第326話 家族の風景

「明けましておめでとうございます。ようこそ、お越しくださいました」

 髪をアップにして着物を着た先生が、玄関でお客さん達を出迎えている。


 淡いピンク色で、胡蝶蘭こちょうらんがらの着物に身を包んだヨハンナ先生。

 先生は普段、教壇に立っている時とは違う、優しい笑顔で客さんに笑いかけていた。

 新春の陽光が先生の髪に当たって、その笑顔を金色に縁取ふちどりりしている。


綺麗きれい……」

 思わず花園がこぼした。

 枝折は瞬きもしないで先生に見とれている。

とりで、あんな素敵なお嫁さんは、絶対に逃がしたらダメだよ」

 母がそんなことを言った。



 僕達が、父が運転する車で先生の実家、旅館「霧島屋」に着いたのは、元旦の午前9時過ぎだった。


 一組のお客さんを迎えた後で、先生が到着した僕達に気付く。



「本当に、お騒がせして申し訳ありません」

 ヨハンナ先生と、先生のお母さんで女将おかみのイヴォンネさん、先生のお父さんと妹のアンネリさんが、旅館の玄関で並んで頭を下げた。


「いいえ、頭を上げてください」

 母が言って、イヴォンネさんの手を取る。


 こんな形だけど、結婚する僕達両家の、初めての顔合わせになった。




 昨日の大晦日おおみそかの夜、アンネリさんから電話があったときは心臓が止まるかと思った。


「お姉ちゃんが病院に運ばれて……」

 アンネリさんにそう言われて、一瞬、クラッとした。


「お姉ちゃんが倒れて病院に運ばれて、お姉ちゃんが若女将わかおかみをやるって言い出して……」

 あのとき、アンネリさんは電話でそんなふうに言った。


「アンネリさん、落ち着いてください」

 混乱しているアンネリさんをなだめてくわしく話を訊くと、若女将をしている先生の姉、ペトロネラさんの具合が悪くなって病院に運ばれて、実家に帰っていたヨハンナ先生が、ペトロネラさんの穴を埋めようと若女将として旅館に立っている、そういうことらしかった。


 その時はあと少しで新年っていう時間だったから、僕は母と父と相談して、元旦の朝出発して、ここに駆け付けることになった。


「余計な心配をかけるから、塞君には言わないようにって、アンネリに言っておいたんだけど……」

 先生が言う。


「だって、家中大騒ぎだったし、旅館の方も満室で、大晦日とお正月で、バタバタだったから」

 アンネリさんが縮こまりながら言った。


「構いませんよ。何かあったときは、お互い様ですから」

 母が言う。


「それで、ペトロネラさんは大丈夫ですか?」

 僕は訊いた。


「うん、落ち着いてる。ここのところ忙しくてつかれがまってたみたい。それにね……」

 ヨハンナ先生が意味ありげにためを作る。


「塞君、君は叔父おじさんになるよ」

 先生が微笑ほほえんだ。


「えっ?」


「お姉ちゃんに、赤ちゃんが出来てたみたいなの」

 なんだ、そういうことか!


「おめでとうございます」

 母と父が、先生のご両親を祝福する。

「ありがとうございます」

 両家の親同士が、頭を下げ合った。


「そんなこともあって、念のため病院で様子を見ることになったけど、お姉ちゃんは大丈夫だから」

 ヨハンナ先生の言葉に安心する。



「それで、お忙しいと思うので、何か手伝いができればと思って来たんですけど、皆さんは旅館の方に掛かりきりだと思うので、母屋の家事は僕がやりましょうか?」

 僕が提案した。


「それはいけません」

 イヴォンネさんが首を振る。


 ベージュの花車の着物に身を包んだ先生のお母さん、イヴォンネさん。

 背筋がぴっと伸びた美しい姿勢で、先生よりも、もっと落ち着いた雰囲気があった。

 威厳いげんがあってなおかつ、全てを包み込むような優しさに満ちている。

 なんか、母と似ている気がした。


「僕に気は使わないでください。僕はヨハンナ先生の夫なるので、先生のご家族のピンチは、僕のピンチです。働かせてください。それに、ここのところ母と父が家にいて家事をしてしまうので、僕は家事がしたくてしたくてうずうずしてたんです」


「だけど……」

 イヴォンネさんが、僕の両親の方を見る。


「うちの塞でよければ、使ってください」

 母が言って、父も頷いた。


「本当に、申し訳ありません」

「すみません」

 先生のお母さんとお父さんに恐縮きょうしゅくされてしまう。


「塞君、ありがとう」

 青い瞳をうるませたヨハンナ先生が、僕に手を伸ばそうとして、一瞬ためらって止めた。


 たぶん、「ありがとう」って僕を抱きしめようとしたんだけど、両親の前だから我慢したみたいだ。



「それじゃあ、お義母かあさんとお義父とうさんは、ゆっくり温泉にでも入っていてください。枝折ちゃんと花園ちゃんも、のんびりしてってね。あとで、うちの板前さんのおせちを届けるから」

 先生が言った。


「やったー! 温泉だ! おせちだー!」

 花園が、無邪気に喜ぶ。

「こら、花園」

 って、母がゆるく怒った。


 だけど、花園の明るい声で、そこにいたみんなが笑顔になる。


「こちらが妹さんの花園ちゃんで、そちらが枝折ちゃんね。あら、枝折ちゃん、ちょっと雰囲気が変わったわね」

 イヴォンネさんが言った。


 あっ、まずい。


 前、ここにヨハンナ先生の婚約者として来たとき、車に隠れていた弩を、妹の枝折って紹介したんだった。


「これくらいの女の子だもの、どんどん、成長するよね」

 ヨハンナ先生がまゆを引きつらせながら誤魔化した。


「そうかしらねぇ」

 イヴォンネさんは首をかしげている。


「さあさあ、遠くからお疲れでしょう。どうぞ、こちらへ」

 事情を知っている先生のお父さんが、間に入ってくれた。

 白髪で渋い先生のお父さんは、霧島屋の紺の法被はっぴを着ている。

 お父さんのおかげで、どうにか事なきを得た。

 僕達は、お父さんに付いて母屋へ向かう。



「塞君、どう? 私の若女将姿?」

 廊下を歩きながら、ヨハンナ先生が僕だけに聞こえるよう、耳元でささやいた。


 もちろん、最高に決まってるじゃないか!


