第275話 三分間

「みなさん、大変でしたね。私は、このふねの艦長をしている篠岡といいます」

 母が入ってくると、食堂の空気が一変したような気がした。


 みんな、さっきまで眠たそうにしていたのに、パチッと目が覚めたみたいだし、空気の温度が、2度くらい下がった感じだ。


 ヨハンナ先生が立ち上がって、僕達もテーブルの椅子から立ち上がる。

 先生や女子達の顔が、緊張で強張こわばっていた。

 身内なのに僕まで緊張してくる。


 母は、二人の男性自衛官を従えていた。

 白い半袖の制服にスカート、肩に一等海佐の四本線の階級章を付けている母。

 胸にたくさん付いたカラフルな記念章が誇らしい。

 きっちりとまとめた髪は、いかり帽章ぼうしょうが付いた制帽の下に仕舞っている。

 優しく弧を描く眉毛に下に、キリッとした目元、引き締まった唇。

 170の身長だけど、すっと背筋が通っていて、それよりも高く見えた。


 久しぶりに会う母は、以前にも増して凜としている。



 母が目配めくばせすると、僕達を世話してくれていた自衛官と、母に付いていた二人の自衛官が食堂から出て行った。


 食堂は、僕達と母だけになる。



「すみませんでした!」

 母が言葉を発する前に、ヨハンナ先生が頭を下げた。

 先生は、母の前で90度以上、体を折る。


「大切なご子息しそくと、彼女達を危険な目にあわせました。本当に、申し訳ありません!」

 正面切って謝るヨハンナ先生に、僕達は息をんだ。


 そんなヨハンナ先生を見て、母が首を振る。


 そして、先生に近づいて顔を上げさせた。

「あなたが謝ることはないわ。あなただって、広い海の上で、これだけの子供を抱えて、心細かったでしょうに」

 母がヨハンナ先生の手を取る。

 そして、ねぎらうようにさすった。


 すると、先生の目から涙がこぼれ落ちる。

 先生の青い瞳から頬に涙が伝った。

 せきを切ったように嗚咽おえつらす先生。


 母が、ヨハンナ先生を抱きしめた。

 その背中を優しく叩いて「大丈夫よ」ってなぐさめる。


 僕は、先生がこんなふうにおおっぴらに泣くのを初めて見た。

 弩と萌花ちゃんが、もらい泣きしている。


 先生のことだから、漂流しながらずっと責任を感じていたんだろう。

 事故とはいえ、自分の生徒達を危険にさらしたことで、自分を責めていたに違いない。


 それなのに、ヨハンナ先生は僕達の前では一言も弱音を吐かなかった。

 ずっと前向きで、僕達にこんな状況でも必ず助かるって、思わせてくれていた。

 その分、先生には相当な重圧がかかっていたはずだ。


「もう大丈夫。あなたは良くやったわ。みんな、こうして無事でいるじゃない」

 母がハンカチを差し出した。

 ヨハンナ先生がそれを受け取って涙を拭く。


「それに、あなたのことは枝折や花園からも聞いているわ。私がいない間、息子や娘の面倒を見てくれて、ありがとう。本当に、心から感謝しています」

 母が言って、先生が「いいえ」と首を振った。

「息子も娘も、先生、先生って、メールで送ってくるのよ。おかげで、夏休みもお正月も、寂しい思いをしないで済んだようだし。それにしても、話には聞いてたけれど、先生、本当に美人さんねぇ。とりでが浮かれるのも無理ないわ」

 母がヨハンナ先生に笑いかける。


 母さん、余計なことは言わないように。



「さっき、ヨハンナ先生が呼ばれてたけど、今回のことで、ヨハンナ先生がペナルティを受けるようなことはあるの?」

 僕は母に訊いた。


 こうやって、救助される形になったし、借りていたクルーザーも壊れてしまった。

 学校で、先生の立場がまずくなってしまうことがないか心配だ。


 すると母が、「安心しなさい」って感じで僕を見た。

「今回のことは、ただの事故じゃないの。ちょっと複雑な事情がからんでるの。だけど、ヨハンナ先生に非がないのは確かだし、逆に、私達が助けられたと言っていいくらいだから、先生に処分が下されるようなことは絶対にありません」

 母が断言する。


 ん? 助けられた?


「今はまだ言えないけれど、もう少ししたら発表があると思うから、そのとき全部分かります」

 母が言って、ヨハンナ先生も頷く。


 なんだか狐につままれたような話だけど、とにかくヨハンナ先生が怒られることがないって分かってほっとした。


 だけど、それならさっき先生、なんで浮かない顔をしてたんだろう?

 それに、まだ発表できない複雑な事情ってなんだ?



