第324話 賭け

「はい、じゃあみんな、冬休み明け、元気で戻って来るんだよ」

 教壇きょうだんの上のヨハンナ先生が、僕達生徒を見渡して呼びかけた。


 いつものピシッとした紺のスーツで、今日は金色の髪をポニーテールにしている先生。


「いいこと、あなた達は、今まで一生懸命勉強してきたんだから、今更ジタバタしなくても大丈夫。それより、無理して体調崩して本番で実力を出せないことが心配。だから、しっかりと睡眠も休養もとりなさい」

 先生が、すべてを包み込むような優しい笑顔で言った。


「はい!」

 生徒全員がはっきりと返事をする。

 あんな笑顔で言われたら、本当にそうなんだろうって思えて、こっちも自信を持って返事が出来た。


「それから、何かあったら、遠慮なく先生に連絡しなさい。先生、大晦日おおみそか元旦がんたん以外は、お酒飲まずに待機してるから。酔っ払いでよければ、大晦日も元旦も駆け付けるけど」

 先生が言ってクラスメートを笑わせる。


 そんな先生を見ながら、やっぱり、この人が世界一素敵な人だって思った。

 これから、この人と一緒に生活出来て、洗濯したり、掃除したり、食事を作ったり出来ると思うと、嬉しくて表情が緩む。


 しかも、クラスのみんなは知らないけど、先生は家では甘えん坊なのだ。

 お姫様抱っこされるのが好きな甘えん坊さんだ。


「篠岡君」

 そう、ちょうどこんな感じで僕に抱っこをねだってくる。


「篠岡君!」

 この、ちょっときつめの感じもいい。


「篠岡君、聞いてる?」

 先生が僕を呼んだ。


「あっ、えっと、なんですか?」

 まずい、浮かれてて聞いてなかった。


「なんですか? じゃないでしょ!」

 腕組みした先生が僕をにらむ。

 クラスメートがクスクス笑った。


「もう、しっかりなさい。あなた日直でしょ? 今学期最後の挨拶をお願い」

 先生に怒られる。


「はい、すみません、起立!」

 僕は、すぐに立ち上がって号令をかけた。


 僕がごめんなさいって感じで先生を見ると、先生はぷいって視線をらす。


 先生を怒らせてしまったかもしれない。




 ホームルーム終わりで寄宿舎に帰って、今年最後の掃除をした。


 寄宿舎は普段から僕達が掃除してるから、大掃除の必要もないくらい綺麗だけど、今年最後だから念入りにする。


 主夫部全員、エプロンと三角巾、ゴム手袋で、完全装備だ。



 この冬休みも、寄宿舎からは寄宿生みんながいなくなる。

 北堂先生は仲直りしたご両親の所へ、ひすいちゃんと帰る。

 新巻さんは取材でヨーロッパ旅行へ行くって言ってた。

 萌花ちゃんと宮野さんは実家で家族と過ごす。


 そして、去年、うちで年末年始を過ごした弩も、今年は両親と一緒に新年を迎えるらしい。


「今年は母に同行して、年末年始の挨拶で色々な所を回ることになりそうです。そろそろあなたも、こういう場所にれないとねって、母に言われました」

 弩が、少し不安そうに言った。


 大弓グループの後継者として、弩の顔繋かおつなぎをするのかもしれない。

 政財界のお歴々の前に引き出されるのだ。


「大統領さんにも会うので、この前ドレスを作りました」

 弩が言う。


 どこの大統領か知らないけど、なんか、スケールが違いすぎる。



 そして、ヨハンナ先生も今年は、お正月を実家で過ごす。


「とっくに家を出て一人暮らししてた娘だけど、一応、結婚前最後のお正月だから、実家で過ごそうかと思ってね。まあ、うちは年末年始忙しくて、実家に帰ると手伝いに駆り出されそうだけど」

