第189話 どっち

「これで、最後ね」

 鬼胡桃会長が言った。

 会長は自分の部屋から持ち出した段ボール箱を、縦走先輩に渡す。

 縦走先輩がそれをトラックに積み込んだ。


 201号室から206号室まで、六部屋を使っていた鬼胡桃会長の荷物を運び終わって、これで、卒業生全ての荷物が片付いた。


 207号室の古品さんの部屋の荷物も、208号室の「Party Make」の衣装も、すでに全部運び出されている。


 片付いてしまうと、寄宿舎の二階は、211号室の新巻さんを残して、部屋を使う人が誰もいなくなる。



「よし、あとは部屋の掃除だ」

 母木先輩がいつものように割烹着を着て、腕まくりをした。


「そうね。三年間お世話になった部屋だもの、私も、心して床を磨くわ」

 鬼胡桃会長も、お揃いの割烹着姿になる。


 寄宿生と主夫部、みんなで分担して、201号室から208号室まで、床を磨いた。


「僕が開発に協力した、スペクトラムXXXトリプルエックスマーク3床用を使ってくれ」

 母木先輩がそう言って、みんなに乳白色の洗剤を配る。


 先輩、相変わらず洗剤メーカーのモニターしてるのか。

 前はマーク2だったから、進化している……


 先輩が薦める洗剤だけあって、家具のゴム足の跡とか、昔、飲み物を零したシミとかが、すっきりと落ちた。


 僕は、208号室の床を、母木先輩と二人で磨く。


「篠岡、頼むぞ」

 磨きながら、先輩が言った。

「はい?」

「この寄宿舎も、そして主夫部も、後をよろしく頼む」

 母木先輩が、しみじみと言う。


 先輩は優しい顔で、愛でるように丁寧に床を磨いていた。


 先輩が磨き続けていたこの建物も、そして、部員みんなで盛り上げてきた主夫部も、先輩にとってかけがえのないものなのだ。

 先輩の横顔に、そこを離れる寂しさが浮かんでいる。

 元々先輩はイケメンだし、男の僕も惚れてしまいそうな、綺麗な横顔だ。


「この主夫部も、そしてこの建物も、いつまでも残るように、後に引き継いでくれ」

 先輩が言う。

「はい」

 大役だけど、僕はそう返した。


 実質的に、主夫部の部長を務めてくれていたのは、母木先輩だ。

 主夫部を作ったのは僕だけど、母木先輩が支えてくれてなかったら、こんなふうに続かなかったと思う。

 僕達が突飛な意見やアイディアを出しても、先輩はそれを上手くまとめてくれていた。

 僕達の大黒柱だった。


 これからは、僕や錦織が最上級生になるんだし、母木先輩に頼っていた分、僕達が中心になって動かないといけないんだろう。

 とりあえず、新入生を何人か入れて、部員を増やさないと。


「高圧洗浄機とか、掃除用具は置いていくから、使ってくれてかまわない。その代わり、夏休みにでも帰ってきて、もし、ここが荒れていたら、僕は許さないぞ」

 母木先輩が、爽やかな笑顔でそんなことを言う。


「はい、ありがとうございます。先輩も、向こうで頑張ってください」

 そんな当たり前のことしか言えない自分が歯痒かった。




 二階の掃除を終えて、食堂で、みんなでおやつを食べる。


 御厨が用意した今日のおやつは、白玉ぜんざいだ。

 なめらかなこしあんの中には、もきゅもきゅと噛み心地がいい白玉の他に、大きな栗が一つ、入っている。

 甘いぜんざいが、引っ越しと掃除で疲れた体に染みた。



「最後に、もう一度、篠岡に髪を洗ってもらおうかな」

 当然のようにぜんざいのおかわりをしながら、縦走先輩が言った。


「それじゃあ、私もお願いしようかしら」

 鬼胡桃会長も言う。


「それなら私もお願いね」

 古品さんが言った。




 おやつを食べ終わって、先輩達と四人で洗髪台がある脱衣所に入る。


「先輩達ばかりずるいです。私も洗ってもらいます」

 弩が言って口を尖らせた。

「私も洗ってもらおうかな。引っ越しとか、掃除とかで汚れちゃったし」

 ヨハンナ先生も言って、脱衣所に入ってくる。


「あなた達はこれからも洗ってもらえるんだからいいでしょ? 今日は私達、卒業生だけよ」

 鬼胡桃会長が言って、弩とヨハンナ先生を脱衣所から追い出した。


 そしてなぜか、鍵をかけて外から開けられないようにする。



「じゃあ篠岡、そこに座れ」

 縦走先輩が言って、僕は洗髪台の椅子に座らされた。


「えっ? 僕が、先輩達の髪を洗うんじゃないんですか?」

 僕が訊くと、三人はお互いに顔を見合わせて含み笑いをする。


「もっと、いいことしましょうか?」

 古品さんが意味ありげに言った。


「ちょっと、お話しましょう」

 鬼胡桃会長が言って、僕が座った椅子を三人が囲む。


「で、篠岡君」

 真ん中に鬼胡桃会長、右側に縦走先輩、左に古品さんの順番で並んだ。