 母が、ヨハンナ先生から離れて女子達のほうを向いた。

「みんなも無事で良かったわね。みんなが寄宿舎のお嬢さん達なんでしょ?」

 母親が言って、女子達が頷く。


「塞、何してるの? ほら、みんなをお母さんに紹介して」

 母に言われた。


「それじゃあ、えっと、彼女が弩まゆみさん」

 僕は、まず、すぐ隣にいた弩を母の前に引き出す。

 弩は恥ずかしそうに顔を真っ赤にした。


「あら、弩って、あなたが弩さんの娘さんなのね」

 母は、弩の肩に手を置いて、マジマジとその顔を見る。

 そうだ、僕の母と弩の母は、何度も顔を合わせている知り合いだった。


「ふうん、あなた、お母さんそっくりね」

 母が言う。

 あの、バリバリ働いて世界中を飛び回るお母さんと弩って、そんなに似てるだろうか?


「そして、彼女が河東萌花ちゃん。カメラマン志望で、もうCDのジャケットとか、色々仕事もしてる」

 僕が紹介すると、母は「へえ」って感心していた。

「あの、一枚、お写真撮らせてもらっていいですか?」

 萌花ちゃんが母に訊く。

「私なんて撮ってもしょうがないでしょ?」

 母は笑いながら言ったけど、結局、撮影を許して、萌花ちゃんが母の写真を撮った。


「そして、彼女は新巻ないるさん。売れっ子小説家で、枝折は彼女の小説の大ファンです」

「ふうん、学生で小説家で、すごいのね」

 母に言われて、新巻さんが「いえ」って小さな声で返事をする。

 普段、何事にも動じない感じの(幽霊以外は)新巻さんも、母の前では借りてきた猫状態だ。


「それから彼女が宮野たくみさん。建築家志望で、大工仕事が得意です。なんでも作っちゃいます」

「へえ、頼もしいわね」

 母が微笑みかけた。

「べ、別に僕はそんな……」

 宮野さんが、はにかんで頭を掻く。


「それで、塞の彼女は、この中のどなた?」

 突然、母が訊いた。




 時間が止まる。




 もう、これだから母親っていうのは困るんだ。


 女子達が、お互いに顔を見合わせていた。

 顔が引きつっている。

 なんか、変な空気になってしまった。


「えっ、いないの? こんな素敵なお嬢さん達がいるのに手を出さないなんて、私、教育間違えたかしら」

 母がそんなふうにとどめを刺す。


 さっきまで泣いていたヨハンナ先生が、苦笑いしていた。

 張り詰めていた空気が急に溶けた気がする。



「これから、みんなを元いたコテージまでヘリコプターで送り届けます。乗っていたクルーザーは、ちょっと調べることがあるから、こちらで回収して、あとで持ち主に返すことになるでしょう。さっきも言ったけど、誰かが責任をかぶるようなことはないから、安心して」

 母が言う。

 その時、食堂のドアをノックして、一人の自衛官が顔を出した。


「分かっています。あと3分待ちなさい。すぐに行きます」

 母がそう言うと、その自衛官が顔を引っ込める。

 艦長という立場で忙しい中、母は無理して僕達に時間を割いているんだろう。


「それじゃあ、ここで3分間だけ、母親に戻っていいかしら」

 母が、ヨハンナ先生や女子達を見渡して言った。

 みんな、わけも分からず頷く。


 すると、母が僕を抱き寄せて、思いっきり抱きしめた。


「もう、みんなの前で恥ずかしいから」

 僕は抗議する。

 女子達の前で抱きしめられて、僕がいつもこんなことしてるマザコンとか思われたら恥ずかしい。

「いいじゃない。普段会えないんだもの。会ったときは思いっきりスキンシップをとらなきゃ」

 母が僕の耳元で言った。


 ヨハンナ先生が、女子達に後ろを向かせて、僕達のことを見ないようにしてくれる。


「休暇で家に帰ったら、枝折と花園をうんと甘えさせてあげて」

 ふところに抱かれたまま、僕は母に頼んだ。

 僕なんかより、これから家に帰ったら、枝折と花園をずっと抱きしめてあげて欲しい。


「ええ、分かっています」

 母が言って、僕の背中を優しく叩いた。

「それより、あなたも毎日家を守ってくれて、本当にご苦労さま。あなたがいてくれるから、私は安心して仕事が出来ます」

 母が言う。


 母からは、ほのかに、さっき抱きしめたヨハンナ先生の匂いもした。



 結局、3分間、僕は母にぎゅっと抱きしめられた。

 短い時間だったけど、会えない時間を埋めるくらいの濃厚な3分間だった。


「それじゃあ塞、頑張りなさい。先生、愚息ぐそくをよろしくお願いします。それから皆さんも塞のこと、よろしくね。もし、嫌じゃなかったら、誰か彼女になってあげて」

 母がそんなふうに言い残して、食堂を出る。


 最後の言葉が余計だ。


 女子達が、母の背中を尊敬の眼差しで見送った。

 母をそんなふうに見てもらえると、息子として、自分のことのように嬉しい。



 ここに来たときと同じように、僕達は男性自衛官に案内されて、ヘリコプターに乗った。

 ヘリコプターが飛び立って、「あかぎ」の全体が見える。



 帰りのヘリコプターで上空から見る護衛艦「あかぎ」は、やっぱり、母みたいに大きかった。

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