第一章 救世主は銀華に恋をする

1

「――きみは、自分がいじめられているとでも思っているのか?」


 苛立いらだった声で、野城のじま君尋きみひろは目の前のクラスメイトに言葉を投げつけた。この一時間、全く何のリアクションがないことにいきどおっての言葉だったが、それを受けて彼の目の前の小柄な少年は、「…………」と、やはり口を開くこともなく、先程までより一層萎縮いしゅくしたように背中を丸め縮こまってしまった。


「……むぅ」


 自分は辛抱深い性格だという自負があった君尋も、その様子に思わず苦いうめき声を洩らしてしまう。打つ手なしと頭を抱える。


(そもそも、どうしてこんなことになったのか……)


 うんざりとしながら、君尋は事の元凶である自分のクラスの担当教諭の顔を思い出す。

 矢間やま恵美めぐみという名のその若い女性教諭は、普段から人当たりがいいと生徒間で噂のにこにことした笑みを貼り付けて、君尋の肩を叩いた。


「ねぇ、君尋君。先生、一つお願いがあるのだけれど」


 その時点で、君尋には嫌な予感があった。この女性教諭は、君尋がクラス委員長であるのをいいことに、毎度毎度面倒な問題を持ちかけてくる――そんな印象が深かったからだ。

 実際、彼のその勘は当たっていた。

 お願いというのは、至極厄介極まりない内容だったのだ。


「君尋君のクラスメイトに、つまり私の教え子の一人に、玖星ここのほし君がいるでしょう? 彼の事、知っている?」

 知っているかどうかであれば、君尋は知っていた。なので、素直に頷くと、

「実は彼が――玖星朱人あけひと君が、いじめられているんじゃないかって、職員の中で話題が上がっちゃって」


 どうにかしないと、自分の評価が下がる。そのような事を、恵美は君尋に言った。それは、教師である彼女が本来口にすべき内容ではなかったが、君尋に対して格別の信頼を寄せているらしい恵美は、特に躊躇もなく彼の手を取り、しなを作る様にしてこう言った。そこに覗いているのは紛れもな女の顔だった。


「君尋君は、責任感溢れる委員長よね? だったら、彼の抱えている問題を、訊きだしてきてくれないかしら?」


(――その結果が、これだ)


 内心で吐き捨てるように君尋はそんな事を思った。

 玖星朱人の事を、君尋は知っていた。

 常にクラスの中で浮いている少年なのだから、知らないでいる方が難しかった。

 玖星朱人は、どうにもおかしなやつだというのが、君尋の通う学校――私立翠城すいじょう学園高等部二年E組の、そのクラスメイト満場一致の結論だった。

 普段から、何を考えているのか分からない。

 授業中は、だいたい窓の外を見上げているか、クラスメートたちの頭の上を茫洋とした瞳で眺めている。でなければ、ノートに何やら――これは君尋も聞いただけであったが――酷く気味の悪い絵を書きなぐっているという。

 だからと言って、成績が悪い訳でもない。県内でもそれなりの進学校である翠城学園で、朱人は上から数えた方が早い順位を維持している。その癖に、いつも自分の殻に引籠る様に縮こまって俯いていて、話しかけてもろくな返事は得られない。はっきり言って、扱いが難しい問題児であることは、立場上クラスの多くの物事を見聞きする君尋でなくとも自明のことだった。

 そんな問題児がいじめられているという話を、君尋が知らない訳がなかった。知らないと彼が恵美に対して突っぱねるのは、無理であった。


(確かにこいつは、いじめられているらしいが……)


 私物を隠されたり、机の上にこれ見よがしに菊の花を活けられたり、暴力を振るわれ、パシリに使われ、タバコの火を――当然喫煙は校則で禁止されている――腕に押し当てられたり……君尋が知る範囲でも、それだけの振る舞いを受けている、らしい。

 ただ、その問題なのが、君尋がそれをいじめだと恵美に即座に報告できなかった理由は、朱人をいじめているのがクラスメイト全員だという事である。

 見て見ぬふりをしているものがいて、それらも一種の加害者である――とか、そう言ったレベルではない。

 クラス45名のうち、玖星朱人を除く全員が、何かしらのいじめ加害者なのである。それは、君尋にしても例外ではなかった。彼もそう回数は多くないが、朱人に対し虐めのようなものを行ったことがあった。朱人の弁当箱に、チョーク箱の中身をぶちまけたのは記憶に新しい。