「ここを去る者として、あなたに聞いておかないといけないことがあるの」

 鬼胡桃会長が言った。


「それが私達の役割だと思うから」

 古品さんが続ける。


「な、なんでしょう?」

 そんなふうに前置きされて、三人に囲まれて、僕は唾を飲んだ。

 洗髪台の椅子に座らされていて、僕には逃げ場がないし。


「あなた、弩さんとヨハンナ先生、どっちなの?」

 鬼胡桃会長が訊いた。


「えっ? どっちって……」


「もちろん、篠岡君は、二人の気持ちには気付いてるんでしょ?」

 古品さんが僕に顔を寄せて、訊く。


「へぇ?」

 古品さんが変なことを聞くから、変な声が出てしまった。


「二人の気持ちって……」


「まさか、気付いてないとか言わないよな。恋愛に鈍い私でも、分かるんだぞ」

 縦走先輩が、僕の肩に手を置いて言う。


「いえ、あの、なんのことだか……」


「弩さんとヨハンナ先生、二人があなたのこと想ってるって、分かるでしょ?」

 古品さんが訊いた。


「確かに、二人は僕に対して好きって言ってくれたり、そんな態度を示してくれたりしますけど、それはふざけてるっていうか、面白がって、やってくれてるんだと……」


「まあ、呆れた。あなた、鈍いこと山のごとしね」

 鬼胡桃会長に言われる。


「彼女いない歴=年齢をこじらせると、こうも鈍くなってしまうのか」

 縦走先輩が言った。


「主夫部でしょ? 女の子の気持ち、もっと分からないと」

 古品さんにも言われる。


「それじゃあ、二人は……」

 僕が言うと、

「当たり前じゃない!」

 三人が声を揃えて返した。


 当たり前なのか……



「で、どっちなんだ?」

 縦走先輩が訊いた。

 先輩が僕の肩に置いた手に力がこもっていて、肩が痛い。


「どっちもなにも、二人とも素晴らしい女性で、僕なんかには、もったいないっていうか……」


 ちょっとだらしなくて大酒飲みだけど、凄く綺麗で、スタイルも良くて、教師でいるときは凜々しくて格好いいし、案外熱血で生徒想いのヨハンナ先生。


 「ふええ」とか言って世間知らずだけど、凄く可愛くて、妹みたいで、実は大財閥の後継者で、時々キラリと光るその才能の片鱗を見せる弩。



 それは、僕だって、二人のうちのどちらかのパートナーになって、僕が主夫として生活出来たらって、夢想したことはある。

 けれど、それは夢の範囲を超えなかった。

 小さな子供が、Jリーガーになるとか、漫画家になるとか、そんなふうに語る夢と同じくらいの。


「まったく、はっきりしないわね!」

 鬼胡桃会長が言う。


「そんな曖昧な態度とってると、二人とも逃がしちゃうかもね」

 古品さんが言った。


「まあ、それが篠岡の良いところでもあるんだけどな」

 縦走先輩が言う。


「すみません」

 僕が謝ると、三人の先輩は、ため息を吐いて、仕方がないって感じで僕を解放してくれた。

 話にならないって、呆れたのかもしれない。



「だが、もし篠岡が中途半端なことをして、この先、二人のどちらかでも泣かせるようなことがあったら、この私が許さないぞ。どこにいてもすぐに駆けつけて、篠岡を殴る。マウントポジションをとって、二十四時間、殴りづける」

 縦走先輩が拳を固めて言った。


「私も、もし篠岡君が二人に酷いことしたら、全国の私のファンに、あなたの写真を送って、賞金首にするわ」

 古品さんが言う。


「篠岡君は、私が祖母から継いだ切れ味鋭い短刀を持ってるの、知ってるわよね?」

 鬼胡桃会長が笑顔で訊いた。


 三人とも、すごく怖いです。


「まあ、篠岡がそんなことしないのは、分かってるけどな」

 縦走先輩がそう言って破顔した。




「先輩達、まだですか? 篠岡先輩の独占は、ずるいです」

 ドアの外から、弩の声が聞こえる。

 弩はそう言って脱衣所のドアを叩いた。


「早く出てきなさい!」

 ヨハンナ先生も、その後ろにいるみたいだ。



 縦走先輩が、脱衣所のドアの鍵を開ける。

 二人が中に入ってきた。


「あれ、先輩達、髪洗ってもらったんじゃないんですか?」

 脱衣所に入ってきた弩が訊く。

 先輩達三人の髪は、乾いたままだ。


「うん、ちょっとね」

 古品さんが、そう言ってウインクした。


「さあ、二人とも篠岡に存分に髪洗ってもらってくれ」

 縦走先輩が言った。


「わあぃ」

 と、弩とヨハンナ先生が弾けた声を出す。

 三人の先輩達が脱衣所を出て行った。


 脱衣所で、弩とヨハンナ先生と、三人になる。


 僕は、このあと、どんな顔して、ヨハンナ先生と弩の髪を洗ったらいいんだろう。

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