分にはもったいないくらいに出来た友人だと、教室へと進むその背中の後を追う。シロのこともそうだが、こちらも同じくらい心配だったのだ。悩みの種が一つ減ったことに安堵を覚えるのも束の間。


 扉を潜り、自席まで辿り着く中で、委員長とばっちり眼が合ってしまった。


「……っ! あ、あわわ……っ」


 肌色の頬を林檎のように赤く染め、風切りの音が聞こえそうな速さで首を回し、後頭部を由紀に見せる。そして数秒後、油の刺していない蝶番のようなぎこちなさで頭を戻そうとして、まだこちらが見つめていることに気づき、今度は机にドンッと突っ伏した。


 突然の奇行に隣の席の女子が『大丈夫……?』と、恐る恐る尋ねるも、委員長は手を振り『心配いらない』と意思表示をしたまま。伏せた上半身を起こすことはしなかった。


 そう、昨日の委員長とのことはまだ終わっていないのだ。未だ対処法が見つかっていない事案なだけに、向き合う気が重い。


「……むなっちゃん、委員長になんかした?」

「した、というか。された、というか。起こってしまった、と表現するべきか」


 あの告白の後のことを、由紀は思い返す。


 昼休みが終わり、五時限目の予鈴が鳴り響く下駄箱で、委員長は由紀に自身の抱

く気持ちを告白した。


 そして倒れた。


『委員長……!?』


 近くに居たので落下しきる前に抱き止められたが、腕の中で息も絶え絶えといった風だ。


『す、すみません……緊張と、恥ずかしさがなんかこう……わーってなって、わけわからなくなって、そしたら足から力が抜けて……』


 ひゅーひゅーとか細すぎる呼吸に、彼女の取った行動の必死さが現れる。


『ごめんなさい、少しこ、このままでいいですか……今、立てそうに、ない……です……』

『保健室行くか?』

『少し、本当に少しだけあれば、持ち直せると思う、ので……げふげふっ』

『保健室行こうな?』


 咳のしかたが微妙に怖い。


『ともかく、こんなオレを好いてくれるお前の気持ちは嬉しいが……何故だ?』


 常に怯えられているから嫌われているか、怖がられているものだと思っていただけに、予想外の好意が上手く受け取れない。自分のどこを気に入ってくれたのか、何に対して惹かれたのか、まるでわからないのでその辺りの説明が欲しい。


 欲しいのだが、今の委員長が満足に話せる状態であるかと聞かれれば難しい。


 目はぐるぐると回り、口は先ほどから半開きのままで閉まらない。感情がオーバーヒートしているのがありありとわかるのに、顔色は青白くなっているのだから、色々とダメだ。


 加えて時間もない。色恋沙汰を軽く見るわけではないが、それを理由に授業に遅れてしまっては良くないだろう。


『きちんとは……話します。今日、いえ明日のお昼休み、わたしにくれませんかっ?』


 委員長も同じ考えなのだろう。仕切り直しを提案してくれたのは、正直に言ってありがたかった。時間が欲しいのは、由紀の方もだからだ。


 断るにしろ、受け入れるにしろ、一考してからでないと相手に失礼だろう。


 現実に意識を引き戻し、椅子に座って委員長に気づかれないよう、こっそりと眺める。まだ机に突っ伏したままの彼女との接点は少ない。同じクラスメイトなだけで、冗談交じりの雑談をするような間柄じゃない。精々学校の行事で言葉を交わすくらいだ。


 シロの服を買いにデパートへ行き、偶然出会って会話をしたのも隣に幸助がいたからだ。委員長一人だったら多分、声をかけられても軽く会釈するだけで終わっていただろう。


 はっきり言ってよく知らない。でもそのことが、断りに文句をいう理由にはならない。


 知らないなら知っていけばいいわけだし、そのためのお付き合いだというのが由紀の考え方だ。マイナスの印象こそなれど、決定打にはなりえない。


「悩み事ばかりだな、ここ最近……」


 抱えている問題を指折り数えていく。シロのこと、自分の敵のこと、委員長の告白に対する答えのこと。


 イコールの先を出すための方程式と格闘している間にも、時間は手のひらから滑り落ちていく。委員長と約束した昼休みまで凡そ三時間。


 二学期終盤でテストが控えているというのに、授業に集中できないことばかりだと、由紀は苦笑しながら、ホームルームが始まるまで、空を眺めて過ごすことにした。

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