 だから、朱人にとって君尋は加害者と云う事になる。

 それ故に質問に答えない。怯えて答えられないと考えることも出来たが、君尋はもう少し複雑な理由がそこにあるのではないかと思っていた。

 それは、彼らが朱人をいじめる動機にあった。


(なんとなく)


 なんとなく、いじめなくてはいけないような気がする。

 気がするというのは、迂遠うえんな表現で、突き詰めれば、そんな空気――雰囲気がクラス内に充満しているから、と云う事になる。

 雰囲気。

 その単語に君尋は、いまの状況を忘れて思わず手を叩きたくなった。それ以上、適切にすべてを現す表現もない。何となく、そうしないといけないような雰囲気だったから、だからちょっかいをかけた。そこには、自覚的な成分が大きく欠如していて、君尋もそれを理解していた。理解していたが、自分が朱人をいじめる理由をそれ以外に見出せなかった。そもそも、いじめているという実感がない。

 だからこその先程の言葉、


「――きみは、自分がいじめられているとでも思っているのか?」


 だったのである。

 そして、答えは返ってこない。

 朱人は俯き、微動だにせず身を固くしている。

 君尋は何だか、本当に自分が朱人をいじめているような気分に陥った。同時に、ひどく腹ただしい気持ちにも駆られた。急に、降って湧いたように、むしゃくしゃとしてきたのだ。


「きみは」

 椅子から立ち上がりながら、君尋は言う。

「君は、いじめられてなんかいない? そうだろう?」


 歩み寄り、俯いた朱人の耳に唇を寄せ、そう尋ねる。朱人は答えない。ただ沈黙を貫いている。

 それが、君尋にとって無性に苛立たしいことだった。


「おい!」


 声を荒げ、朱人の学生服の胸元を掴みあげる。普段の自分の振る舞いからは考えられない激昂に、一番驚いたのは君尋自身だった。


(なんだ? 俺は、何をしているんだ?)


 彼は憎悪にも似た眼差しで朱人を睨みつけていたが、そんな感情は心の何処を探しても見つめられなかった。意に反し身体が動いている。

 まるで、空気に突き動かされているように。


「なんとか言えよ!」


 未だに俯き、目すら合わせない学友に、君尋は怒声を浴びせた。


「――――」


 胸倉を掴みあげられた少年の口元が、わずかに動いた。

 それがどう癇に障ったのか、それは君尋自身にも理解できなかったが、感情が急激に激昂し、彼はその少年に殴りかかろうとして――


「いじめという言葉が、いつからひらがなでしか表現されなくなったか、おまえは覚えがあるか」


 その言葉に、動きが封じられる。

 耳を疑ったと言ってよかった。聴こえたのはしっかりとした意志の宿る言葉だった。それが未だ顔を上げない朱人が発したものだと理解し、君尋は大いに戸惑った。

 拳のやり場が、迷う。

 迷っている間に、朱人は喋り出す。


「今あるメディアでは、ほとんどの場合いじめはただ【いじめ】と表記される。少なくとも公的なものではそうだ。カタカナでイジメでもなく、漢字で虐めでもない。【いじめ】だ」


 それは、とても今の今まで萎縮していた人間の言葉だとは君尋には思えなかった。いや、朱人の声をじかに聴いたのさえ、ひょっとすれば初めてだったのではないか? そう思うほど、彼は豹変していた。

 朱人は、自分の胸倉を掴む君尋の手を無視したまま、俯いたまままくし立てる。


「理由は分かりやすいからだ。読みやすく、何のことだか分かりやすい。ひらがなで【いじめ】と書くだけで、既にすべてが伝わる基盤が世間に出来上がっているからだ。だが、理由はそれだけではない。僕は陰謀論というものを殊更に好みはしないが、それは加害者側の立場による印象の操作だと断言できる。いじめる側は、いじめられる側の事をどう思っていると思う? 答えは『』だ。加害者にとっていじめとは遊びの延長で、ちょっとした悪ふざけで、然したる理由のない日常の一風景に過ぎない。だから、虐めなんて字は間違っても当てないし、やわらかく【いじめ】と表記する」