 先生はそんなふうに言っていた。


「塞君も、久しぶりにお母さんに甘えなさい」

 先生は意地悪な顔で続けた。

 今年の正月は長い休暇が取れて、母と父が家にいる。


 主夫部のメンバーも、御厨は縦走先輩の合宿所ですごして、錦織は「Party Make」のライブに付いて回る予定だ。

 子森君は、自分の包丁と掃除機を買うために、バイトにはげむらしい(自分の道具を持とうというのは、主夫部部員として、良い心がけだ)。



 部員みんなで丁寧に掃除をして、最後に玄関に注連飾しめかざりを据え付けた。

 締めは、みんなで御厨特製の栗ぜんざいを頂く。



「それじゃあ、今年の活動はこれで最後。解散しようか」

 僕が言って、部員のみんなが頷いた。


 荷物をまとめた寄宿生も、玄関に出て来る。

 火の元や戸締まりを確認して、玄関の鍵を閉めた。



 僕は、誰もいなくなった寄宿舎を見上げる。


「先輩、どうしたんですか?」

 弩が訊いた。


「うん、ちょっとな」

 誰もいない寄宿舎から、たくさんの女生徒の笑い声とか、語らいとかが聞こえてきそうだった。

 この古い建物には、多感たかんな少女達の、笑い声や涙や、葛藤かっとうや喜びが染みこんでいる。

 無人の寄宿舎から、そんな声が聞こえるような気がして、僕はしみじみと見上げてしまったのだ。


 こことも、もうすぐお別れだと思うと、ちょっと寂しい。


「それじゃあ、また来年!」

「元気で」

「よいお年を!」

「さよなら」

 林の獣道けものみちの出口でみんなと別れた。




 僕は、寄宿舎の鍵を管理人のヨハンナ先生に渡しに行く。


 さっき、ホームルームで怒られたのが気になっていた。

 先生、まだ怒ってるだろうか?


「失礼します。先生、寄宿舎の鍵、持ってきました」

 ヨハンナ先生は国語科教科室に一人でいた。

 机に向かって、書類の整理をしている。


 狭い教科室のすみに石油ストーブが置いてあって、ストーブの上のやかんが、コトコト蒸気を出していた。


「ご苦労様」

 先生は椅子から立ち上がって鍵を受け取る。


 そして、僕の脇を通ってドアまで歩くと、こっちを向いた。

 後ろ手に、カチリと鍵を閉めるヨハンナ先生。


 えっ?

 先生、なんで鍵閉めたんだ?



 鍵を閉めてドアが開かないことを確認すると、先生がいきなり僕にせまってきた。


「さっきは怒ったりして、ごめんね」

 先生が甘い声で言って、僕をぎゅっと抱きしめる。


「本当は怒りたくなかったけど、クラスのみんなの目もあるからね。けじめはつけないと」

 先生はそう言って、ほっぺたすりすりした。

 あの、先生、ファンデーションとか、付いちゃいますから。


「はい、分かってます。全然、気にしてません」

「ホント?」

「はい、だってあれは、僕が悪いんです。教壇の上の先生が素敵だったから、見とれてぼーっとしちゃったんです。こんな人が僕のお嫁さんになってくれるんだなって思ったら、感動しちゃって」


「もう、可愛いこと言うんだから! これ以上、君を好きにさせないで」

 先生がそう言って僕の髪をくしゃくしゃってした。



「お仕事、まだかかりますか?」

 先生の机の上には、まだ書類の束が積まれている。

「うん、もう少しかかるかも。だけど大丈夫、今、塞君を抱きしめたから、元気出た。これで頑張れる」

 先生が、ぐっ、って親指を立てた。

 そんなことで元気が出るなら、僕は何度でも先生に抱きしめてもらう。


「帰りの車、気を付けてくださいね」

 年末の渋滞とかあるかもしれないけど、無事に帰って欲しい。

「うん、ありがとう」


「年明けまで離れ離れになりますけど、我慢がまんできますか?」

 僕は訊いた。

「こらっ、それは私のセリフだよ」

 先生が人差し指で僕のおでこを突っつく。


「我慢出来ないかも。塞君と会えなくて、寂しくて泣いちゃうかも」

 先生が目の下に手をやって、泣きまねをした(一億年に一人の可愛さだ)。


「よし、どっちが我慢できるかけない?」

 先生が言う。

「賭け、ですか?」

「うん、寂しくなって電話を掛けてきた方が負け。なんでも言うことを聞くの」

「いいですよ。その賭け、乗りました」

 僕は絶対に負けない(先生、なんでも言うこと聞くって、言ったし)。



「それじゃあ、気を付けて帰りなさい。また、来年」

 先生が言って、僕達はもう一回、ぎゅって抱きしめ合って別れた。



 国語科教科室を出て、数歩、歩いたところで、僕のスマートフォンが鳴る。

「ごめん、賭け、負けちゃった」

 電話でヨハンナ先生が言うから、僕は教科室にとって返した。

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