 霧島屋の廊下を歩いてると、小学生くらいの男の子が、向こうから廊下を走ってきた。


「はいそこ、廊下は走らない!」

 ヨハンナ先生が注意する。

 男の子は、「ごめんなさい」って素直に謝った。

「危ないから、走ったらダメだよ」

 先生が、膝を折って視線を合わせて、男の子の頭を撫でる。


 なんか、先生みたいな若女将だ。

 まあ、先生なんだけど。




「ここを使ってください」

 先生のお父さんは、僕達を母屋の客間に案内した。


「古い旅館ですけど、温泉だけは自慢なので、ご自由にお入りください」

 お父さんはそう言って、僕達の家族分の浴衣ゆかたと、綿入れ羽織はおりを用意してくれる。


「私達は大丈夫ですから、旅館の方、戻ってください」

 母が言って、お父さんが「それでは」と頭を下げた。

「それじゃあ、塞君、よろしくね」

 ヨハンナ先生もお父さんに付いて旅館に戻る。



「塞、がんばるのよ。お婿むこさんとして、認めてもらえるチャンスなんだから」

 僕達だけになった母屋で、母が言った。


「うん」

 もちろん、家事には全力で当たるつもりだ。



 僕はまず、溜まっていた洗濯物を入れて洗濯機を回した。

 各部屋と、内風呂の掃除をする。

 その間に洗い上がった洗濯物を干した。

 昼食とか夕食とか、忙しくて食べている暇がない先生達のために、軽くつまめるようにサンドイッチを作った。


 霧島家の人達は、ペトロネラさんが抜けた穴を埋めようと、アンネリさんも仲居さんの着物を着て頑張ってたし、先生のお父さんも広い風呂場の掃除をしたり、お客さんの送り迎えをしたり、忙しそうだった。


 そんな中、ヨハンナ先生は、若女将の仕事をテキパキとこなしている。

 先生は大勢のお客さん達の前でも堂々と振る舞った。

 普段、僕達みたいな四十人の生徒をまとめてるんだから、当然なのかもしれない。


 お客さんに頼まれて記念写真に応じたり、昼間からお屠蘇とそで酔っ払ったお客さんを上手くあしらったり、本当に若女将みたいに見えた。


 事情をよく知らないお客さんに、「日本語お上手ね」とか言われて「ありがとうございます」って笑顔で返す。

 ヨハンナ先生は高校の国語科の教師なんだけど。



 一方で僕の両親は、ゆっくりとお湯に浸かって、何度も温泉を堪能たんのうしていた。


 その間に花園と枝折を連れて近所のお宮さんに初詣はつもうでに行ったり、伊勢エビが入ったお重のおせちを頂いたり、お正月を楽しんでいる。

 先生のご両親は恐縮してたけど、うちの家族もゆっくりとした元旦を過ごせたみたいで良かった。




 夜遅くになって、母屋にヨハンナ先生が帰ってくる。


 僕は、先生の部屋で着物を脱ぐのを手伝った。


「慣れないから、疲れた」

 長襦袢ながじゅばんになった先生が自分で肩を叩く。

 僕は先生の背後に回って、肩を揉んだ。


「ありがとうね。塞君が来てくれて、家事をしてくれて、本当に助かった。母も父も、塞君に心から感謝してるよ。母が、良いお婿さんに巡り会ったねって、しみじみ言ってた」

 先生が教えてくれた。


 先生のご両親から認められて、涙が出そうになる。


 これも、主夫部で日々、鍛錬たんれんしてた結果だ。



「こんな日は、塞君にヘッドスパでマッサージして欲しいなぁ」

 二人だけの部屋で、先生がちょっと甘えん坊の顔を見せた。


 これは、先生が僕だけに見せてくれる顔だ。


「いいですけど、ここには洗髪台がないですし。あれがないと、先生が服を着たまま、髪を洗えません」

 僕が言ったら、ヨハンナ先生が「そうだねぇ」って空で考える。



「ねえ、内風呂に、二人で入っちゃおうか?」

「えっ?」

 だって、それって……

「いいじゃない、私達、もうすぐ結婚するんだし」

「ですけど……」


「それとも、私の裸なんて見たくない?」

 先生が悪戯っぽい顔で訊いた。

 長襦袢の襟がはだけて、先生の胸元が覗く。


 それはもちろん見たいけど。

 控え目に言って、ガン見したいけど。



「嘘嘘、お義母さんもお義父さんもいるし、ここは塞君を襲ったりしないで、猫をかぶって大人しくしてないとね」

 先生はそう言って、僕の髪をくしゃくしゃってした。


「あーあ、純情な男子高校生をからかうのは、楽しいなぁ」

 まったく、教師にあるまじき発言だ。


「だけど、これくらいはいいよね」

 先生が僕を抱き寄せた。

 先生の胸に抱かれて、息が出来なくなる。


 ヨハンナ先生、新年早々、僕をどきまぎさせないでください。

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