 そこで朱人は大きく息を吸い、


「ふざけるな!」


 そう叫んだ。

 スッと彼の顔が上がる。君尋は初めて、朱人のかおを真正面から見た。中性的なその顔の中で、三白眼の瞳が、揺らめく炎のような感情に燃えていた。


「いじめは虐めだ。虐待ぎゃくたいだ、嗜虐しぎゃくだ。いじめと書いてもいい。責めさいなむそれだ。そのことが分からない人間は、いじめる側に――加害者になる資格がある。資格――いや、資質とでもいうか、本性と言い換えてもいい。そしてこれは、大多数どころの話ではない。ほぼすべての人間が、加害者足り得るのだ」


 そしてそれは、僕も例外ではない。

 朱人はそう言った。


「何ら違いはない。僕とて、僕より弱いもの――虐めたところで反旗を翻さない間抜けがいるのなら、きっといくらでも虐めてやっただろう、憂さ晴らしにそのくらいはしただろう。僕だって人の上に立ちたい優越感に浸りたい。打ちのめして自分の方が上だ強いと宣言してそいつを相手に深々と刻んでやりたい。……まあ、それが出来れば今のように虐められてなどいないのだろうがな。そうだ、野城君尋。お前は僕に虐められているかと問うたな? 僕は確かに――いじめられているぞ」

「う、うう」


 君尋は、そう断言されて、呻くことしかできなかった。気圧されたように一歩下がろうとするが、真っ直ぐに自分を睨みつけている朱人の瞳が、微動だにすることが出来ない。出来ないのに、先ほどから鳴りを潜めていた暴力衝動が、またむくりと鎌首をもたげる。何だか無理矢理な憎しみに身を任せ、君尋は朱人を突き飛ばした。

 朱人はよろめき後退しながら「何となく、だろう?」そう言った。


「お前達は、何となくでしか行動できない。何となく生まれてきて、何となく学校に行って、何となく就職し、何となく生きて、そして何となく死ぬ。全部が全部何となくだ。自意識の欠片も存在しない。操られたような人生だ」

「ううう」

「僕を虐めたのも何となくだ。なんとなく、そんな空気だったから、みんながそうしていたから、そうするのが当たり前だと思ったから――だから、虐めた」

「うううう」


 もうその時には、君尋の身体はおこりが掛ったかのように震えはじめていた。

 怒りに震えている訳ではない。

 恐怖に震えている訳でもない。

 だが、受け入れられない受け入れることを自分ではないが拒んでいるかのように、身体ががくがくと震えるのだ。

 それは、朱人が手を伸ばした時ピークに達した。

 いったい何時そんな距離まで近づいたのか、玖星朱人は野城君尋の目の前、息がかかりそうな距離に迫り――


――【】」


 君尋の頭の上を、弾くように指先を振るった。

それだけだった。

 それだけでもう、君尋は、


「――――」


 と、最早何も考えられなくなっていた。

 朱人は、君尋から視線を切りながら、その足元へと手伸ばし、誰に聴かせるでもなくぶつぶつと呟く。


「ふん。痺れを切らせて僕個人の排斥を優先し始めたか。クラス全員が支配――いや世界中で支配されていない人間がいないことぐらい見ればわかるが、いよいよ手段を選ばなくなってきたな【バブルヘッド】どもは」


 呟きながら彼のその手が、床から何かを拾いあげる。

 例え、たとえこの場に他の誰か――例えば矢間恵美がいたとしても、彼の指先に何も見出すことはできなかっただろう。

 しかし朱人の眼には確かに、泡立った灰色の頭部が弾けた――まさにバブルヘッドな――虫のようなはねをもつ小人が視えているのだった。絶命しているらしいそれを、無造作にその辺に放り投げながら、ふと何か気が付いたように朱人は君尋を見る。

 口を開け茫洋とした表情で、先程までとは全く異なる自意識の無さで、見るともなしに宙空へ視線を向けている君尋を暫し観察し、そして小さく、その口の端を歪め、朱人は笑った。


「いいだろう、野城君尋。君は今日から僕が使ってやろう。世界が救済されるための礎となれ。何故なら僕、玖星朱人こそが」


 ――世界を救う【救世主メシア】なのだから。


 そう言って、彼はまた指先を振った。


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