第283話 夫婦

 バイトから帰って来た鬼胡桃会長が、母木先輩の目の前で僕を抱きしめた。

 会長のスーツに染み付いた汗と柔軟剤が混ざった匂いが鼻をくすぐる。


 すごく、安心する匂いだ。


「あの、会長。先輩が見てますし」

 僕は小声で言った。

「大丈夫、これは恋愛感情じゃなくて、母親が息子に注ぐような愛情だからセーフだよ。お母さんが息子にするハグだよ」

 鬼胡桃会長が言う。


 それを聞いた母木先輩は、余裕の表情で笑っていた。

 鬼胡桃会長と自分は相思相愛そうしそうあいだからっていう、余裕の笑いなのかもしれない。


 だけど、母親が息子に注ぐような愛って、僕と鬼胡桃会長、一つしか歳が違わないんですが、それは……



「よく来たね。元気にしてた?」

 鬼胡桃会長がそう言って、もう一度ぎゅって僕を抱きしめてから放してくれた。


「はい、元気にやってます」

「メールとかで近況は知ってるけど、やっぱりこうやって会う方がいいよね」

 会長が、上から下まで僕を値踏ねぶみするように見る。

「うん、ちょっとたくましくなったかも」

 会長は、母木先輩と同じ事を言った。


 会長がジャケットを脱ぐと、先輩がそれを受け取って、コップに入れた麦茶を一杯差し出す。

 母木先輩は、ジャケットから財布とかスマートフォン、鍵やハンカチを出して、ハンガーに掛けた。

 会長が一息で飲み干したコップを受け取って、今度はお絞りを渡す。


 無言で行われるその流れが、すごく自然だった。

 長年連れ添った夫婦みたいだと思った。


 これだけで母木先輩が立派に主夫してるのが分かる。

 僕は、サッカー部員がJリーガーになった先輩部員の活躍を見るように、先輩に尊敬の眼差しを送った。



「あの、ところで会長、髪、どうしたんですか?」

 僕は、黒髪ショートカットになった鬼胡桃会長に訊く。


「うん、忙しいからね。髪を洗うのも楽だし、バッサリ切っちゃった。色も黒髪に戻したの。その方がバイト先の親御さん受けがいいからね」

 会長が短くなった髪をかき上げた。


「僕は、統子の長い髪をお風呂で時間かけて洗うの、好きだったんだけどな」

 母木先輩が言って、鬼胡桃会長が「もう!」って肘で先輩を突く。


 あ、はい。


 もう、のろけは目一杯頂いてるんで、これ以上は胸焼けします。


「スーツも、似合ってます」

 僕は言った。

 それはお世辞とかじゃなく。


「ありがとう。生徒にめられないように、スーツ着てみたの。ヨハンナ先生の真似なんだけどね。まだ、全然、先生みたいにカッコよくはないけどさ」

 鬼胡桃会長が自嘲じちょうする。


「だけど、こうして家庭教師で生徒を持つようになって、改めてヨハンナ先生すごさが分かったよ。私なんて、一人の生徒を二、三時間教えるだけで、くたくただもの」

 会長はそう言うと、大きく息を吐いた。


 僕と会長が話している間に、母木先輩はバスルームに行ってシャワーを出している。

 お湯の温度を調節したり、会長の部屋着を用意していた。


「それじゃあ、私、ちょっとシャワー浴びてくるから、お風呂出たら、ご飯にしよ」

 鬼胡桃会長がシャツを脱ぎながら脱衣所に向かう。


 どこでも服を脱ぐのは、ヨハンナ先生の真似しなくていいです!


 僕は後ろを向いて会長を見ないようにする(見たかったけど)。



「みんなでつつけるように、今日の夕飯は寄せ鍋にするから」

 母木先輩が台所に立った。

 先輩が座ってろって言ったけど、さすがに食事の支度したくは手伝う。

 僕がテーブルをいて、先輩がカセットコンロを据えた。

 コンロの上に土鍋を置いて火を付ける。


 出汁だしを張った土鍋に、先輩が白菜や椎茸しいたけ、大根やニンジン、しらたきを入れた。

 鶏もも肉やつくね、ホタテに鮭の切り身に、エビもたっぷり入れる豪華なお鍋だ。

 先輩は鍋の他にも色々用意してくれていて、具がたっぷりの太巻きに、とろとろに煮込んだ豚の角煮と煮卵、ポテトサラダに自作の胡麻豆腐なんかを食卓に並べる。


 お皿やお椀、箸やコップを配膳はいぜんして二人で作業してると、部活の時間を思い出した。

 先輩と過ごした一年間の思い出がよみがえってくる。



「んー、いい匂い」

 鍋が丁度良く煮えた頃、シャワーを浴びた鬼胡桃会長がタオルで髪を拭きながら脱衣所から出てきた。

 水色のパーカーにショートパンツの鬼胡桃会長。


 会長の濡れたタオルを受け取って、裏返ったパーカーのフードを直してあげる母木先輩のさり気ない動作が目についた。

 先輩は細かい気遣いで鬼胡桃会長を包んでいる。


 本物の主夫として、母木先輩は僕なんかよりずっと進んでいた。




「それじゃあ、いたきましょうか」

 鬼胡桃会長が言って、三人で食卓を囲んだ。


 鍋をつつきながら、僕達は離ればなれになってからのことを色々と話した。


 僕は、新しい寄宿生の宮野さんのこととか、宮野さんが見付けた寄宿舎の仕掛けのこと。

 北堂先生とひすいちゃんのこととか、文化祭のこと。

 ヨハンナ先生の妹、アンネリさんのことに、夏休みのコテージでの生活や、遭難しかけた事なんかを話した。


 鬼胡桃会長と母木先輩は、このマンションでの新生活や、大学での話で僕を笑わせてくれる。

 そして、母木先輩は、一緒に暮らすようになって気付いた会長の可愛いところ、鬼胡桃会長は、一緒に暮らすようになって気付いた、先輩のカッコイイところを教えてくれた。

 そんな話が、夜中までずっと尽きない。


「もう、お腹一杯です」

 それは、胃袋的な意味でも、のろけ的な意味でも。


 最後に、母木先輩がデザートのサツマイモのアイスクリームを出してくれた。

 甘さひかえめで、さっぱりしてておいしい。

 お腹一杯でも、すっと入った。

 


 先輩が片付けをしてる間に、僕はお風呂を借りる。

 お風呂から戻るとテーブルが片付けてあって、布団が敷いてあった。


「篠岡は、それで寝てくれ」

 母木先輩が言う。

「あっちのベッドは、私とみー君の専用だからね」

 鬼胡桃会長がそんなことを言うから、僕の顔は真っ赤になってしまった。


 僕と入れ替わりで、母木先輩がお風呂に入る。



「さて、篠岡君、そこに座りなさい」

 すると、鬼胡桃会長が僕を布団の上に座らせた。

 僕が布団の上に正座すると、鬼胡桃会長も僕と向かい合って正座する。


「それで、篠岡君」

 鬼胡桃会長が、僕の目を正面からとらえた。


「それで篠岡君、あなたは、誰と結婚することに決めたの? 誰の主夫になるの?」

 会長が、いきなりそんな質問をしてくる。


「弩さん? それとも、ヨハンナ先生? 新巻さんかな? 萌花ちゃん?」

 鬼胡桃会長はそう言って僕に顔を近付けた。


「それとも、私の知らない女の子でも見付けたのかな?」

 会長、指をポキポキ鳴らしながら言うと、すごく怖いです。

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